Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【解釈学とは何か】(ドイツ語→日本語)(訳)

Pflegepaedagogik-fuer Studium und Praxis(2003)より

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解釈学とは何か?

解釈学は、釈義の技法であり、説明ならびに解釈の学問的理論である。M.リーデルは、この解釈学を、「理解と自己理解の学」と呼んでいる(Riedel、1978,S.9)。解釈学にとって問題となるのは、方法的に目指される意味ある文書(Dokumenten)との関わりである。解釈学の目的は、学問理論、解釈する意味伝達の学問的方法を打ちたて、独自の研究方法・認識方法として、理解することや解釈することへの専念を発展させることである。

意味認識を打ち立てる解釈学的方法は、とりわけ言語学、歴史学、神学、哲学、心理学といった古典的な精神科学の諸原理において問われている。だが、当然また、ケア学、教育学、社会学、法科学においても、またもちろん根本的には医学においても問われている。

口頭伝承として伝達されるものであれ、身振り手振りで伝達されるものであれ、言語的テキストとして伝達されるものであれ、芸術家によって表される表現として伝達されるものであれ、ある人間、ある集団、ある社会、ある文明のあらゆる言及(Aeusserung)は、その証言・供述(Aussage)とその意味のなかで把握され、理解されねばならない。しかし、その場合、しばしばわれわれは多重の意味に直面することになる。

・たとえば法律学者は、法を適用する時、立法者の意思(「彼はこの法、この法文をどのように想定したのか?」)、その体系、その法の内的論理、その法の今日的意味や適用可能性などを問う。

・歴史学者は、歴史的状況の「客観的諸要因」(それは実際どうだったのか)、ならびに、歴史的に取り上げる人物の主観的気分(情状:Befindlichkeit)、そして、その人物の行為が与えた意味を探求する。

・神学者は、幾つもの文書を研究し、「神の言葉」、福音史家の言及の意味、伝達された信仰規定の今日的適用可能性を探求する。

いわゆる「解釈学的循環」は、意味推論(Sinnerschließung)の手続きにおいて顕著である。すなわち、(テキストの)全体の把握は、常に構成部分を前提としており、構成部分の理解は、常に全体の意味の理念を前提としている、ということである。別の言い方をすれば、ある一文の意味は、個々の言葉の意味に関連しているものの、その一方で、個々の言葉の意味は全体の意味の光の下でしか理解することができない(ゲルトゼッツァー、1994,S.137)。

ヴィルヘルム・ディルタイにとっては、解釈学は、歴史的-社会的、そして個々人的な諸条件を通じて『一般的精神』を把握せよ、と要求するものである(ディルタイ、1900)。そうすることで、われわれは、例えばある伝記の記述において、他者の心的生活と同一の再生産の理念を見出すのである。例えば、「ケアの学問化に対するルス・シュレックの貢献」について研究する人は、-可能な限りオリジナルのテキスト、インタビュー、対話のプロトコルなどに基づいて-その女性パイオニアの思想世界に熟知しようとするだろうし、最も深い理解のために個人的・制度的・社会的な諸条件に関わる文脈にその助けを求めるだろう。

ハンス・ゲオルク・ガダマーによれば、われわれは常に、語る[陳述する]主体(そして、その人の個人的並びに社会的、文化的文脈)の意味-地平(Sinn-Horizont)を、われわれの現在の意識やその意識のうちに含まれる先入見と対峙させねばならない(ガダマー、1986)。理解が成功するということは、或る地平の融合に達するということを意味する。カントの記述によれば、解釈学は、語り[陳述]やテキストを、その語り手(Urheber)自身が理解したよりもよりよく理解せよ、と要求するのである。

解釈学に対する様々な批判点は、以下の通りである。

・経験的学問、分析的学問は、不明瞭であり、恣意的であり、思弁的であり、明瞭で形式化された(正しいと証明された、ないしは反駁された)真なる認識を一度も実現できていない、と非難している。

・心理分析(元来解釈学的な方向性をもつ方法であっても)は、語りやテキストの意味を推論する際の無意識の含意を全く配慮していない、と伝統的な解釈学を非難する。

・批判理論は、語りやテキストやコミュニケーションはそもそも、利害関係、支配、権力といった文脈の中でしか理解することができず、したがってコミュニケーションは決して非強制的ではないし、支配から自由であるということもない、ということを指摘している。

こうした諸批判、とりわけ欠如する「真理」の批判は、「システム理論」の傾向へと向かう学問理論の更なる発展にとって重要であった。「真理」一般への問いが意のままに立てられるが、それは、最終的には「構造主義」の中で、急進的に疑われるようになった。さらには、そこから、「解釈学的に得られた認識は自ら、真であると要求することができない、と主張することもできよう。というのも、産み出され、受け取られる意味のあらゆるテキスト解釈や地平の融合は、多かれ少なかれ滑稽なものと熟慮されたものとして、専門的なものか脳なしのものかとして、許容されるものか許容されないものとして、考察されるからであり、本来的に真か偽かとして考察されることはないからである。

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