Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「ちちははの言いつけ破ったその日から全ての物語が始まる」

ちちははの言いつけ破ったその日から全ての物語が始まる

分かりやすくて、共感しやすく、また色々と考えることができそうな短歌です。個人的に読んで、共感するのもよいですが、この短歌が何を伝えようとしているのか、それを解釈するのもまた楽しいことです。

自分のことを育ててくれてきた「ちちはは」の言いつけを破る、それはその破る本人にしてみれば、極めてたいへんなことです。「ちちはは」は、自分という存在のルールであり、規範であり、道徳であり、道しるべであります。その「ちちはは」の言いつけを破るということは、これまでの自分の秩序を壊す「戦い」でもあります。小さな約束事を破ることはありますが、この短歌では、「すべての物語が始まる」とあるので、言いつけを破ること自体が極めて大きな出来事であることが窺えます。どんな家庭にも「言いつけ」はあるもので、その言いつけは極めて重要なものだと考えるべきでしょう。「ちちはは」の信念や思想にかかわるものかもしれません。それを「破る」わけですから、当の「ちちはは」にとっても、破る本人にとっても、たいへんです。当然、ちちははとぶつかることになります。ぶつかるからこそ、「全ての物語」がはじまるのです。

幼い子どものほとんどが、親の言いつけをきちんと守ります。いつしか、その言いつけが負担に感じるようになり、逆らおうとするようになります。実際に逆らうかは別として、「ちちはは」の言いつけは「絶対的なもの」から、うとましいもの、やっかいなもの、負担に感じるもの、重いものになっていきます。それに従って生きることは、「ちちはは」にとっては楽なことですが、それもそれで少し恐いわけです。子どもは、「ちちはは」のコピーではなく、「ちちはは」とは違う存在なのです。「コピー」のまま、大人になることがよいか悪いかは分かりませんが、少し恐い気もします。とはいえ、「ちちははの言いつけ」を完全にすべて破りさってしまえば、その子どもは基盤となる生き方や価値観をもたぬまま、大人になってしまいます。

「言いつけを破る」ということは、「ちちははとは違う価値観」を「ちちはは」に示す、ということです。当然、そこには対立が起こります。「ちちはは」と激しくぶつかることにもなるでしょう。このぶつかり合いこそが、ある意味での「成長」なのかもしれません。わが子の成長を歓迎したい気持ちもあるでしょうが、「ちちはは」は子どものこの行為を認めるわけにはいきません。安易に認めてしまえば、子どもがとんでもない方向に暴走してしまう恐れもあります。この「恐れ」こそが、「ちちはは」の愛情ともいえるかもしれません。愛情とは、「その人を心配すること」であり、「その人の幸福を願うこと」です。しかし、当の子どもにとってみれば、それは「重荷」であり、「負担」であり、「過干渉」なのです。

おそらくその克服の仕方は、千差万別といえるでしょう。その克服の過程で、「ちちはは」と子どもの間に(短期間的な)深い溝が生まれることもあるかもしれません。上の短歌は、そういうこと全てを包括下上で、「ちちはは」の言いつけを破ることの意味を教えてくれているように思います。子を甘やかし、子の言いなりになる親もいます。また、親の言いつけに支配され、自分の考えをもてない子どももいます。一時のぶつかり合いや不和を恐れず、互いにぶつかり合うことの意味をこの短歌から、わたしたちは学びたいところです。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「教育と保育と福祉」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事