Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

教育課程に関する三つの問い

人は何を学ぶべきか?(Was muss man lernen?)
人は何を学ばなければならないか?(Was soll man lernen?)
人は何を学ぶことができるか?(Was kann man lernen?)


この三つの問いは、どれも違うことを尋ねている。

人は何を学ぶべきか、というのは、人間ひとりひとりが考えるべき事柄で、答えも多様である。ある人は、「基礎学力を学ぶべき」と答えるだろうし、他の人は、「コミュニケーション能力を学ぶべき」と答えるだろう。また、「道徳を学ぶべき」と答える人や、「理科と数学をもっと学ぶべきだ」と答える人や、「仕事のことをもっと学ぶべきだ」と答える人もいるだろう。何を学ぶべきかは、その人の生き方や人生観や信念によって変わってくる。

人は何を学ばなければならないか、というのは、現在の教育システムの問題である。現在、われわれは実際に何を学んでいるのか、ということに基づいている。これは、shouldの問題であり、一般に何を学ばなければならないとダメか、ということを問うている。日本の教育では、国語、算数(数学)、理科、社会、英語など、いわゆる各教科が規定されており、その内容も具体的に規定されている。もちろん、学ばなければならない内容は、時代によって変わってくるし、時代のニーズによって変えられることもある。

この「人は何を学ぶべきか」と「人は何を学ばなければならないか」は、別々の問いではなく、互いにかかわりあっている。多くの人が「学ぶべきだ!」と考える事柄であれば、それは「学ばなければならない事柄」となり、すべての学校で学ばれるようになる。最近では、情報や福祉や国際や環境といった教科が各学校で学ばれている。これらの教科が学校に取り込まれたのは、一般に社会がこれらを「学ばなければならないもの」と見なしたからであり、時代的なニーズがあったからである。また、小学校で英語を学ぶべきかどうかはともかく、小学校では英語は学ばれなければならなくなった。

カリキュラムとは、「学ぶべきもの」を経て、「学ばなければならないもの」と考えられた事柄のすべてを言う。僕自身は、個人的に、欧州かぶれのせいか、クラブ活動や給食の時間や運動会や修学旅行などは「学校で学ぶべき事柄ではない」とホンキで考えている(これらは社会教育の分野であって、学校外で行われるべき。欧州では根本的にそう考えられている)。が、多くの人が「学ぶべき」と考え、それが妥当なものとして「学ばなければならない事柄」として考えられている以上、そのことに黙って従わなければならない。

最後の問い、人は何を学ぶことができるかという問いは、また非常にやっかいな問いである。例えば、道徳や倫理は学校で学ばなければならない教科である。素朴に人は、「道徳は教育することができる」と信じている。だが、凶悪な犯罪者や人の話に耳を傾けることのできない人、また他者の心身を平気で踏みにじる人を見ていると、「道徳や倫理は学ぶことが本当にできるのか?」と問いたくなる。また、「人を愛すること」も、現在の恋愛事情、夫婦事情を静観していると、すべての人に学習可能なことではないように思えてくる。もちろん希望的な願望を含めて、人はいつか愛や思いやりの心を学ぶことができるだろう、と言いたい気持ちはある。だが、願望と現実は別のものであり、現実を見ようとすればするほど、「人は道徳を学ぶことはできないのではないか?」という気持ちが強くなってくる。現在、「徳育」という新しい科目の導入をめぐって、議論が続けられている。

語学も同様である。英語が小学校で必須科目になろうとしているが、現在の日本において、日本人は英語を学ぶことはできるのか?という問いは非常に深刻である。他の国々と隣接している欧州や中東や旧ソビエトの国々では、外国語を学ぶ土壌、地盤がもともと既に存在している。外国語が日常において身近であり、また外国人の存在が日常の中に浸透してしまっている。だが、島国であり、外国人が少なく、外国語(和製英語を除く)が日常の中にほとんど存在しない日本においては、外国語を学ぶ土台というか地盤というか、そういうものがもともとわれわれに与えられていない。それでいて、母国語を書いたり読んだり話したり聴いたりする能力が低下してきているのだから、外国語を学ぶことなど本当にできるのかどうかは甚だ疑問である。

われわれは何を学ぶべきか=これをどう考えればよいか?
われわれは何を学ばなければならないか=これはどう考えられてきたか?
われわれは何を学ぶことができるのか=そもそも学ぶことは可能か?


*明日の講義のメモです。このブログのおかげとあってか、毎年講義メモを更新することができています。毎年、同じことを繰り返すのではなく、新しい問題設定のもとで講義をしていきたいな、と思います。

・・・講義って、学生の発表を重視するゼミと違って、「教師の語りの場」だから、講義メモがすごく重要になってくる。いわば台本だ。これがないと、講義は完全に成り立たない。しかも、授業と違って「独白」に近い部分もあるので、語る力がないと、学生に飽きられてしまうし、寝られてしまう。講義って本当に難しく、且つ燃えるものなんです。

コメント一覧

kei
透さん

またまたのコメントありがとうございます!!

学生たちに問い尋ねても、結構答えるのが難しそうでした(^0^;)

本当に学ぶべきこと。。。

これはとても難しい問いですが、歴史的には結構はっきりしているんですよね。「国家の持続」ってことになるんだと思います。(この点については近いうちに書きたいと思っていますので、また意見してくださるとうれしいです)

僕も個人的には小学校での英語導入には反対です。けれど、学生たちの中には結構賛成派も多くいました。

透さんの意見には賛成ですね。言葉の前にしっかり社会的背景を母国語で学んでおきたいところです。

また、僕は英語一極集中に大反対なんです。帝国主義的というか・・・ それに、小さいころから英語をやってしまうと、「英語ができれば国際的」と勘違いさせてしまうのではないか、と危惧しております、はい。

*でも、そもそも学校の「KY主義」というか、「同調圧力」をなんとかしないと、外国語なんて上達しないと思うんですけどね・・・
必要な教育とは
>人は何を学ぶべきか?
>人は何を学ばなければならないか?
>人は何を学ぶことができるか?

どの問いも人によって答えが異なりますからね。いざ聞かれると難しいものですよね。

現在、起きている社会現象・流行の表面をなぞるのではなく、それらが起きている原因を探っていけば、本当に学ぶべきことが見えてくるのではないでしょうかね?

英語が小学校で必須になった事に関しては、僕的にはあまり関心しませんね。もっと国語教育に力をいれるべきだと思いますし。
英語を学ぶのなら、その前にアメリカ人の生活・考え・文化など、社会背景的なものを学んだ方がいいと思いますね。
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