太平洋戦争に敗戦した後の日本。
戦後直後の日本は、児童遺棄や嬰児殺しが毎日のように起こっていた。
そして、そうしたことから、
1950年代に入り、中絶件数が一気に上昇して年100万件となる。
…
この頃の日本の嬰児殺し・親子心中のことを、当時の朝日新聞の天声人語が語っていた。
1949年1月16日の記事である。
子供殺しの感傷
デパートの階上から失業の父親が子供を抱いて飛び降りた。地面にぶつかる瞬間、子供を差し上げたためか、父は死んだが子は怪我一つせず奇跡的に助かった。名古屋での父子心中である。こういう場合、日本的な物の考え方ではとかく「親の愛情」の方が強くうけとめられがちである。「子を殺す」という大きい問題の方を忘れて、殺し方の仕草に表れた小さな愛情の方に感傷的な涙をそそぐのである。
こうした大小をとり違える傾向はわれわれの日常によく見かけられる。母子の投身心中などでも、水は冷たかろうと有りったけの着物を子にきせたのを“母性愛”として涙をしぼる。親が子を道連れにして殺すのは、よくよくの事であろうが、殺し方のささやかな愛情に心を動かされるよりは、子を殺すこと自体にもっと厳しい批判を向けるである。
三人の愛児を絞殺した母親が、生活苦や家庭の不和ゆえにやむを得ずと判検事から同情されて、懲役三年、執行猶予五年の判決を受けたことが、「子供の基本的人権」の立場から参議院の法務委員会で取り上げられた。そして、他人の子を三人も殺したり、大人を三人も殺したら当然もっと重刑が課せられるだろうに、「わが子」となるが故にその罪が軽く見逃されている点に厳正な批判が注がれた。
それは子供を「親の私有物」視する考え方であり、封建的な家族制度の親子観の悲劇であり、子供はその旧思想の犠牲なのである。わが子を売ったり家族心中の道連れにすること、日本よりはなはだしきはない。大人が自ら命を断つこともなくなる時代は当分招来されまいが、子供の生きる人権は新憲法下もっと確立したいものである。
『天声人語Ⅰ-1945-9-1949.12』(朝日新聞社)より
太平洋戦争が終わって4年後の記事である。
この頃、日々嬰児殺しや親子心中が起こっており、それが問題となっていたことが窺える文章である。
無理心中をしたのに、その事件から小さな「親の愛」のようなものを取り出し、そこに涙する、という当時の人々の「感情」が見えてくる。
この頃は、嬰児殺しや児童遺棄をする母親や父親を「支援する」とか、「防止する」とかという議論はほぼなかったように思われる。
「かわいそうに」
「お気の毒に…」
「親の最後のやさしさだよね」
…
そういう受け止められ方をしていたのだろう。
けれど、これを批判する気にもならない。
時代的にも、親を戦争で無くした子や、アメリカ人兵士との間にできた子や、生きるのに必要な物資の欠けた子も、町中にいたことだろう。こういう事件があっても、「かわいそうに…」で終わる話にしかならなかったのかもしれない。
みんな、生きるのに必死だった。
あと、この記事の「新憲法下」というところに、当時の日本人の「希望」も見え隠れしている。
今や、嫌悪され、改定されようとしている憲法だが、当時はきっと多くの日本人にとって、「希望の新憲法」だったのだろう。
自民党がつくった「新憲法案」は、きっと、今の人たちにしてみれば、「希望の新憲法」なのかもしれない。
でも、これを読む限り、「新しさ」はなく、むしろ、「現日本国憲法」以前に施行されていた憲法の精神に近づこうとしているような気もしなくもない。
「個人」が否定される憲法案。
ま、それはともかく…
この記事は、当時の時代背景を映す貴重な文章かな、と思ったので、upしました。
「児童遺棄」や「心中」にまで追い詰められた妊婦を救う、という発想は皆無だったのかな、と。
否、そういう妊婦を救うために、「人工妊娠中絶」が広まったのかもしれない。
そこに、「人工妊娠中絶」を止められない根深い問題があるのかもしれない…。