2012年になりました。
というわけで、新春、keiは語ります☆
2011年の日本というと、誰もが、3.11の東関東大震災を挙げることだろう。でも、ひねくれ者の僕は敢えてこの問題に触れないでおく。どこかの誰かの如く、「キズナ」という軽くて薄気味悪い言葉を政党の名前にするほど、僕は順応な人間ではない。
けれど、この大震災で見えたこともある。それは大きかった。日本が、いかに危機管理意識が低かったか、とは言わない。いつでも災害とは、想定範囲外のことが起こり得るし、自然を全て僕らの理性で統制できるわけなどないからである。自然は、僕ら人間の英知などをはるかに超え出た存在なのである。そんなことは、言うまでもなく、当然のことである。
にもかかわらず、この国の人々は、その責任者探し(=犯人探し)に明け暮れた。「天災」と「人災」を分けて考え、人災となりそうなものすべてを「悪」とし、その「悪」を責めることで、なんとか自らを納得させようとしていた。
けれど、僕らは皆、その悪の恩恵を被っていたのもまた事実なのだ。誰も、その悪を「悪」とは見なしていなかった。こういう天災があったから、気づけたのだ。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん、その「悪」のせいで、故郷を去らなければならなくなったり、仮設住宅に住まなくてはならなくなったりする人たちのことを忘れてもならない。彼らが、悪を非難することを誰も咎められないだろう。僕だって、同じ立場なら、悪を断罪するだろうし、狂ったように叫ぶだろう。「棲み家を返せ!」、と。
こうした中、昨年はミュージシャンたちが頑張った。音楽が人々を支えた一年だったとも言えるかもしれない。辛い時にこそ、音楽が励みになる。改めてそのことに気づかされた一年だった。途中からは、「またお前たちもか?!」と言いたくなるような感じにはなったが、ミュージシャンたちの活躍は、現地の人たちの心を支えたことだろう。
この一事例は、世界的な「政治不信」「体制不信」とも直結する。
現在、世の中はまさに「カオス」の一途を辿っている。グローバル経済が経ちまわらなくなり、どこにもバブルが起こらず、お金の流れは国家が統制できなくなり、国家の破たんという訳の分からない事態まで引き起こしている。ユーロ危機がその象徴だろう。欧米が作り上げてきたグローバル経済が、欧米を中心に、破たんしようとしているのだから、もう僕ら黄色人種はどうしていいのか分からない。
そんな中で、国内外に広まる21世紀型の民主化革命。世界も、日本も、もう政治がほとんど機能しなくなってきている。選挙権をもつ僕らも、誰に、どの党に支持していいのか、分からなくなっている。民主党の迷走ぶりには、皆、辟易としている。が、他に代わる政党がない。総理大臣は毎年変わるのが通例になりつつある。まだ、日本は大人しいほうだ。外国は、それこそ国家を揺るがすほどの民衆運動が起こっている。60年代の学生運動さながらの動きだ。
そんな時代だからこそ、僕らは、ますます理性的である必要が出てくる。皆が物事を大局的に見て、冷静に判断する力が求められている。各種マスメディアの言説はどれも空を切っている、そのことは誰もが知っている。ゆえに、ネットを中心とする僕ら「ネット市民」たちによるミドルメディアがますます重要な意味をもってくると思う。ミドルメディアが発達するということは、権力者によって統制された言説ではない、僕ら自身による言説によって、繋がりあえるからだ。
僕らは、政治家たちに期待するのではなく、政治家たちが動く前に、僕らが動けばいいのだ。僕の同朋であり同士である麺処まるわのI氏は、大震災の瞬間、僕と一緒にラーメンを食べていた。が、その後、すぐに動いた。その日に動いた。この目で僕は見ている。そして、その彼の動きから、「ラーメン義援隊」が生まれ、政府・政治が動く以前に、どんどん被災地に乗り込んでいき、多くの人の力となった。政治家や権力者たちに、下からピーピー文句を言うのではなく、「お前ら、俺についてこい!」と言わんばかりに、突っ走り、そして、それに彼らが追随する、そういう権力の在り方こそ、ある種最も民主主義らしいものではないか。
主体的に、そして理性的に動く。
僕ら大人こそが、まさに今、こうしたことが求められているように思う。というよりも、ようやく主体的に、そして理性的に動くことができるようになった、と考えた方がよいかもしれない。今回の大震災で、多くの日本人が「このままだとダメだ」と気づくことができた。この「このままだとダメだ。自分が動かなければダメなんだ」という決意こそが、主体性への第一歩である。これまでは、一部のエリートだけがそういう危機意識をもっているだけだった。
皆が浮かれられない時代。皆が自分たちの国、世界を楽観できない時代。それは、大変な時代ではあるが、味方を変えれば、ようやく平和ボケした時代から抜け出した、とも言えるのだ。戦後からの脱却と言ってもいいかもしれない。ある意味、新たな緊張の時代に入ったというべきか。
戦争なき緊張の時代。それは、前人未到の時代の到来である。これまでなら、すぐに武力を行使して、無為な殺戮を繰り返してきた。前世期まで、ずっと繰り返してきた。が、ここにきて、僕ら人間は、戦争でなく、英知で、理性で、それをクリアしようとしている、とも言えなくもない。100年前なら、今の状態であれば、世界戦争になりかねない。それくらいギリギリのところを歩いている。
戦争をせずに、国内外の問題を解決する。できるかどうかは分からないが、それを求める人々が圧倒的に増えてきたことは間違いない。
戦争ではなく、対話を。そして、暴力ではなく、愛を。
愛のない世界に、僕らは疲れている。心底、疲れきっている。多くの人が愛を真面目に考える時代になってきたと僕は直感する。ようやく、だ。
これからの時代に求められるのは、主体的で、理性的で、かつ愛情に溢れた大人たちだ。そういう大人たちが増えれば増えるほど、その人たちの連鎖によって、人間的に深みのある人が増えていく。そうすることで、愛情に欠けた子どもたちも救われるようになる。人間の人生など、いつ、どうなるかなんて分からない。どんな状況で生まれてきても、その人生を肯定する人もいれば、否定する人もいる。
不幸な人がいるのではない。人は、社会の中で不幸になっていくのである。ならば、不幸だと思わないような社会になればいい。どんな社会が不幸なき社会なのか。それは、簡単で、温かい社会だ。温かい人間に囲まれていれば、自分を不幸だとは思わない。お互いにお互いを承認し合い、そして、助け合い、分け合う。そういう関係性の中で生きていれば、人間は前を向いて生きていける。たとえ、どんな不幸な状況で生きていようとも。
政治や制度からの自立。そして、その政治や制度を否定せずに、僕らの生活基盤を支える手段としてのみ捉え、自ら動いていく。そして、その僕らの動きに一番敏速に対応し得る人間こそが、本当のリーダーシップをもった人間なんだと思う。人を扇動し、パフォーマンスで票を狙う政治家に惑わされてはならない。一番必要なのは、僕らの動きに合ったリーダーを選ぶことだ。
そのためには、僕らがもっと意思表示をしなければならない。たとえ小さなことであってもいい。僕らが主張しなければ、僕らが求めるリーダー像など見えてくるわけもない。お客様精神をぶち壊す必要がある。与えられたものをみて、選ぶような市民であってはならない。僕らが、どうしたいのかを叫ぶべきなのだ。ここに来てようやく、多くの人たちが叫ぶようになってきた。
2012年、愛をもって、叫び続けようぞ☆