TBSの「報道特集」で、「子を連れ去られた親たち」という特集番組が放送された。
夫婦の離婚の犠牲になる子どもの数は25万人(番組データ)。離婚件数も25万件くらい。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei09/index.html
夫婦が離婚を決意する時、どちらもが納得のいく結論を出すことは難しい。まともに会話ができれば、離婚など決意しない。関係の断絶、信頼の崩壊、そういったものが、離婚へと向かわせる。
お互いに納得しあい、子どもをどのように育てていくか、きちんと対話ができれば、離婚が子どもに与える影響は最小限に留められる。だが、そういうケースは極めて稀だが、反目しあいつつも、現在では、「面会」くらいは可能な離婚がスタンダードになりつつある。だが、半ば強引に、別居、離婚が実行される場合もある。
その中で、問題となるのが、「子どもの連れ去り」だ。
これは、とにかく難しい問題だ。現在、DV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)が施行されており、一度連れ去られると、相手の居場所を突き止めることが難しくなっている。
http://members.jcom.home.ne.jp/k-fukurou/dv-law.htm
「子どもの連れ去り」は、多くの場合、夫とまともに会話ができず、中には暴力も受けている場合もあり、命からがら、「凶悪な」夫から逃げることもある。夫の妻への暴力は、凄まじいものがある。毎晩、殴られ、土下座させられ、自尊心の全てを破壊するような行為が繰り返されるというDVもある。しかも、家の内部の出来事であり、「密室」で、(多くの場合)深夜に行われる。恐怖に支配される日々。子どもがいる家庭では、それを毎日子どもも見るのである。最悪である。そういう背景の中で、このDV防止法が作られた。
が、夫婦の関係とはそんな単純なものでもない。妻側が、このDV防止法を利用して、DVなどしていないのに、自分の都合で、子どもを連れ去り、夫と断絶するケースもある。何も夫に告げず、突然、姿を消す。子どもも連れて。そういうケースも顕在化されつつある。今回の放送は、そこに光を当てた。
出ていたケースは、2度にわたって、家出をした妻が、さらに家出をし、突然、ある日、保育園から子どもを連れ去って、そのまま音信不通、というものだった。それに対して、夫側が裁判に踏み切ったが、家庭歳場所でも、棄却。そして、それを不服として高等裁判所にも訴えたが、こちらでも棄却。事実上、夫は、妻子と会うことは不可能となってしまった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yosiya510448/105-3.html
家庭内の夫婦の関係は外側からは見えない。分からない。DVがあったかどうかも、客観的証拠がなければ、判断できない。たとえば、長年の「無視」や「言葉による暴力」は、判断のしようがない。
そうなった時、裁判所(つまりは行政・国家権力)は、「母親優位の原則」と「持続性の原則」にのっとって、連れ去った母側に有利になるような判断を下す傾向が強い(と、報道されていた)。
これは、僕らの素朴な先入観にも合致する。「子どもは母親に育てられるほうがよい」、「できるだけ変化させないで、現状維持が望ましい」という素朴な先入観が、司法においても通用している、というのだ。ゆえに、連れ去られた方(主に夫)が裁判所にいくら訴えを起こしても、「棄却」されるだけであり、訴えを起こせば起こすほど、事実上、問題解決できなくなるのだ。
DV被害のことを考えれば、やはり母子は守られねばならない。だが、虚偽のDV被害を訴えて、夫の過失がないにもかかわらず、妻の感情的問題から、父親から子どもを引き離す、というのも腑に落ちない。
問題の根っこは、ここにある。
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夫婦の問題は、僕ら人間社会の大問題の一つだと思う。「自由恋愛」を讃美し、耽溺してきた戦後の日本。さらには、恋愛開国も果たされ、多くの人が外国人とも結婚するようになった。ハーフの子どもも今では決して珍しくない。国内だけでも、離婚問題はとても難しいのに、海外の相手と結婚するとなったら、さらに問題はねじれてくる。外国の人間は、それは魅力的だが、実際DVも虐待も欧米の概念だった。つまり、欧米においても、DVや虐待は日々起こっているわけで、問題の所在は世界のどこにいても同じだ。
現在、日本は、離婚による不当な連れ去りを禁ずるために作られた「ハーグ条約」批准に向けて動いている。外務省がその担い手だ。国を超えた夫婦の問題は、各国家間が協定し、国際的に解決していかなければならない。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol82/index.html
ただ、この「ハーグ条約批准」をめぐっては、当事者たち(外国人と結婚した後に、子どもを連れて日本に帰ってきた女性たちとその支援者たち)から、激しい非難の声が上がっている。
http://hague-shincho.com/problem
そもそもハーグ条約自体が、今日において妥当なものなのかどうか、それが問われている。その中で、今、日本がこれに批准することで、日本人(主に女性)はきちんと守られるのか。事実、日本人女性が外国人男性と結婚する場合、その多くが男性のいる国に移り住むことになる。その先で、夫婦間に問題があった場合、そして、それがDVだった場合、母親は子を連れて、日本に帰ってくる。が、このハーグ条約が適用されてしまうと、その相手の男性の国に返すことが義務付けられることになる。
この点については、以下のサイトを参照!
http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2011/CK2011071002000097.html
子どもの連れ去り問題は、世界的な問題にまで発展している。なお、(未確認ですが)子どもの国外連れ去りは、国際的には「違法」との考えのようだが、日本ではその辺が非常にあいまいなんだそうだ。(連れ去りという悪と、DV等という悪のどちらがより悪なのか、という問題になる)
http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2010/07/adr-c944.html
http://ameblo.jp/bluerose1226/entry-11231365583.html
DV等の暴力は許されることはない。だが、それと同様に、夫婦の一方が子どもを連れ去ることもまた許されるものではない。どちらも、子どもにとっては不利益となる。「連れ去り」自体は悪であったとしても、DVについてはその客観的妥当性が見出されにくいので、余計に問題がこじれる。この問題が、離婚問題をより難しいものにしている。
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この問題は、ローカルな問題であるのと同時に、グローバルな問題でもある。個人では解決しえない問題でもある。
僕的に、この問題を考える上でのポイントは以下のこと。
①子どもにとっては、父と母は、どちらも大切な存在であるということ。「どちらか」ではない、ということ。そのことを前提として、話を進めること。離婚すること自体を否定するのではなく、離婚後に、きちんと父、母双方に会えることを保証すること。(それがとても難しいことは重々承知の上で)
→これは「共同親権問題」につながる。これもまた難しい問題だ。
http://kyodosinken.com/
http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=3482&wv=1&typeFlag=1
http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=185
http://park21.wakwak.com/~healer/parent/index.html
②男女共に、それぞれ相手が「他者」であるという認識から出発して、結婚を行うこと(つまりは、個々の人間の恋愛観・男女観・結婚観のレベルアップ化)。恋愛とは盲目である。その盲目から目が覚めるのが、結婚という制度であり、また相手の財産や物的充足の無意味さという経験である。結婚とは、事実としては、他者と共に暮らす営みである。他者と共に暮らすということは、異なる文化が融合することでもある。だが、多くの場合、力関係がそこに働き、どちらかがどちらかを飲み込むかたちで融和していく。互いに互いを尊重し合う「人間的成熟」が求められている。だが、なかなか、現実はそうもいかない。ゆえに、恋愛や結婚について、きちんと男女双方が考えておく必要がある。つまりは、「他者との対話」である。
→これは、「教育」「啓蒙」「他者関係」の問題につながる。これは、離婚以前の問題だが、これなくして、離婚問題は語れない。当事者の内部の問題だけに閉じ込めておけば、その本質は見失われる。
→この「他者との対話」の困難さは、実際、制度的にもますます困難なものになってきている。
http://blogs.yahoo.co.jp/ryukenspapa/16202970.html
ここで議論されているのは、夫、妻双方の完全なすれ違いである。どちらに非があるかという議論になってしまうと、延々と堂々めぐりになってしまう。しかも、裁判所は「母子神話」をもっており、男性に対しては(実際にDV夫が多いゆえに)厳しい態度で臨む。「どちらに非があるか」「どちらに原因があるか」ではなく、「どうすることがお互いにとって、また子どもにとって一番よいのか」ということは議論できる状況にはない。離婚問題を調停することの難しさは、この記事からもうかがい知れよう。
③結局は、結婚とは個人間の問題ではないということだ。結婚は、個人である男と、個人である女の情緒的、ないしは反省的判断に基づく、制度的制約である(情緒的=感情恋愛、反省的=経済的・所有恋愛、どちらもHaveの恋愛)。どこまで恋愛感情や所有感情から離れて、冷静に判断するか、それが問われている。DVは、まさに弱肉強食的な動物感情でしかないし、また、相手への嫌悪というのも幼稚な感情でしかない。
→これは、「理性」「大人とは何か」「責任」の問題になる。
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この問題は奥が深すぎて、なかなか歯切れのいいことは言えない。どう別れるのか。どこまで夫婦は我慢しなければならないのか。DVと非DVの境界線はどこにあるのか。子どもの権利はどこでどこまで有効なのか。…
いずれにしても、子どもからすれば、離婚は深い負の経験になる。その負の経験を、可能な限り、大人の努力で最低限に留めなければならない。離婚の一連のプロセスで、一番悲しんでいるのは子どもだ。親も辛いだろう。だが、大人とは、自分の辛さを括弧にくくって、子どものことに専心するべき存在である。つまりは、ケアすることである。それは、生命に与えられた責任であり、あらゆる生物が行っていることである。専心するのは、あらゆる親に共通することだ。
人間である以上、完全ではない。不完全だ。だから、その不完全性を夫婦の双方がきちんと理解すること。そして、どんなに理不尽なことがあったとしても、それをきちんと言葉で対話できること。それを求める以外に、解決の道はない(もちろん、それが絵空事であることも承知の上で)。DVをしてしまった人間であれば、自分が感情のコントロールができていないことを自覚できるかどうか。嫌悪を抱き、夫・妻の全てが厭になっている人は、その嫌悪自体が、全体の一部に支配されていることに気づけるかどうか。
この問題は、法や条例の問題となっているが、根本的には、夫、妻、子どもの問題である。そして、そのさらに根本は、夫と妻の問題である。その関係は、今や、もろくはかない脆弱なものになっている。それは、一面では進歩である。ずっと女性が我慢することで成り立ってきたのが、近代日本の家族の姿だったからだ。だが、その先がある。その先に、どんな男女関係が、夫婦関係があるのか。
それは、僕ら全員に与えられた、「ポスト近代の根本問題」なのであると僕は強く思う。