Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「相互監視社会」の中の学校教育―学校管理社会?(メモ)

 

先日、某宗教団体に属していた指名手配の女性が逮捕された。それから数日後、すぐにもう一人の指名手配犯の「画像」が特定された。ものすごいスピードだった。役立ったのは、「監視カメラ」だった。

数ヶ月前に、渋谷駅で傷害事件が起こった。この時も、監視カメラのおかげ(?)で、あっという間に、犯人が特定され、<瞬時に>逮捕された。

監視カメラの性能・機能は、ますます進化していて、都市部であれば、特定の人間を瞬時に特定することができるようになっている。そのおかげで、僕らはますます「安全」に暮らせるようになっている。犯罪行為をする人間は、瞬時に特定され、逮捕される。

警察=国家装置に逆らうことはできない。自らがそれを望んでいるのである。

http://www.miyadai.com/rsd.php?itemid=126


それはそれで、僕ら一般市民にとっては、とても喜ばしいことではある。「安全」が保障されないのはやはり怖い。

が、その一方で、僕らはますます縮こまって生きなければならない時代に入ったとも言える。警察に目をつけられることは許されない。目立ったことはしないに越したことはない。となると、大きな権力には逆らわず、ただ静かに生きなければならない。そういう時代に入った、と。

逆らうことが許されない社会。

そうなってしまうと、僕らは、小さな世界で静かに生きなければならなくなる。変な野望やおかしなことを考えれば、すぐさまマークされる。反抗することも、抵抗することもできない。犯行しようものなら、社会から抹殺される。みんな、そんなあきらめの中、小さく静かに生きなければならない。

抵抗する欲望を失くした人間は、内にこもらざるを得ない。骨抜きされて生きるか、あるいは、骨抜きされなければ、自分が苦しくなり、「精神疾患の道」を歩まざるを得なくなる(可能性が高くなる)。

この数年、自らの意思で職場を退職する人の数が減っている、という。それとひきかえに、精神疾患で休職する人や、それを理由に退職する人の数が急増しているという。この数年で、2.5倍増だとも聞く。

僕らは、牙を抜かれて、小さく生きざるを得ない。


そんな世相が反映されてか、「学校」も、同じように、ますます縮こまっているように思う。学校は、今や、社会という大きな圧力に脅かされ、その社会に従属する形で存在している。その代表例が、大学や短大である。もう、大学も短大も、社会(国家を含む)に、いわば隷属するかたちでしか、存立しえなくなってきている。「第三者評価」という言葉も、聞こえはいいが、外部からの圧力である。

学校も、ますます「管理」を強化している。子どもたちは、今や抵抗することなく、ただ教師の顔をうかがっている。逆らうことは許されない。今や、教師は子どもの敵にはならない。教師自身が、社会の従属物でしかない、ということを子ども自身が知っているからである。「所詮は公務員」、そういう意識が、子どもたちの無意識に刷り込まれている(と、前提を置く)。そうすると、子どもたちは、教師=社会には、逆らえなくなる。教師に逆らう、学校に逆らうということは、社会に逆らうことになる。今の時代、学校に逆らって、学校から退いても、そういう若者の受け皿となる仕事はほとんどない。

だからか、今、定時制や通信制の高校に、入学希望者が殺到している、という。学校から脱走しても、社会に自分の居場所は見つけられない。学校や教師に逆らっても無駄だと分かった若者が、定時制や通信制高校に「戻って」きているというのだ。(それにもかかわらず、定時制や通信制高校は、ますます規模縮小化している!)

今や、学校は、そのまま社会である。


学校も学校で、厳しい競争に晒されている。

大学も短大も、学生集めに翻弄されている。学生集めにとって大事なのは、「就職率」である。学校は、就職率をあげるために、懸命になっている。力のある大学・ブランド大学は、黙っていても、就職率は高い。力のない大学は、黙っていれば、就職率を下げるだけだから、動かざるを得ない。一部の大学を除いて、どこも、就職率を上げることに尽力する。極端に言えば、就職率を上げるために、頑張るのである。学生たちのためではない。学生を確保するために、頑張るのである。

それは、大学や短大にとどまらない。高校も、今は厳しい競争に晒されている。中高一貫教育の増加は、そうした高校の競争激化の一つの現れとみてよいだろう。中高一貫教育は、小学生の厳しい競争を迫る。あるいは、さらに小中一貫学校というのも、生まれようとしている。小中一貫学校となると、幼稚園から受験戦争に参加しなければならなくなる。

半ば、暴論の如くにこれを書いているけど、妄想とは言えないだろう。

さらに、幼稚園も、総合こども園への改編を迫られており、教育システム全体が、どこに向かっているのか分からないほどに、めちゃくちゃになってきているようにも思う。小中一貫、中高一貫、さらには高校2年で卒業できるシステム(新しい飛び級制度)、システムをいじりすぎて、親たちも、もう、何をどうしてよいのか分からないほどに、改革が急速に行われている。

学校がアノミー化しているとも言えなくもない。

今や、子どものことを思う教師はどんどん追い詰められていく。そして、管理や監視が好きな従順な教師が活躍するようになっている。「警察官」の如く、規律とルールを大事にする教師が、学校に求められている。子どものために尽力する教師は、迷走し、苦しんでいる。

今ほど、「新教育」や「児童中心主義」が、リアルに、大切なものだと感じられる時期はないかもしれない。


僕は改めて、自分が<新教育寄りの人間>だということがはっきりと分かった。社会がどんなに窮屈になろうと、僕は学生たちと向き合い、ぶつかり、利害関係なしに、熱い教育をしてやろうと思うし、また、自分の教え子たちを管理・監視しないように、注意して、日々の仕事をしていきたいと、強く思った。「先生の思惑通りに動こうとする学生」を見抜き、あえて、変化球を出す。あるいは、答えない。

今こそ、教員、教師、教諭と呼ばれる人たちが、子どものためだけに、奮闘しなければならない。そうでなければ、子どもたちはますます追い詰められていくはずだから。

基本は、「やりたいようにやれ」、だ。それを最大限にバックアップするのが、僕らの務めだ。与えられたことだけを器用にこなす人間を、自分から何かを与えようとする人間に変えること。それが、本来の教育なのだから。そして、やりたいことがちゃんとやれるための「ずるさ」「したたかさ」「柔軟な思考」「すり抜ける術」「戦略」「説得力」を与えることだ。

今後も国家や社会からの要請=強制は続くだろうし、ますますその威力は強大なものになっていくだろう。その中で、いかに教師が自由な教育空間を守り、うまくその要請=強制からすり抜け、したたかにやっていくか。それこそ、自ら考え、自ら動く力が求められている。そうでなければ、学校の「門番」「警備員」以外の何者でもなくなってしまう。どんなに外野が叫ぼうと、子どもたちからすれば、先生はやっぱり特別な存在であり、門番でも警備員でもない。

大人たちが教師をどれだけバカにしても、公務員だ、警備員だと叫んでも、子どもたちはそうは見ない(親に影響されてバカにする子どももいるが、それは子どもの内から生まれたものではない)。先生は先生である。

ただ、そういう気持ちをもった新教育寄りの先生たちが追い詰められているのもまた事実。警察官=警備員的教師をいかに封じ、教師的教師をどう育てていくのか。それが、まさに僕の使命でもあったりする。

(今、思っていることをスケッチ的に書きました。備忘録です。乱筆乱文です。あしからず)


大量殺戮の芽は、攻撃を好むナショナリズムの復活にある。(アドルノ)

大量殺戮は、有事の際に起こるとは限らない。大量殺戮は、いろいろな形で、迫ってくるものである。毎年、3万人以上の人がこの国では自ら命を絶っている。これとて、ひょっとしたら、大量殺戮の一つの現れかもしれない。

あるいは、200万人を超える生活保護受給者も、もしかしたらそうしたナショナリズムによって生み出されているのかもしれない。ちょっと時代が変われば、こうした人たちへの攻撃がすぐに始まるだろう。

僕らはもっともっと賢くならねばならない。そんな時代に生きている。

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