講義ノートです。
先週、SOS子どもの村の画像を見せて、説明しました。それを受けて…。そして、赤ちゃんポスト論につなげる議論として…)
SOS子どもの村は、NGO団体。国を超えた世界規模の社会的養護の実践を行っている。世界133カ国にまたがるグローバルな取り組みといえる。が、その内容は、極めてローカルな活動であり、母子という最も小さいユニットを世界規模で保障しようとするものであった。
地域→(国)→世界
ローカル→(ナショナル)→グローバル。
「子どもの権利」という普遍的な価値を世界で共有し、それを地域レベルで皆の力で守っていこう、とする精神が、SOS子どもの村にはある。子どもの権利条約は、各国家の価値を超えた内容を掲げている。国家レベルを超えた取り組みなので、国がそこに強く関与することはできない。
こうした力は、「シティズンシップの教育学」の中でも言われていることである。シティズンシップ教育は、「多様な市民の能動的な参加によって構築される公共性」を高めようとするものであり、「国民」に代わる「市民」を要請する。多様な市民の中には、さまざまな状況下の人がいる。シティズンシップ教育では、それを隠すのではなく、それを露わにすることがまずもって必要となる。(これまでの公教育は、そうした「差異」を打ち消して、「同一」で「単一」な存在であるように強く求める)
「これまでの学校教育は、国民国家を単位として制度化され、実践されてきた。しかし近年、グローバリゼーションの発展とともに、多文化的状況が強まり、国民国家の枠内にとどまらない国際理解、異文化理解の必要性が認識されるようになっている」(小玉重夫、『教育学をつかむ』、2009:255)
「私たちの社会では、これまで以上に、人々の価値観が多様化している。また、多様な考え方をもつ市民が、政治活動や経済活動をはじめ、社会に存在するさまざまな問題の解決に能動的に参加するようになっている」(同)
SOS子どもの村は、まさにそうした市民の能動的な活動であり、国で用意された従来の養護システムを超える取り組みであり、「国民」の視点ではなく、「市民」の視点で形成されたものといえるだろう。グローバルな観点から、ローカルにケアしていく仕組み、といってもいい。
地域力の強化→市民の主体性→社会参加
この「運動」では、従来の国家的(あるいは地方自治体的)なサービスとは異なる論理が起動している。
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教育においても、今、「グローバル化」が叫ばれている。「ゆとり教育以後の教育」の一つのモデルが、「グローバルな教育」だと思う。
その典型例が「英語教育」であろう。
英語は、国民形成という視点ではなく、世界市民の形成という視点から注目されるようになっている。今や、英語スクールは小さなバブル期を迎えている。どの英語スクール(子ども向け)も、かなり生徒数を伸ばしている、と聞く。先日、NHKでも、日本国内にあるインドのインターナショナルスクールの盛況が報じられた。「ゆとり教育」はどこへやら。今や、どこもかしこも、国際教育、英語教育、グローバル教育である。
その根底にあるのは、企業のグローバル化とそれに伴う英語の必要性だろう。楽天などの企業では、日本人同士でも英語で会議をする、という。国内の需要がどこも停滞する中、企業はどうしても海外に目を向けざるを得ない。それで成功したのが、ユニクロであろう。今や、日本の企業全体が、英語力を期待しているし、あらゆる場面で英語力(語学力ではなく英語力)が求められている。
けれど、「英語を話せる」ということは、それ自体、市民の力の全てではない。世界共通言語ではあるが、英語が話せるから、「市民」なのではない。世界規模でグローバルな経済活動をする上で英語は必須ではあろうが、国際的な価値を認め、それを自ら実践してこそ、新しい教育の力となることができると僕は思う。「グローバル時代の中の教育」を考える時に、一つに、上に挙げた企業のグローバル化が挙げられるが、それと同時に、教育や福祉のグローバル化という視点も忘れてはならない。その典型例が、SOS子どもの村である。
みなが、社会の一員として、社会に参加(コミット)できるようになること。それが、グローバル化の時代における公共的な力だろう。グローバルな教育を考える際に、この点を見誤ってはならない(と言っても、きっと見誤るんだろうけど… ゆとり教育と同じように…)
そうした国際的な公共の力を学ばず、社会の「周辺部」で苦しんでいるのが、虐待する親や、緊急下の女性たちであろう。「語る力」を得なかったが故に、暴力や匿名性といった問題と直面するのである。
と、同時に、そうした緊急下にある人々に対して無関心であり、国まかせにしている僕らもまた、そうした力を欠いた存在ともいえるだろう。
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日本のエリートや成功者たちは、ますます自分の富を自らのために蓄えつつある。日本のいわゆる「勝ち組」は、その巨万の富を公共的な団体に寄付をしたりはしない(場合が多い)。ベッカムは、かつて10億円を民間の福祉団体に寄付したと言われている。そういう「勝ち組」の「公共的倫理」を得ていないのが、日本の勝ち組だと思う。もちろん東日本大震災の時に、多くの人が寄付をした。が、そのお金の多くが国にわたり、その国の公共事業に使われている(そしてその資金がどこにどう流れているかを知る人は少ない…)(+SOS子どもの村福岡を見れば分かるが、日本にもそういう精神をもつ成功者もいる!)
*彼らは、シティズンシップ構成要素の「社会的道徳的責任」と「共同体への参加」を学ぶ必要がある。(?!)
また、日本の貧困層やあるいは危機的状況にある人たち、社会的弱者たちは、自らの口を閉ざす傾向が強い。この国では、弱者は語れないのだ。けれど、グローバルな視点で見れば、弱者は声を上げなければならない。「私はこんなに苦しい思いをしているのだ! そんな私にも権利はある!」と主張するのが普通であって、口を閉ざすことは許されない。にもかかわらず、この国の弱者は、沈黙しなければならない。
*彼らは、シティズンシップ構成要素の「共同体への参加」と「政治的リテラシー」を学ぶ必要がある。(?!)
かくして、日本では、強者が語り(私腹を肥やし)、弱者が沈黙する。世界では、強者がだまり(金を出し)、弱者が叫ぶ。この事実とどう向き合えばよいのか。
日本の教育は、何をやってきたのか、と思う。
グローバルな時代の中で、教育が取り組まなければならないのは、やはり「公共へのアクセス」だと思う。金持ちは、自らのためではなく、社会・地域のためにもっと自分のお金を使うべきだし、また、貧困層の人たちは、あらゆるツールを使って、自らの権利を主張すべきである。それこそが、教育の目的なのではないか、とも思う。
赤ちゃんポストも同じような論理に導かれて、実践されているものである。SOS子どもの村同様、この取り組みも、ナショナル=国家的なアプローチを超えている。国家レベルで対応できない問題を扱っている。
最後に問いたい。国や政府は今、何のために存在しているのか。こうした僕らの草の根的な運動を縛りつけるために存在しているのか。それとも、そうした市民の運動を支えるために存在しているのか。教育も同じである。僕らの主体的・自主的な運動を抑えつけるために存在しているのか。それとも、そうした主体的な運動を促進するために存在しているのか。
僕の教育学があるとすれば、「強きものは弱きもののために、弱きものは強きものを抑制するために」、そして、「その双方が互いに互いを認め合い、共に生きる道を考え合う」、そういう教育学だと思う。もっといえば、「エゴイズムを超克する教育学」と言ってもいいかもしれない。
「相談できない」というのも、やはりエゴイズムなんだと思う。もちろん「相談できない」という気持ちは最大限に尊重したい。けれど、それでは問題は解決に向かわない。相談できない人を作らないこと、どんな時でも、誰かを頼り、誰かを当てにし、誰かに聴いてもらい、誰かと語り合う、そういう態度こそ、僕らは徹底的に学ぶ必要があるのではないだろうか。
というような話をしました。もちろんこのことを全部話したわけではないです。
学生たちのコメントカードを読むと、おおよそ、みんな何かを感じてくれたように思います。
真剣にみんな聴いてました。これだけみんなが真剣に聴いてくれる講義ってなかなかないんじゃないかな~、なんて♪ (それくらい、僕も力と心を込めて語りました)
PS
本は完成した。けど、僕はもう次の第一歩を歩み始めてます!