コピーとオリジナルという問題がある。
現代社会は、IT時代とも言われ、コピーがとてもしやすい時代である。ともすると、コピーが本物であるかのような感覚にさえなってしまう。コピーとオリジナルの問題は、現代的な悩ましい問題ではないだろうか。
音楽の世界では、コピーとオリジナルの境界線がかなり希薄になりつつある。CDというメディアをとってみても、今日の社会はオリジナル盤を購入することなく、ダウンロードで音楽が買えるようになった。i-Podの出現で、CDの現物を買うことなく、ネット上で音の情報を入手することができるようになった。ダウンロードされた音楽はそのまま自分のPCでCD-Rに焼くことができる。音はCDとなんら変わらないどころか、最近ではCDよりも音を高品質にすることさえできる、という。コピーがオリジナルを越えた、というところか。(また、ニコニコ動画やyou Tubeなどのメディアの発達によって、映像もコピーとオリジナルの境界がぼやけてきた!)
ミュージシャンの間でも、コピーとオリジナルの境界があいまいになりつつある。昔は「コピーバンド」というと、オリジナルの曲をやるバンドよりも一つ下のレベルと見なされていた。だが、DJなどの出現により「サンプリング」の機能が洗練され、オリジナルとコピーの境がなくなってしまった。コピーでありながら、オリジナルになっているのだ。さらには、この10年間で、カバー曲が大ヒットを飛ばすようになった。そのままそっくり真似をするのではなく、現代風にアレンジが施されている。なので、コピーでありながら、オリジナルさながらになっているのだ。(こうした状況を、「シミュラークル」と呼んだりする。cf.東浩紀 参照)
ここで僕はコピー=悪とか、オリジナル=正義とか、そういうことが書きたいのではない。そうではなく、コピーとオリジナルの境界線が見えにくくなった、ということが言いたいのだ。もちろんコピーなくしてオリジナルはない。けれど、出されたものがコピーなのか、オリジナルなのか分からないものが多すぎるのである。
研究業も同じように思う。この数十年の科学の進歩は、抜本からの進化ではなく、応用的な進歩がほとんどだ。オリジナルの研究(つまり単著論文)のオリジナリティーがとても見えにくくなっているのだ。どこかで書かれた事柄の使いまわし的な論文が圧倒的に多く、研究者一人ひとりのオリジナリティーが感じられにくくなっている。
これは僕自身の問題でもある。
この数年間、僕は自分の方向性が定まらず、不安定な研究人生を迷い迷いに進んでいる。大学時代から学んできた「現象学」に絶望し(断絶し)、その先にあるものが見えずにもがいている。そのもがきの中で、離婚家庭のことや、赤ちゃんポストのことや、実践研究のことなどについて論文を書き続けた。ラーメン屋さんと教育というテーマもその中で出てきたものだ。なんでもかんでも手を出すわけではないが、かなり手当たり次第って感じはする。オリジナルを求めて、優秀なコピーを拒否して、、、
来週、ドイツのハンブルクに行き、赤ちゃんポストの発祥の場所に行ってくる。赤ちゃんポストをドイツで設置した団体への調査/取材の許可ももらった。ドイツ語を学び、福祉を学び、心理を学び、教育を学び、哲学を学んできた僕にとっての新たな地平。僕自身のオリジナルを求めての訪問とも言えなくもない。
誰もこれまでしてこなかったオリジナルの研究。オリジナルを産み落とすことは、コピーの時代の現代にはとても難しいことだ。コピーをあたかもオリジナルであるかのように騙す研究も数多いが、僕は最後まで、死ぬまでオリジナルにこだわっていきたいと願うようになった。コピーはやはりどこまで行ってもコピーなのだ。だから、僕は優秀なコピーバンドを目指すのではなく、劣等でもいいからオリジナルを求めていきたい。
その根底には、「まだ見ぬ世界」への期待が僕の中にある。すでに見た世界を描くこともよいが、やはり僕はまだ見ぬ世界に憧れを感じるのだ。誰かが描いた世界をただ模倣するのはなく、誰も描かない絵を描いてみたいのだ。そう、コピーとオリジナルの境目があいまいだからこそ、強烈なオリジナルに憧れを抱くのだ。クリエイティブな思考が今ほど問われる時代はなかったようにも思える。創造的な仕事、独創的な仕事、何かを産む仕事は、「逆境」の中でこそ真価が問われるのだ。
既にあるものを描いた「コピー」と、まだ見ぬものを信じて待つ「オリジナルの世界」。見た目ではなく、中身や質でオリジナルを見つけ出していきたい。