まだ覚えているでしょうか?
大阪で、とても悲しい母親による児童遺棄事件があったことを。
大阪市西区のワンルームマンションで2010年7月、餓死した幼い姉弟(当時3歳と1歳)が見つかった事件の裁判員裁判で、殺人罪に問われた母親の下村早苗被告(24)の論告求刑公判が12日、大阪地裁であった。検察側は「母に見放され、空腹で死を待つしかなかった子どもたちの絶望感は筆舌に尽くしがたい」と述べ、無期懲役を求刑した。判決は16日。
検察側は論告で、下村被告が10年3月以降、長女の桜子ちゃんと長男の楓(かえで)ちゃんを西区南堀江1丁目のマンション自室に放置し、外泊を繰り返したと指摘。6月9日に約1週間ぶりに帰宅した際に2人が衰弱していたことに気づいたのに、おにぎりなどを与えただけで再び外出し、6月下旬に死なせたと述べた。
さらに、6月9日の帰宅時に玄関と居室の間にあるドアに粘着テープを貼ったのは2人を閉じ込めるためだったと指摘。「自由な時間がほしいという欲求を最優先し、子どもたちがいなくなってくれればいいと考えた。2人が少しずつ、確実に死に向かうことを容認した」と述べ、殺意があったと主張した。
引用元:朝日新聞
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201203120034.html
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大阪市西区のマンションで2010年6月、長女の桜子ちゃん(当時3歳)、長男の楓(かえで)ちゃん(同1歳)を放置し、餓死させたとして殺人罪に問われた母親の下村早苗被告(24)の裁判員裁判の第6回公判が12日、大阪地裁であった。
検察側は「唯一、頼れる存在の母親に見捨てられた2児の孤独、絶望は筆舌に尽くしがたく、極めて残虐、残酷な犯行。他に類を見ない凄惨(せいさん)な事件だ」として無期懲役を求刑した。
公判はこの日で結審し、評議を挟んで16日に判決の予定。弁護側はこれまで「被告は2児が死ぬとは考えていなかった。殺意はなく、保護責任者遺棄致死罪にとどまる」と主張している。裁判員らが、育児放棄(ネグレクト)に殺意を認めるかどうかが焦点だ。
検察側は論告で、犯行当時に幼い2人を養育できたのは下村被告だけだった、と主張。その上で、〈1〉死亡に至った放置直前にも1週間~10日間放置し、2児は衰弱していた〈2〉2児の衰弱を目の当たりにしたのに、10年6月9日、わずかな食料を置いただけで部屋に閉じこめ、約50日間、友人らと遊び回って帰宅しなかった――などと指摘、同日の段階で殺意は認められると主張した。
一方、下村被告は、これまでの公判の被告人質問で、意図的に2児を放置したのではない、と説明。同日に自宅を出た際の2児の様子について、「いつもどおり手を振ってバイバイしてくれた。それが最後になるとは全く思わなかった」と述べ、衰弱を認識しながら放置したとする検察側の主張と対立する状況を語っていた。
引用元:読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120312-OYT1T00493.htm
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こんな報道のされ方もしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/talim_33/43907942.html
下村被告は、二人の幼い命を殺めた。母親である彼女が、自分が産んだ幼子を殺した。これに対して、世の中は、彼女に激しいバッシングをした。
そして、今、「無期懲役」が宣告されようとしている。
僕は、緊急下にある「母子」の支援の在り方を模索している。母子はどんな場合にも守らなければならない、と思うからだ。子どもにとってみれば、母親は絶対であり、最も大切な存在。子どものためにも、母親は守らなければならない。母親が守れない、というのは、「先進国」としては恥じるべきこと、そう思う。
今回の事件は、はたして「無期懲役」になり得るものなのだろうか。下村被告を「無期懲役」にすることで、母子は守られるようになるのだろうか。
無期懲役
期限なしで監獄に拘置して所定の作業を行わせる刑罰/刑罰の中では、死刑に次いで2番目に重く、主に殺人罪や強盗致死罪において言い渡される。服役期間に定めはないが、10年以上服役すると仮出所が認められる場合もある。/無期懲役の場合、その服役期間が10年を過ぎ、服役中の態度から深く反省していると刑務所が認めれば、地方更生保護委員会の処分によって刑務所から出ることを許される。このとき、残りの人生はすべて、保護観察の対象となる。/法務省の統計によると、無期懲役の受刑者は、平均して20年間で刑務所から出ている。したがって、無期懲役は、一生服役する終身刑というわけではなく、あくまでも期限を定めずに言い渡される懲役刑となっている。
引用元
http://www.weblio.jp/content/%E7%84%A1%E6%9C%9F%E6%87%B2%E5%BD%B9
幼児二人を殺害したという事実だけを考慮すれば、無期懲役に誰も異論はないだろう。けれど、僕の中では、なんともすっきりとしない。これでいいのか、と思う。
原則として、「産んだ子どもの責任は、両親にある」、というのがある。それはその通りで、この原則に照らし合わせるならば、母の下村被告のみならず、父親も責任を負うべきだろうし、下村被告と同様以下の罰を受けるべきではないか。実質的に「遺棄」したのは、母親だが、母子を遺棄したのは、父親ではないのか。それが裁かれないという点で、この原則は「形式」に過ぎない。
それから、「子育ては、社会・地域・われわれの共有の問題である」、という前提に立つならば、彼女のように「育児を放棄せざるを得ない母親」を支えるネットワークの欠如こそ、問題とされねばならないのではないか。そういう意味では、彼女は加害者でありながら、被害者でもある。何の救いもないところで、追いつめられて、おかしくなって、子どもを放置したとしたら、彼女は追いつめられた側であり、ケアが最も必要な母親だったと思う。
では、なぜ彼女はSOSのサインを出さなかったのか。あるいは、出せなかったのか。追求すべきはこの点にあると僕は思う。
この事件は、誰もメリットを受けていない。お金が奪われたわけでも、異性トラブルがあったわけでもない。「育児の放棄」でしかない(と思う)。
育児、しかも二人の子どもを母親一人で、しかも若い娘が一人で育児という仕事を全うするのは、極めて大変である。問答無用で大変だ。だから、多くの人は、親の助けや他の人(例えば保育者)の手を借りて、ギリギリのところでやっている。片親家族で、さらに親の助けもあてにならないとしたら… しかも、保育園にも預けられないとしたら… さらに、経済的にギリギリで、母親本人に何のスキルも資格もなかったら…
ネットでの反応を見ていると、「若過ぎて出産するとロクでもない」という意見が多くあった。が、それは違う。若過ぎても、母親や父親の両親、つまりおじいちゃん、おばあちゃんの協力があり、旦那の協力があれば、若くても十分に育児はできる。また、住む家が保障され、収入が安定し、労働環境がよければ、若い母でも十分に育児を頑張れる。「若過ぎる出産」が問題ではない。そうではなく、その母親の状況が問題なのだ。
これだけ「不況」だと言われていても、まだ日本は豊かだし、子育て環境も、先進国の中では決して誇れるほどのものではないが、それでも十分に整っている。がゆえに、こうした問題の根底に対する理解、というか、まなざしがなくなっているのだと思う。下村被告を責め、侮蔑し、他人事として批難し、叩く。そういう人間もまた、彼女のような状況下の女性たちを追いつめる存在なのだ、ということを忘れないで欲しい。
まだ判決は出ないと思うが、彼女のしたことは、「無期懲役」にあたるものなのかどうか。事件だけを見たら、「無期懲役」ほどのことだったかもしれない。けれど、母親だって、どうにもならない立場にあり、助けのない立場にあり、苦しんでいた人だったのではないか。「なぜ相談しなかったのか」、という野暮な質問はすべきではない。相談できる人は、こんな事件など起こさない。相談できない辛さが、彼女にはあった(はず)。
第二の下村さんを出さないためにも、セーフティーネットの見直し、本当に追いつめられている人をどのように見つけだし、どのように支援するのかという方法の問い直しが求められていると思う。
きっと亡くなった子どもたちは、最後の最後まで「お母さん」と呼び続けたに違いない。亡くなった子どもにとって、一番必要だったのは、最愛の母が救われることだったはず。お母さんが誰かに助けられ、支えられ、理解され、愛されることだったはず。そして、もし母=下村被告が、誰かに支えられ、あるいは誰かに叱咤激励されれば、彼女は、母として、子どもたちと温かい家庭を築けたかもしれないのだ。
子どもの立場から考えれば、最愛なるお母さんを追いつめたことこそが、問われるべきであって、お母さんをさばくことではない。子どもは、どんな母親であっても、母親を愛そうとする。そういうものだと心底思う。
だから、僕は、母親を追いつめるものを厳しく見つめ、全ての子どもたちが安心して親を愛せるような社会を探したいと思う。