Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

『家庭と学校(Elternhaus und Schule)』byヴィルト・ロレンツ(試訳)

以下、「Elternhaus und Schule」(Elke Wild/Fiona Lorenz、2010)の試訳です。
(もうamazonで買えるのね、、、汗)

***

1.1 社会の変容

 われわれの世界は、前世紀とこの10年間のなかで劇的に変容を遂げた。技術的、医学的進歩、そしてグローバル化の進行などによって、職業やプライベートな領域の中で新たな形態の遊戯空間が拓かれ、同時に新たな要請が生じることとなった。

 だが、単に「表面上」、生活(Leben)が変わっただけではない。ドイツにおいても、他の西側産業国においても、優勢な価値や規範の変容を確認することができたし、今も確認できる。例えば、分娩室に入る男性というのは、半世紀前にはまだ、女性の連邦首相と同じくらい、想像しがたいことであった。未婚の生活共同体というのも、いわゆる68年運動の時代であってさえ、国民の大部分に拒否されていたし、1973年まではいわゆる「淫行条項(Kuppelparagraphen)」に入れこまれていた。50年代にはまだ、女子学生というのは、センセーションを巻きおこすほどに珍しい現象だった。今日彼女たちは多くの履修課程でマジョリティーになっているにもかかわらず、だ。まだ今も差別の形式が色々な仕方で現存しているにせよ、こうした現象すべてが、今日自明のこととなったし、寛容や価値多様主義の傾向をもつ世界的傾向の現れだと解釈されている。

 しかし、また反対の例もある。「暴力に対するゼロトレランス」は、学校の中で、ますます頻繁に使われるスローガンであるし、トーク番組に出演するゲストの喫煙は、-それがたとえ元首相の話題であっても-公衆の怒りの矛先となるし、今日ゴミの分別に反対する意見を表明しようものなら、非難轟々となるだろう。

 すでにこうした幾つかの例が、多かれ少なかれ「世界的(普遍的)に」現代史的な変化を語り、評価することがどれだけ難しいか、ということを描いているといえよう。価値変容に対する社会学研究においても、様々な、そして互いに対立し合うもろもろの立場がある。価値に対して保守的な立場の代表的研究者たちは、意見調査で算出した傾向を、-徳や従順の浸食だとして-1960年代の終わりから継続する価値の崩壊の兆候(Indiz)だと解釈している。こうしたむしろ非論理的な諸研究は、価値的態度の変化を認めつつも自ずと変容する社会の枠条件との関連において体系的に分析しているもろもろの学問的見解と対立する。こうした学問的見解は、社会的な危機の徴候としてではなく、物質的に変化する生活状況に対する首尾一貫した「応答(Antwort)」として捉えられる一つの価値変容を認めている。[そこで]まずもって、以下において、価値変容に対するこの両者の最も重要な見解を描き、それを通じて、環境研究の成果を顧慮しつつ、最終的には、貧困研究や不平等研究との大きな関連の中で、価値変容議論の諸研究を整理することにしよう。

1.1.1 サイレント・レボリューション-価値変容、そして/あるいは価値の多様化?

 一般的にも強く注目すべき見解の一つは、独自の経験的調査に基づき、あらゆる近代諸国で観察し得る物質的(伝統的)価値のグローバルな傾向をポスト物質主義的(ポストモダン的)な価値という方向性で明らかにしているロナルド・イングルハート(1977;1998;Welzel&Inglehard,2005)からきている。この価値変容の目に見える現れは、原理、義務履行、従順、あるいは物質的安全といった「伝統的」な徳がなくなった代わりに、自己実現、社会的属性、参加といった「ポストモダン」な価値に意義が与えられるようになってきた、ということだ。

 こうした価値変容の原因として、社会の変化、つまり「伸展する豊かさ(Wachsende Wohlstand)」が挙げられよう。基本的な価値傾向の形成は、若者時代(青年期)に起こるので、ある世代に重要だと思われる規範や価値は、そのつど思春期(Adoleszenz)に優位な(物質的)諸条件(社会化の仮定)の鏡なのだ、と言われている。こうした考えを描きつつ、イングルハートは、ポスト物質主義的な欲求への傾向を、若者たち(18~20歳くらい?)が自由に、そして主として危機迫る困窮に陥ることなく成長できる社会の文明的成果として、ポジティブに評価している。換言すれば、彼の視点では、「豊かで平和な状態で成長する人間が、自分たちの生活の地平(Lebenshorizont)を、とは異なる目的に向け、複数の価値を認め、自立(Selbstaendigkeit)を、とりわけ努力する価値のある目的とみなすようになる」ということこそが、望ましく有意義なのである。

 イングルハートの見解と合致して、社会史的研究や文化比較研究などは、「豊かさの上昇と共に、パートナー関係(Partnerschaft)への期待や要望が変化し、家族を築くための動機の低下が生じた」、ということの裏付けを行なっている(zusf[zusammenfassen].Nave-Herz,2006)。西洋先進諸国では、パートナー関係の「質」の方が、「安定性」よりもより高い価値をもっており、夫婦の締結に結び付くのは、実用的・物質的目的よりも、「自由意思による相性(親近感:Wahlverwandtschaft)」となっている。その結果、愛が消滅すると、夫婦の資格(Legitimation)はなくなってしまうのである。新成人(ヤングアダルト)の職業選択も、「豊かな」国々では、給与や出世のチャンスというよりも、いかなる仕事が自分の関心に合っているか、そして、有意義だと感じられているか、という問いの方に向けられている。子がより長く作られないのは(子作りが延びているのは)、「それが当然だから」でもないし、子どもたちが高齢期の保障(Altersicherung)に尽くしてくれるからではなく、子どもたちが個人の利益や感覚を引き起こす要素として受け取られているからである(1.2を参照せよ)。

 総じて、一連の経験的観察(的研究)が、イングルハートの見解を支持している。それでもなお、彼の見解に、異論の余地がないというわけではない(zusf.Österdieckhoff&Jegelka,2001)。まずもって批判されたのが、持続的に進行し、一直線に発展する価値変容という主張(テーゼ)である。というのも、例えば、より新しい調査の結果(例えば、シェルドイツホールディング、2006)によれば、誠実さや勤勉さといった伝統的価値や、物質的確実性(物理的安全性?)などは、近年改めて(neuerdings)再び、ドイツの若者たちに高く評価されている、ということを示しているからである。

 基礎的、理論的反論は、ヘルムート・クラーゲスを中心とした研究グループの考察と研究結果(診断)が基になっている(z.B.Klages, Hippler&Herbert,1992)。たしかに、クラーゲスらも、西洋産業国において原則的に肯定的に評価することのできる一つの価値変容が起こっている、という見解を示しているが、イングルハートとは反対に、クラーゲスは、ポスト物質主義的なもろもろの価値にますます向かっていく原因を、単に豊かさの上昇のみならず、ますます多くの若者たちに彼らの自立に関するより高い要求をつきつける教育の拡大にみている。

 クラーゲスの見解に従えば、「古き」価値と「新しい」価値が互いに排除し合っていない、ということがより決定的な点である。彼がいうには、自己成長への努力は決して利己主義的な根本姿勢を示しているわけではないし、際立った自由への志向は怠惰や労働嫌悪と同義ではない。「一方の義務の価値や受け入れの価値と、他方の自己成長の価値は、『相並んで』存在している」という彼自身の主張のために、彼は一連の研究を提示している。つまるところ、その研究が示しているのは、一義的に、「伝統的な」(コンベンショナリスト:伝統主義者)、あるいはまた、「ポストモダンな」(イデアリスト:理想主義者)価値を支持する人たちと並んで、二つのさらなる人間集団が見出され得る、ということである。それは、義務の価値や受け入れの価値も自己成長もどちらも重要と見なさない(レジグニスト:現状の自分を甘受する人)、ないしは、その両方の価値志向を一つの価値のジンテーゼに統合しようとする人である。この最後に命名した集団を、「リアリスト:現実主義者」という概念で示すことで、クラーゲスは、「価値変容は、嘆くべき価値の発展ではなく、まさに現代的な様々な社会(moderner Gesellschaften)の一つの要請(必要条件)なのだ」、ということを強調している。

夫婦の機能の変容

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