我が国日本は、物質的にとても豊かな国である。ありとあらゆるものがそろっている。僕は車の免許も車そのものも持っていないが、日本の成人で車の免許をもっていない人はとても珍しい。外食産業も飽和していて、一ヶ月間外食なしという人も珍しいのではないか。また、i-Podやパソコンなど、電子機器もほとんどの人が持っているし、携帯電話を持たない人も、今となっては探すのさえ難しい。
だが、恋愛に関してはどうだろうか。恋愛的に豊かな国と言えるだろうか。
われわれ日本人もやはり他の国同様に「恋」をする。胸のトキメキを歌う大衆歌は今もとても多い。一見すると、恋愛においても豊かな国と言えるかもしれない。恋愛本は多量にあるし、恋愛ビジネスも盛んであるし、ランデブーを存分に楽しめる環境はかなり整っている。都市部は「恋愛」をターゲットにした商品や空間で溢れている。
だが、そうした「恋愛」は「幻想」で終わることが多い。「恋は盲目」ということに、人は早かれ遅かれ気づく。ある23歳の若い女子学生(大学院を目指す聡明な子)が言っていた。「私は、恋よりもお金を取ります。恋は幻想だったとたびたび気づかされたからです。だいたいトキメキで恋をしても、その後に失敗だったと気づくんです」。このコメントを聴いて、なんだか切なくなった。恋VSお金という単純な図式に。
純愛を貫くか、純愛を否定し財に信頼を寄せるか。そうした二項対立こそ、最も悲しい対立のような気がするのだ。愛かお金か、という選択肢は、日本の恋愛偏差値の低さを物語っているようにも見える。
では、われわれはこの二項対立を超えることはできるのか。われわれは恋愛を行うにあたって、いかなる条件を有しているのだろうか。恋愛の基準とは何か。もちろん恋愛の後の話、つまり結婚もその射程に入ってくる。われわれは恋愛や結婚をする際に、何を基準にして、何に基づいて、相手を選択するのだろうか。
①ルックス
若いカップルや若い夫婦の話を聴いていると、やはり恋愛のスタートラインはルックスにあるようだ。「かっこよかったから」、「タイプだったから」、「かわいかったから」といった外見に基づいて、パートナーを選択している人はかなり多い。特に若年層では、かなりの若者がルックスで恋をしているようだ。ルックスは視覚的な刺激を人に与え、胸のトキメキを生じさせる。しかし、なぜある特定のルックスが「いいルックス」と判断されるのか、ということについてはまだまだ不明である。また、その「いいルックス」も時代の流れの中で変わっていくから、普遍的とはいえない。
②性格の一致、趣味の一致、目的の一致
ルックスによる恋愛は幻想であることが多い。ルックスが優れた人=素敵な人という観念は間違っていたことに気づく(①の段階で結婚してしまった人は離婚に発展してしまう場合が多い)。そうすると、ルックスではない「基準」を求めるようになる。そこで、一番分かりやすいのが性格や趣味の「一致」だ。大学生などに聞いてみると、「趣味が一緒だから」、「目指すものが一緒だから」、「自分と似ているから」、「学歴が似ているから」、「価値観が一緒だから」、という理由で付き合う人が多い。この「一緒」、「一致」というのは、極めて明確で、シンプルで、根拠にしやすいものである。これでうまくいく人もいれば、いかない人もいる。特に、同一化は差異化を際立てやすいので、「あの人は似ているのに、違うところがあって許せない」という差異の否定と同一化の強制へと発展してしまう恐れが多々ある。
③経済力(財や富)
ルックスも性格や趣味の一致も、恋愛の根拠となり得なかった人は、相手の所有物に目が行くようになる。この③は女性に多く見られる現象かもしれない(経済的に男性に依拠しなければならない日本社会の現実を考慮しなければならない)。上の女子学生のコメントはまさにここに該当する。若い女性と接することの多いkeiは、女性がこの③を恋愛の条件にしている、という事実に度々驚かされる。男性の経済力に自分たちの結婚の基準を置いている女性は実に多いのである。子どもを育て上げなければならないという女性の本能だろうか? よく「恋愛の二極化」という言葉を聴くが、これも経済力に基因する。しかし、恋愛や結婚、あるいは夫婦生活は、経済力では片付けられない「生活」という問題を含んでいる。二人が共に生きる上で、お金はあるに越したことはないが、かといってお金ですべてが片付くわけでもない。奥菜恵も、超お金持ちだった元夫に、「これだけ買い与えて不自由ない生活をさせてるじゃないか」と言われて、愕然としたようだ。また、とある商社で40年バリバリ働いてきた紳士によると、お金持ちは愛人をもつケースが多く、お金によって女性の自尊心が傷つけられる場合も多いようだ。
④人間性(尊敬、信頼)
①~③は、恋愛の基準として妥当なものではあるが、「愛」という深い出来事の全体を捉えられているとは思えない。何かゆがんだものを感じざるを得ない。「え?それって愛なの?」と疑問視してしまう自分がいる。②はやや人間的ではあるが、似たもの同士がくっつくことには、若干の怖さを感じざるを得ない。われわれはやはり人間として、ルックスだとか、性格だとか、財力だとか、そういう次元を超えた「高次の判断力」を持っていると思う。快を引き起こすものではなく、調和(ハーモニー)や美を感じる判断力というか。生き方として美しい人間に惹かれる、というか、全体的にバランスのとれた(ハーモニーのある)人間に魅せられる、というか。そういう判断力は、誰もが(根本的には)持っているとは思うが、それをきちんと使っている人は少ないように思う。しかし、32歳になって強く思うのだが、素朴で安全で全体的にまとまりのある善良な人たちは、実に幸福な恋愛生活を送っているのである(僕がどうこうというのではなく、色んな人を見ていて思うのだ)。海外の先進国では離婚が多発しているが、面白いことに、一度目の恋愛(結婚)は①や②の基準で行われたが、二度目の恋愛(結婚)は③で選ぶことが実に多いのである。失敗して学ぶ、と言えばいいのか、二度目の結婚相手は実に素朴で善良な相手なのである。失敗して、人間性を見る目が鍛えられた、と言ってもいいかもしれない。人間性を恋愛の基準に置くためには、自身の高い人間性が求められるのである。
恋愛や結婚は、就職と同じくらい、いやそれ以上に(個々人の人生において)重要な事象である。もちろん色んな恋愛のカタチがあっていいと思う。だが、どんな恋愛であろうとも、それは長くたいへんな航路である。忍耐や辛抱が強く求められる営みである。ケンカや言い争いのない恋愛など存在しない。いや、たとえ表面的にそういうぶつかり合いがなかったとしても、内面では激しい葛藤が生じているのである。それくらいに、恋愛や結婚は人間に強い影響を及ぼすのだ。
恋愛に答えはないが、われわれはそのつどの恋愛を生きなければならない。相手の選択は、まさに「人間交差点」ともいえるような衝撃的な選択である。相手次第によって、その後の人生はガラリと大きく変わるのである。恋愛がきっかけとなって殺し合いさえ起こっている。いろんなことを理由に恋愛を批判することはできるが、最終的に「誰を選択するか」は自分次第である。自分の責任である。自分の目が優れていなければ、本当に優れた人間を選ぶことはできない。
よい恋愛をするためにも、まずはやはり自分の生き方を省みて、自分の目や知性を豊かにすべきではないだろうか。そうすれば、長い人生を共にする素敵なパートナーが(自ずと)見えてくるのではないだろうか。正しい理性は、まずもって恋愛に対して行使しなければならない!
同じ素敵な景色を見るなら、どんな人と見たらいいのだろう?