Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

コミュニケーションの教育-技法から存在論へ-

後期のゼミで、「コミュニケーションの教育」について考えてみることにした。

とある資料で、今日の「採用選考」にあたって最も重視した点に、「コミュニケーション力」が挙げられていた。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20130910/resume/01_ito.pdf

コミュニケーション力を高めることは、とりあえずよりよい人生を生きる上で必須のこと、と考えてよいだろう。

しかし、問題なのは、どうしたらコミュニケーション力が上がるのか、ということである。

googleで、「コミュニケーション 技法」というワードで検索すると、色々と出てくる。

http://noukai.tetras.uitec.jeed.or.jp/giho/61.shtml

このサイトに、「職場のコミュニケーションを促進させるためには、コミュニケーションに必要な能力を身につけるだけではなく、コミュニケーションを持とうとする積極的な姿勢を持つことが大切です」、とある。

これは、やはり大切なことだろう。コミュニケーションに信頼を置き、積極的に自ら、相手にかかわっていこうとすることは、やはり大切なことだと思うし、これを否定することは難しい。

けれど、これがとても難しい。人種や国籍を問わず、全世界の人間の課題ともいえる。自分から他者に積極的にかかわろうとする態度をもっている人はとても少ない。友人や親友と積極的に会おうとすることはあっても、その会っている時に、積極的にコミュニケートすることを努力している人は、少ないように思う。積極的にコミュニケートする、ということは、まずは自ら会話の進行係として、言葉を相手に投げかけ、その相手が答えやすいような状況を作り出す、ということだ。良き対話の導き手となる人物は、概して好まれる。

コミュニケーションを持とうとする積極的な姿勢には、二つの意味があると思う。一つは、積極的にアポを取ろうとする姿勢。「明日、空いてる?」、「今週末、どこかに行かない?」、「○○日に、○○に行こう」というような姿勢である。もう一つは、積極的に目の前の相手とかかわろうとする姿勢である。積極的に目の前の人とかかわるためには、相手が話したくなるように、対話の糸口を見つけ、それを発展させるような努力が求められる。

ただ、コミュニケーション力とは、こういう「努力論」で語ってはダメなような気がする。自分の話を必死にするにしても、相手を質問攻めにするとしても、だ。

もっと具体的に、コミュニケーションしている時の状況を細かく見ていかなければ、と思う。そういうサイトもある。

http://www.lksys.co.jp/archives/view.phtml?id=06246

あれやこれやと書いてあるけど、どれも(当然ながら)介護におけるコミュニケーションのことを言っていて、またどれも目線が「専門的」、否、「上目線」であるように思う。だいたい日々のコミュニケーションで、「緊張や不安を和らげるような温和な態度」、「飾り気や身構えることをせず、傾聴的な態度で接する」といったことをやり続けることは困難であるし、神様でもない限り、これを日々のコミュニケーションで実践することは難しい。また、これを企業内で実践すると、「お客様至上主義」に陥ってしまう。

ここに書いてあることをやれるとすれば、「制限時間」があって、その中で集中的に行う程度であろう。そうでなければ、人間として精神力がもつわけがない。たまにいるかもしれないけれど、普通の凡人にはなかなかできないし、こういう能力が、社会で求められるコミュニケーション力ではないと思う。

ビジネスマンにとってのコミュニケーション論もあった。

http://www.src-j.com/books/pdf/171_pt.pdf

これは強烈である。「相手を説得して、自分の思い通りに動いてもらう」ということが、コミュニケーション力だと言うのである。これは強烈だけれど、一理ある。人事が求めているのは、もしかしたらこういう能力なのかもしれない。上の介護者のコミュニケーション能力と全く違う点に注目したい。

コミュニケーション力には、「押す力」と「引く力」があるように思える。ビジネスマンにとっては、「押す力」、そして介護やケアにおいては、「引く力」である。けれど、どちらも一方的であり、また日常のコミュニケーションとは別のコミュニケーションの力、ということになる。日々、自分の思い通りに動いてもらおうとする人に、友達はできるだろうか。恋人や夫・妻はどうだろうか。僕は、誰かの思い通りに動きたくない。そういう人もいるかもしれないけれど、いずれそういう人も、そのことに気づいて、去っていくだろう。

ケア職のコミュニケーション技法も、ビジネスマンのコミュニケーション技法も、どちらも「非日常的コミュニケーションスキル」である、という点で、共通している。ただ、それが「押す力」か、「引く力」か、の違いでしかない。

けれど、人間はそうコロコロと人格を変えて生きることはできないし、また普段のコミュニケーションのあり方が特殊な場面で出てしまう、ということは多々ある。また、長年、押す力で押し通して生きていくと、普段のコミュニケーションの場面でも、そういう振る舞いをしてしまうこともある。学生時代は穏やかだった青年が、20年後にすっかりビジネスマン的コミュニケーションスキルにまみれてしまう、ということもある。

ベースとなるコミュニケーションは、日々の日常の中で形成され、実践されている。普段どんなコミュニケーションをしているのかが、どの場面においても現れてしまう、それがリアルだと思う。

(他方、現実では、「コミュニケーションのプロ・専門性」が謳われている。この言葉の気持ち悪さを感じる人がどれだけいるだろうか。コミュニケーションの本来の意味は、魂の交流である。それは日常的なあり方そのものであり、「反省」によって導かれる技法を会得した専門家のあり方ではないはずだ)

コミュニケーションの教育において欠かせないのは、「日々の自分のコミュニケーションの反省」である。自分はどんなコミュニケーションを行っているのか。そこにどんな問題があるのか。何が欠けていて、何が足りないのか。あるいは、どんな方向性に向かってコミュニケートしているのか。支配に向かっているのか、理解に向かっているのか、あるいははぐらかしに向かっているのか。雑談に向かっているのか。その場しのぎの場当たり的なコミュニケーションに向かっているのか。

特にハイデッガーの「支配」と「解放」の区分けは参考になる。コミュニケーションは、概して「支配」に向けられる。どのように相手をコントロールすればいいか。どうすれば自分の要求が通るか。どうしたら自分の言いなりになるのか。いかにして効率よく相手の本心や本音を引き出すことができるか。あるいは、どうしたらスムーズに商品を買ってもらえるように導けるか。

こうした「支配に向かうコミュニケーション」は、権威主義的なコミュニケーションへと向かう。どうしたら自分の権威を相手に伝達することができるか。相手を自分に依存させ、相手の自律性を奪い、他者依存にさせるか、という目的へと進みだす。そこに対等性はなく、上下関係の権威性を引き起こす。顧客にせよ、あるいはケアの対象者にせよ、家族の構成員にせよ、だ。コミュニケーション力は、常にこうした権威主義的な帰結に向かう、ということを決して忘れてはならない。

それに対して、コミュニケーションによって、人は救われたり、あるいは新たな自己を発見したり、誰かとの対話の中で生きる力を得て、自分の力で問題を解決しよう、という方向に向かって歩むこともできる。 それも、僕らの実体験で分かることであろう。

最も深く、人間学的な意味でのコミュニケーション能力の高さについて考えていきたいと思う。

コミュニケーション能力が、単なる「人を動かす力」ではなく、「人と共に生きる力」であることを、忘れないでいたい。

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