現代の教育問題で欠かすことのできない「いじめ」。
*「いじめをどう対処するか?」という話はもういいかげんにしてくれって感じだ。こういうHow to的な問いはあんまり意味がないっていうか、どうやったっていじめはなくなりそうにない。「いじめの定義は何か?」、これももう嫌ってほど出てるし、いじめに程度があるのは分かりきっている。激しいいじめ、陰湿ないじめ、自尊心を破壊するようないじめ、軽いいじめ、挙げればきりがない。それより、「いじめとは一体何であり、どういう事態なのか?」、と問うほうが有意義のような気がする。。。ってことで・・・
いじめは、一過性の流行やシンドロームではなく、日本文化に根ざした根絶不可能な現象のように思われる。日本では「いじめ」は、一つの文化システムとして組み込まれているのではないか。
最近流行りのKY。「空気を読め」、「空気を読めない奴」といった意味の流行語だ。日本では、「世間」「集団」「人間関係」の空気を読まなければ生きていけないほどに、無言の言語を解読しなければならない。自分の意見を言う前に、相手や相手集団が何を感じているのかを事前に察して、それにふさわしい仕方で自己を振舞わなければならない。自己以前に他者が存在している。ゆえに、自己・自分がないと言われる「日本人」が常に再生産されるのである。日本人は「自分」をもち「自己」を主張してはならないのである。
学校でも、表向きは「個性を伸ばす」と言いながらも、裏では「自己つぶし」がしっかりと遂行されている。その一つの表れが「いじめ」なのではないだろうか。
小学校で年上の友だちに対して「先輩」と呼ぶ児童はどれだけいるだろうか。小学校では「上下」の立場の違いを言語でわざわざ表現したりはしない。まだ「空気」がないのだ。だが、中学校になると、どういうわけか、年上の友だちのことを「先輩」と呼び、敬語や丁寧語で話さなければならなくなる。しかし、それは誰かに教わることではなく、雰囲気の中でそれぞれが何となく学んでいく事柄である。もし中学校で年上の人に対して「●●くん」や「●●ちゃん」と呼んでしまえば、「体育館裏」に呼び出されることになる。
こうした先輩-後輩関係という力関係はクラス内にも生じる。学力においても、腕力においても、知力や政治力、さまざまな力が相互に絡み合い、覇権争いへと発展していく。けんかが強い、勉強ができるという一つの条件だけでは覇権は奪取することはできない。
また、同時に、できるだけ下の人間にならないようにと配慮する。周囲の子と違わないように気を配る。ゆえに、中学生たちはあらゆる知恵を使い、巧みに空気を読むことを学習していく。ゆえに、空気を読めない生徒、みんなと違う生徒は、いじめの対象と規定されて、そのターゲットにされるのである。
中学生はまさに「思春期」であり、自己を意識し始める大切な時期だ。日本では、この大切な時期に、自分を出さないことを同時に学習していくのである。自己をもち始める時期に、同時に、自己を出さないで空気を読んでいくことを学んでいく。そして、自己をもち、みんなの空気の読まない人間は学校の外へと追いやられるのである。
このように学校内で授業や主な活動以外で、(明示化されない仕方で)学習されていくプロセスを、「隠れたカリキュラム」と呼んでもいいだろう。
いじめとは、実は「自分のない日本人」を育てるための隠れたカリキュラムであり、日本型の学校ではなかなか抑止することのできない教育システムなのだ、と言ってもいいのかもしれない。
明日、講義で話す内容の一部を紹介させていただきました。いじめを語るのってすごく難しいんですよね。。。