http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120613/k10015812601000.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120613-00000159-jij-pol
●前々から議論されていた「総合こども園」の構想は、断念という結末を迎えることになった。この民主党の迷走に、保育・幼稚園教育関係者たちは、振り回されるだけ振り回されて、「認定こども園」で落ち着くことになった。小宮山さんも断腸の思いだっただろう。ただ、それだけこの問題は様々な思想や利害や思いがあり、一筋縄ではいかない問題だったと改めて認識させられた。
●消費税増税の大義名分がこの総合こども園という新システム導入だった。およそ1兆円の予算が計上され、そのうちの7000億円を、増税される消費税から捻出しようとしていた。けれど、「増税」はするらしい。もうこの時点で、???の嵐だ。国家予算が足りず、どうしようもないことは分かっているけど、あまりにも話が錯乱しているので、それについていけない。
●待機児童の問題が、この問題にうまく利用されていた。待機児童をなくすために、幼稚園を総合こども園にする、という「うまい話」だった。が、「待機児童をなくすこと」がこの問題の前提とされていて、待機児童という言葉の背後に潜む問題については、誰も口にはしなかった。
●あえて言えば、待機児童なんていう言葉自体が、極めて野蛮な言葉である。生まれて間もない時期から、溢れんばかりの乳幼児が、親から引き離されようとしている、それが待機児童の言葉の意味だと僕は思う。多くの人が感じていると思う。「せめて、幼稚園に入るまでは、子どもには親や家族と過ごさせてあげてほしい」、と。それが叶わぬのが、今の社会なのだ。
●子どもたちが望んでいるのは、保育園~こども園ではない。親と一緒にいることである。こども園が必要だなんだと議論するのは、全部大人たちだ。否、親たちも、心の底から、子どもを保育園に預けたいと思っているわけではない(と思いたい)。簡単に言えば、「お金がないから、働かざるを得ず、そのために、泣く泣く保育園~こども園に預けたい」、と思っているのである。
●情けない国になった。親が子育てさえできないほどに、貧しい国になった。本来ならば、親が子どもの面倒を見るのは、ごく当たり前のことだった。わずか100年前には、これほどまでに幼稚園も保育園もなかった。子育ては、親としてごく当たり前のことであったし、親のみならず、多くの人が子育てにかかわっていた。江戸時代では、男性が子育てに励むのもごく当たり前のことだったという研究もある。
●なぜ、こんなにも、子育てができなくなったのか。なぜ、こんなにも、子どもの面倒を見られないほどに、親たちは働かなければならなくなったのか。どうして、こんなにも、子どもが禁忌されるようになったのか。生まれてわずか数年の赤ちゃん~幼児たちが、なぜこんなにも「待機」させられなければならないのか。問題はここにあるのではないか。
●その背景にあるのは、やはり労働環境の変化にあるだろう。今後考えたい問題はここにある。僕らは、ずっと長い間、第一次産業に従事してきた。そのほとんどが第一次産業の従事者たちだった。が、明治以降、そして、戦後になって、急速に第二次産業従事者が激増した。簡単に言えば、「工場労働者」が大量に生み出された。が、時代は変わり、工場が海外に移転し、また、工場の機械化が進み、第二次産業の空洞化を招いた。巨大な工場は次々に閉鎖され、海外に移されていった。それのみならず、機械化の流れの中で、人間がいらなくなった。それは、第一次産業も同じで、人間がいらない産業になってしまった。
●第一次産業にも戻れず、第二次産業も空洞化し、僕らは、働き場所をなくしていった。海外の低賃金労働者に仕事が奪われ、そして、機械に仕事が奪われていった。モノは大量にある。けれど、労働力はいらなくなった。一部の人間たちが大儲けできる一方で、多くの人が労働力として必要とされなくなってしまった。それが、ある種、契約社員や派遣社員が増えた理由とも重なっている。ほとんどの人が、労働力として必要とされず、不安定な職に甘んじ、低賃金で働くしかなくなってしまった。ゆえに、共働き、あるいは(それとパラレルで増大していった女性の社会参画~それに伴う離婚増加による)母子・父子家庭で、ギリギリの生活をするしかなくなってしまった。
●それが、待機児童の裏のからくりだと僕は考える。子育てもさせてもらえない、仕事は安定しない、夫婦ともども別の場所で働かざるを得ない、子どもを見るだけの余裕がない、そんな時代を生きている。
●総合こども園云々、認定こども園云々も、また、待機児童をなくすという<崇高な>理念も、実は、事の本質から外れた議論だと、僕は前々から思っていた。それよりも、子どもが大好きな親と限りある幼少期に一緒にいられるための知恵をもっともっと出し合うべきだとずっと思っていた。子どもは無条件で親を求めているし、親から離れたいとは微塵も思っていない。いずれは離れ離れにならなければならない。せめて、かりそめの幼少期だけでも、親子のべったりとした濃密な時間を保障できないだろうか、と。そういう本質的な議論が欠落したまま、やれ待機児童がどうとか、やれこども園がどうとかという議論ばかりが目立っていた。
●「遊びはここで終わりにしようぜ」
●ずっと教育学、児童福祉、心理学、哲学をやってきた僕から言いたいのは、「親と子どもを引き裂くものが全ての悪の根源である」、ということ。繰り返すが、子どもは何があっても、どんなことがあっても、親を求めているし、親を必要としているし、親のそばにいたいと思っているし、それが飽きることはない。それが乳幼児であれば、なおさらだ。これも繰り返しになるが、幼少期というのは、ほんのわずかな時間でしかない。それに、僕らは皆、その幼少期の記憶をもっていない。断片的なものだ。けれど、そんな幼少期によって、僕らは自分の足で歩き、自立していく力を獲得していくのである。それは、どんな学問的立場をとっても、そうだという結論になる。
●国家がしなければならないことは、認定でも総合でもどちらでもいいが、こども園を作ることに尽力することではないはずだ。そうではなく、国家は、親と子が切り裂かれる現実に立ち向かい、親と子が親密でいられるわずかな時間を守り、それを奪うものを規制したり、阻止したりすることである。国家権力は、僕らの人間としての最初の生活を奪ってはならない。そうではなく、誰もが、親と子というかけがえのない関係の時間を守るためになければならない。
●出産してから、せめて3年間くらいは、誰にも害されず、誰にも脅かされず、穏やかで、安らぎのある、温かい関係の中で、子どもたちを生きさせてあげてもらいたい。
●待機したい子どもなんていない。子どもはただ待機させられているだけだ。それを見誤ってはならない。