Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

あとでなきホモ・ルーデンスへ■10年前の僕の某原稿より

2005年に某誌に書いた文章原稿がふと出てきたので、こちらで掲載します。

実に、10年前の僕の文章♪

10年前の僕の方が、しっかりした文章を書いていた気がする…。

と同時に、「若いなぁ、俺…」って気もする(苦笑)。

僕の肉体はどんどん老いていくけど、言葉は老いないんだよな…。


あてどなきホモ・ルーデンス

われわれは、どこまで遊ぶことが可能なのだろうか。いや、どれだけ具体的に遊べるだろうか。この問いを聞くと、私は、テレビゲーム、トランプ、かるた、ジェンガ、凧上げ、剣玉、ヨーヨー、かくれんぼ、鬼ごっこ、ままごと、将棋、オセロなどを思い浮かべる。しかし、遊びは他にもたくさんある。その数は無数だ。また、大人ともなれば、パチンコ、競馬、ビリヤード、麻雀なども新たに遊びとして加わるだろう。人によっては、音楽活動や社会奉仕も遊びとなるかもしれない。さらには、野球観戦やサッカー観戦も遊びだと主張する人もいる。議論や語り合いでさえも遊びの一形態かもしれない。また、高齢者が遊ぶと言ったときには、ゲートボールや囲碁が代表的な遊びとなるし、テレビ観賞も遊びの一つとなり得る。実際、テレビを楽しみに生きている高齢者は多い。

では、具体的に、「何をして遊ぶ?」と尋ねられたとき、われわれは、どれほどの答えを持っているだろうか。この答えは、個々人の間に差があるだろうし、問われた時の状況や状態にもよる-子ども、大人、老人、日中、夜、季節など-。だが、いずれにせよ、この問いに、「何もしないで遊ぼうよ」、と答える者はいないだろう。つまり、遊ぶためには、遊ぶ何かがなければならないのである。「何もしない」というのは、「遊ぶ」ということとは別のことだ。しかし、次のような反論もあるかもしれない。「一日中、誰とも話さず、何もせず、ただ外を眺めているだけで私は楽しいと感じるし、これも遊びだと思う。何もしないで遊ぶ、という人もいるのではないか」、と。だが、この人は、何もしていないのではなく、外を“眺めて”いるのだ。その窓の外には、穏やかに流れる空気、庭に咲く美しい木々や花々、唸りをあげて通り過ぎる車やトラック、庭の土の上を忙しそうに走り回る蟻や蟋蟀、こうした様々なものが休むことなく活動している。彼はこうした様々な対象を“眺めて”楽しいのであり、なにもしていないのではなく、「何かを眺める」という活動をしているのである。この場合、その眺める主体に細やかな感受性と遊ぶ精神があるだけでなく、その人の傍らに“心踊る対象”がその人の傍らにあり、それがその人に迫るから、楽しいのであり、遊びとなるのである。遊びには、「遊ぶ対象」が必要なのである。

このように、遊びには遊ぶ対象が不可欠である。つまり、「何をして遊ぶ?」という問いかけの「何」が遊びの対象なのだ。このように遊びを考える際、この遊びの対象は<考察の対象>となる。このことは、長い玩具研究を見てもすぐに理解できる。カイヨワも、「長い間、遊びの研究といえば玩具の歴史でしかなかった」、と述べている(カイヨワ、p.111)。遊びの対象は古くから研究されてきているのである。

この遊ぶ対象、つまり玩具は、時代や場所によって大きく変化する。科学技術との関係も根深い。科学技術の進化は、遊ぶ対象の変容に大きく寄与した。「ファミコン」はその代名詞と言えるだろう。また、国が違えば、遊びの対象も全く違うものとなる。こうした研究は、膨大であり、それをここで列挙する余地はない。

だが、この遊びの対象への問いに対して、次のような異論がある。すなわち、「遊ぶ対象を考察するだけではなく、遊んでいる主体の心理的側面も考察の対象なのではないか。遊んでいる人間は、どのような心理的状況なのか。遊んでいる人間はいかに遊びを意識しているのか、を理解しなければならない」、という異論である。近代の遊び論はこうした異論によって展開されてきた。遊び研究がもっぱら心理学者によって発展してきたという事実は、いわれのないことではないのだ。こうした立場を、例えば清水は「主体の意識還元主義」(清水、p.116)と呼んでいる。だが、人は、日常、遊びを意識したり、遊びについて考えたりしながら、遊ぶわけではない。遊ぶ対象とかかわり、その対象に自分の身を委ねつつ、人は遊ぶのである。ここで、全く別な観点からの考察が必要となる。そして、<遊びにおいて、われわれはいかなる経験をしているのだろうか>、ということが問題となる。

そこで、最後に、「あてどなさ(hin und her)」という考え方を示して、本稿を終えることにしたい。これは、H.G.ガダマーが示した概念であり、「行ったり来たり-勝ったり負けたり」という意味を持つ。彼がここで想定している遊びは、スポーツやチェスや将棋といった「競技」(gadamer, p.111)である。この競い合いは、遊びの基本的特徴と考えてよい。だが、勝ち負けが予め決まっている場合、それは競技ではない。誰が勝つか分からない、いつ負けるか分からない、そうした状況において、はじめて遊びは遊びとなる。こうした競技には、遊ぶ対象の他に、競い合う相手が必要である。「遊びであるためには、〔…〕遊ぶ者の遊び相手、すなわちその一手に対して、自ら逆襲する別のものがいつも存在しなければならない」(同上)。ここで、遊びの基本的構造が見えてくる。つまり、遊び手、遊ぶ対象、遊び手を逆襲するもの、という三つの要素からなる構造である。この遊び手を逆襲するものは人間でなくてもよい。ガダマーの例で言えば、蹴鞠で遊ぶ猫は、蹴鞠という対象でもって、そのあてどない動きを遊ぶのである。猫には、蹴鞠がどこへ行くのか分からない、それゆえに、猫は繰り返し蹴鞠を転がすのである。つまり、猫は、「いわばそれ自身が思いもよらないことをしてくれるボールの全く自由な動き」(同上)を遊ぶのである。この「思いがけなさ」は、非常に示唆的な言葉である。彼はこれを「リスク(Risiko)」(gadamer,同)と呼ぶ。リスクのない遊びはないのであり、そこには常に冒険がある。

冒頭の問いに戻ろう。そう、「われわれはどこまで遊ぶことが可能か」という問いである。「われわれ自身の意思の及ばない領域」、「どうなってしまうのか分からない領域」に到達してはじめて、われわれは遊ぶことができる。これは理想論ではない。われわれは、常にすでに、「自分の意思や認識の及ばない領域」を欲し、その世界を生きている。だからこそ、将棋にせよ、オセロにせよ、テレビゲームにせよ、スポーツにせよ、いずれの場合にも、われわれは、こうしたあてどなき事態に身をさらし、自らリスクを負うということをまさに遊び続けるのである。

さて、愛しのホモ・ルーデンス(遊ぶ存在者)に告ぐ。リスクを恐れるな。「勝ち」にこだわるな。不安定な状況を遊べ。幸ある、否、遊びある人生を!!

文献
カイヨワ,R.1971、『遊びと人間』、講談社
清水武、2004、「遊びの構造と存在論的解釈」、『質的心理学研究第三号』
Gadamer,H.G, 1960, Wahrheit und Methode, J.C.B. Mohr(Paul Siebeck)Tübingen


一連の「安保法案」の話にも通じるけど、今の政治家たちには、「遊び」がなんだろうな、と思った。もちろん「リスク」も背負わない。リスクもなければ、遊びもない。「決定したことをただ決定するだけ」。

僕は、これからも、「遊びの精神」を大事にして、常に「リスク」と共に、一瞬一瞬を楽しんでいこうと思う。10年前の僕の文章から、これが、今の僕が学んだこと、かな。ま、自分なんて、人生に全然「勝って」ないけど、もっともっと不安定な状況に身を置いていきたいな。なかなか、この年になると大胆な冒険はできないけれども…

どんな場所でも遊ぶことはできるからね。そう、子どもたちがどこであってもすべてを遊びに転じることができるように…

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事