Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

難民の子どもたちとメディアと学問

月曜日の新聞です。

この土日にやってきた難民の話題でもちきりです。

二日間だけで、2万人の難民がドイツにやってきたんだとか…

ドイツの新聞では、「Willkommen(welcome)」という文字が目立っています。

色んな意見がありますが、おおむね、好意的な文章が目立ちました。

いわゆるゴシップ新聞のBILDでも、WILLKOMMEN!と表記していました。

でも、さすがはBILD紙。

いわゆる「過激派」の人の記事もしっかりと掲載していました。

一人、ベンヤミン・シュという26歳の男性のfacebookでの「批判」が掲載されていました

でも、小さな記事で、ほんのちょっとって感じでした。

(さらに、今日のニュースでは、難民用住居が放火されるということが報じられてました)

この写真に、なんか惹きこまれました。

真ん中の男性が、どうも男闘呼組の高橋氏に似ていて、、、苦笑

これから、ドイツできっととても大変だと思うけど、でも、地獄の祖国よりは、安全だし、インフラも整っている。

ほっとしたことだろう…。

***

今回の一連のニュースを追ってみて、ちょっと考えることがありました。

それは、子どもの問題=「教育学」のみの問題ではない、ということ。

あるいは、子どもの問題=「保育学」、ないしは「児童福祉」だけの問題じゃない、ということ。

難民の子どもたちの問題は、こういう学問ではなかなか説明することができない。

特に日本の教育学や保育学や児童福祉の文脈で、この難民の子どもたちのことを語ることは、かなり難しい。そもそも、そういう子どもたちを想定していないから…。(一部、アウトサイダー教育をやっている人はいるけれど…)

この「難民の子どもたち」を語れないという事実は、「赤ちゃんポストの母子」を語れないことと結びつきそう。

なんというか、そもそも、教育学も保育学も児童福祉も、そういう子どもや母親を想定してこなかった、というか。

ずっと、「不特定多数(Das Mann)の一億総中流家庭の子ども」が、その対象になっていて、エクストリームな状況の子どもたちをどう捉えるか、どう記述するか、ということを不問にしてきた気がします。

「エクストリームな状況下の子どもたち」を、どういう観点で、どう論じていけばいいのか。

そこにこだわると、従来の教育学や保育学や児童福祉学の「欠落点」が見えてくるんじゃないかな、と。

特に「保育学」は、本来、そういうエクストリームな子どもの養育を考えていたはずなのに、今や、「子ども一般」についての(悪い意味での)実践の学になってしまった。

児童福祉も、「子どもをどう制度の中で囲い込むか」ということばかりを考えてきていて、その根本において、「行政主導の養護体系」に隷属するだけの学問以下の学問になってしまった。

赤ちゃんポストに預けられた子どもも、難民の子どもも、どちらも、「緊急下」の状況にある。制度的にも、「グレーゾーン」にいる子どもたちです。そういう子どもたちのケアや養育をどう考えればいいのか。その具体的な実際のケアや養育を含めつつ、どう学術的に記述していけばよいのか。

ドイツの文脈で考えれば、こういう問題こそ、「社会福祉教育学(Sozialpädagogik)」の研究対象になるわけだけど、日本には、この学問がほとんど認知されていない。…

そういう問題もあるよなぁ、と思わされました。

まだまだ、です、、、

はい。

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