学校に行かなければならない理由はどこにあるのか?
ある不登校の子(中学生)に、「どうして学校に行かなければいけないの?」と問われたことがある。僕は、「え?」と反応したが、うまく答えられなかった。すると、その子は更に「学校に行きたくない子どもの権利はどうなるの?」と言ってきた。僕の頭の中は、ますます「え? え? ???」となった。「学校に行かなくてもよい権利」なんて、考えたこともなかった。最後に、「そういう権利があったら、学校に行っていないことの負い目を感じなくていいのになぁ」、と一言ぽつりと。
学校に行かなければならない義務(強制)は、子どもにはない。子どもにあるのは、「教育を受ける権利(right to receive education, Recht auf Bildung)」(社会権の一つ)である。だが、親の側には、「学校に通わせる義務」があり、親こそ、「学校に行かせなければならない」という義務を負っている。
日本国憲法第26条 【教育を受ける権利、教育の義務】
第1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。 義務教育は、これを無償とする。
学校教育法第4条 (義務教育)
国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
しかし、義務の本来の意味は、「憲法上の義務としての国に対する義務教育無償義務」である。教育を無償で行う国への義務のことである。国も親も、常に「学校」を否定する恐れがあるためだ(Question:なぜ憲法は親や国家にこの義務を課すのか、考えてみよう!)。
他方、子どもの教育を受ける権利は、1919年のドイツのワイマール憲法で保障された比較的新しい人権(社会権)の一つと考えてよいだろう。
制度の歴史(制度史)の中では、前回見たコメニウスのような教育学者たちの「すべての人にすべてのことを」という要望が出て、また、それとは別の文脈で、封建主義的な中世の世界を乗り越える新しい近代的な国家を成立させたいという要望が出て、学校は「公教育」となり、制度化されていくようになる。ここで、よく分からないのは、公教育は、「子どものため」なのか、それとも「国家のため」なのか、という点である。民法では、平成23年の改正で「子の利益のために」と加えられたが、そもそもどうだったのか?
オトナ的に言えば、公教育は、「子どものためでもあり、国家のためでもある」、ということになるだろうか。あるいは、現場の教師は「子どものため」と言いつつ、国家や政府は「国家のため」と言っているということだろうか。いわゆる「二枚舌」「ダブルバインド」というものだろうか。
フランス革命の後、フランス人のコンドルセという学者(数学者、政治学者、教育学者)が、「公教育」の必要性を説いた。
各人が生業を完成し、将来、各人に就く権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った能力を完全に開化させ、このことによって市民間の事実上の平等を確立し、法によって認められた政治的平等を現実のものにする方策を保証すること。これらのことが国民教育の第一の目的でなければならない。(コンドルセ、「公教育の全般的知識についての報告と法案」『フランス革命期の高教育論』、11)
コンドルセは、数学の確率論を用いて政治を考えた人物で、(今では当たり前の)「多数決」による「決定」の重要性を唱えた学者でもある。(「多数決こそ素晴らしい!」と?!)。この彼の言葉の中に、「市民」「法」「平等」という言葉がある。この三つの言葉は、どれも当時としては斬新なものだった。中世の世界では、「(何の権利もない)従順な庶民」と「権力者(支配者)」の「主従関係」こそが重視された。
上の不登校の子には、「なんのこっちゃ?」ということになりそうだけど、「学校に行かない」ということは、この「市民」「法」「平等」を学ばないまま、社会の中に投げ込まれることになる。社会のルール、社会のシステム(政治や経済)、一般的通念(常識やコモンセンス)、法による支配と平等、そういったことを知る機会を失うのである。これは、本人の意志とは別に、結果的にその本人にとって「損なこと」となる(と考えられて、公教育が全世界に広まっていく)。
けれど、コンドルセの提言だけで公教育が世界に広まったわけではない。「強い国にするために」「国家のための人材養成」という動機は、ほぼどの国にもあったと考えてよい。まさに我が国「日本」がそうだった。日本の教育システムは、明治初期に急ピッチで作られたものだが、そのシステムは、子どものために作られたものではなく、「尊王攘夷」「脱亜入欧」「富国強兵」といった言葉に示されるように、①国家の独立を守るために(国家にとって有能な人材を育成するために)、②そのために必要なエリート官僚を養成するために、公教育(国民教育)が導入されたのだ。(この話は来週詳しく語る)
こんな話を、不登校の彼に話をしたら、彼はどう答えるのだろうか。きっと、「そんなの、僕には関係ない。日本なんて、強い国じゃなくていいし、そもそもこの国がどうなるかなんて、どうでもいい」と答えるだろう(彼の性格上、そう答えるだろうなぁ…、と)。
けれど、「どうでもいい話」で終わる話ではない。日本が「強い国」から「弱い国」になるということは、その彼にとっても深刻なのだ。日本が物質的に豊かなのは、経済的に強い国だからだ。経済的に強い国には、「雇用」があって、「社会保障(生活保護や国民皆保険制度)」が充実していて、最低賃金の保障もしっかりある-子どもの人身売買も(ほぼ)ない-。彼が不登校だとしても、それなりによい生活も保障されるし、雇用があればなんとかこの国で生きていける(貧困国では、その雇用がなく賃金の保障もないから、海外に雇用を求めざるを得ない)。
それだけではない。もしみんなが学校に行かなくなったら、それこそ今の権力者たち(政治家や金持ち)は「大喜び」である。社会システムを知らない国民であれば、「統治」「支配」もより簡単になる。今、成功している人の地位も安泰である。権力にたてつくような「市民」もいなくなる。一部の(ずる)賢い権力者たちは、誰の批判も受けることなく、その「うまみ」を味わい続けることができる。不登校の彼も、ひょっとしたら「労働市場」の末端で、死ぬまで最低以下の賃金で、心身共に朽ち果てるまで、ただただ「労働(Arbeit)」をして、「搾取(さくしゅ)」され続けるだけかもしれない(何の保障もないまま、不安定な状況で、低賃金で働かされている「派遣社員」や「契約社員」のことを考えてほしい)。無知な人間は搾取されるだけで、(悪)知恵のある人間がどんどん儲かっていくのである。
イギリスの社会改革運動家で工場経営者で「性格形成新学院(The New Institution for the Formation of Character)@South Lanarkshire Scotland」創設者のロバート・オウエン(Robert Owen, 1782-1852)もまた、公教育の必要性を訴えていた著名な人物の一人である。
家庭養育によっては、純粋に民主的な性格はけっして与えられないことはたしかである。[…]人間の性格は、ただ一つの例外もなく常に環境によって形成される。
次世代を教育・養成することは常に社会の第一の目標であり、他の全ては二の次である。(『社会システム』, 1826)
このように、国家や権力者や金持ちたち(強者)の言いなりにならないために、またそれに代わる理想的な社会を新たに創るために、「民主主義(デモクラシー)」という理念が立ち上がった。民主主義社会の実現のために、公教育が広まったという側面もまた見逃してはいけない。民主主義の反対の言葉は「権威主義」である-かつての「管理教育」はこの権威主義的教育の表れだった-。中世的な権威主義に対して、近代的な民主主義、これは是非今後常に念頭においておいてほしい。オウエンは、民主的な人間を育てるために、これまでの大人の教育を否定する。「どんな訳があろうと子供を決して打つな、どんな言葉、どんなしぐさででもおどすな、罵詈を使うな、いつも愉快な顔で、親切に、言葉も優しく小児と話せ」(『オウエン自叙伝』、1857)。
それと同時に、宗教(キリスト教)や地主(藩主)といった権威が失墜した後、それに代わる(産業革命以後の)「新たな金持ち(+それにぶら下がる政治家たち)」による支配か、それとも民衆(僕ら)による支配か、という近代以降の「権威主義」VS「民主主義」という側面にも注意を向けたい(これは、「ネトウヨ」VS「パヨク」という(俗的な)対立の大元と考えられる)。
今風に言えば、「googleやamazonの言いなりになって生きるか」、それとも、「GAFAに代表される超巨大企業の不正や不公平を叫ぶか」、のどちらを選ぶか、ということになろうか。恐らく学校に行かなくても、スマホは親に買ってもらえるし、googleやamazonの使い方も自ずと学習していくだろう。だが、そのgoogleやamazonが支配するこの世界の諸問題(どんどん小売店が消えていく!)については、家庭では学べないだろうし、ネット上でも正しくそれを学ぶことはできないだろう(歪んだ情報が多すぎる!)。
幼稚園も学校も、人間が生存するだけなら不要なものかもしれない。学校に行かなくても、とりあえず生きてはいけるかもしれない。けれど、「この世の中(世界)の問題を考え、この世の中を良くする」ことはできない。この世の中をつくる活動に参加できない、ということだ。この世の中のあらゆるものは、誰かによってつくられている。誰かによってつくられた世界をただただ生きるか、それとも、他でもないあなたがその担い手になるのか、換言すれば、「誰かの言いなりになるか、自分でつくっていくか」、ということになるだろう。僕としては、できるだけ多くの人が「世の中をつくる担い手」になってもらいたいなぁと願う。
*my授業ノートより