Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

牧師館に設置された小さな赤ちゃんポスト@ギュータースロー

ハノーファーから1時間半ほど、またドルトムントから1時間くらいのところにあるのが、ギュータースローという町である。このギュータースローの郊外にあるブランケンハーゲンという小さな町に赤ちゃんポストが設置されている。この地域に暮らす人はわずか数千人だが、交通のアクセスがよく、多くの人が行き交う通過点になっている。

この町の赤ちゃんポストは、Baby-Fensterと命名されている。ケルンの赤ちゃんポストは「モーゼの赤ちゃんの窓」だった。似ているが、少し違う。こちらの赤ちゃんポストは、「赤ちゃん-窓」である。赤ちゃんと窓の間に「-」が入っており、他との違いを出している(と思われる)。このブランケンハーゲンの赤ちゃんポストは、病院でも、母子支援施設でもなく、教会の隣にある牧師館(司祭館Pferrhaus)に設置されている。設置者は、聖堂区(Pfarrgemeinde)であり、「聖なる家族(hl.Familie)」という教会組織が運営している。

この聖なる家族には、教会の他、牧師館、そして青少年余暇の家、幼稚園が設置されており、地域の社会福祉・児童福祉の大きな拠点となっている。「青少年余暇の家」は、ドイツの教育システムに合った施設である。ドイツでは、従来、小学校は午前中しか授業がなかった。午後に子どもたちが過ごす場所が必要だった。その必要に応じていたのが、この余暇の家である。現在、ドイツでは、全日学校(Ganze Schule)が普及しており、以前に比べてこうした施設の必要性はなくなってきていはいる。だが、現在でも、社会教育主事(ソツィアルペタゴーゲ)が勤務しており、子どもの大切な居場所となっている。「ここで、子どもたちは地域の友達と出会い、交流を育みます」。

では、いったいなぜ、どういう理由で、またどうした人たちによって、この町の赤ちゃんポストは支えられているのだろうか。こちらの赤ちゃんポストは、合計6人程度の教会関係者の有志でプロジェクトが実行されている。代表のクリストフ・エッペルト(Christoph, Eppelt)は、もともと祭司(Pfarrer)で、この教会で30年、祭司として生き、現在はリタイヤし、無償で地域福祉のために尽力している。実際に約2時間、直に話を聞いたが、とても美しいドイツ語を話す司祭で、その雰囲気からして博愛の精神を感じる方だった。このエッペルトと教区内の手工業職人エアンスト(Ernst)の二人で、2000年頃、赤ちゃんポスト設置に向けて動いたそうだ。エッペルトがアイデアを出し、それに基づいて、職人のエルンストが息子と共にシステムを作り上げていった。全て無料奉仕だったそうだ。

こちらの赤ちゃんポストは、のどかな郊外の静かな通り沿いに設置されている。街中ではない。「ここなら、人通りはあまりありません。夜になれば、車でさっと来て、赤ちゃんをこちらに預けられます。誰にも見られないでしょう。人が歩いていないですからね」。赤ちゃんが預け入れられた後、数分後に、自動的に、エッペルトとその仲間の携帯電話に知らせが入る。「赤ちゃんポストに赤ちゃんが入りました。すぐに来てください。聖なる家族の赤ちゃんポストに赤ちゃんが預けられました」、というメッセージが聞こえてくる。このメッセージは、上述した職人の息子の声だという。限られた人材で作り上げたのを感じる。その後、エッペルトらの有志たちによって、病院に連絡が入り、そこで必要な検査や処置をする、という。

では、なぜエッペルトらは、この牧師館に赤ちゃんポストを設置したのか。その具体的なきっかけとなる一つの出来事があった。

1983年10月に、このブランケンハーゲンの牧師館の入り口付近のオレンジ用ケースの中に一人の赤ちゃんが寝かされていた。それを発見したのが、エッペルトだった。その赤ちゃんは今、大人になっており、一人前の商社マン(ビジネスマンIndustriekaufmann)として働いている。成績が優秀で、他の人よりも半年(半学期)早く学校を卒業したそうだ。この経験があって、当時、牧師館の代表だったエッペルトは赤ちゃんポスト設置に踏み切った。「赤ちゃんの命を守りたい、それから、パニックになったお母さんが間違った行為をしないように、何かしなければという気持ちになりました」。

こちらの赤ちゃんポストのねらいは、「生命の保護(Leben zu bewahren)と、「母親・両親の短絡的な行動を思い留まらせること(Mütter Eltern vor einer Kurzschlusshandlung abzuhalten)」である。

こちらの赤ちゃんポストにも、母親への手紙に代わるパンフレットがある。パンフレットというには、とても簡素なものだが、ここにも、緊急連絡先となる電話番号とこの赤ちゃんポストがどのように機能しているのかが書かれている。

これまで12年間、赤ちゃんポストはこの場所に設置されてきた。が、未だに一度も赤ちゃんは預け入れられていない、という。それでも、エッペルトは赤ちゃんポストを全ての女性のために用意し続けていこうと考えている。「辞めるつもりはありません。誰かがこれを引き継いでくれるといいですが。少なくとも、私が死ぬまでは、この赤ちゃんポストはあり続けると思います。女性や産まれてきた赤ちゃんを守る、それはとても大切なことです」。12年間、一度も使われていない赤ちゃんポスト。使われていないから必要ない、ではないのだ。そこに赤ちゃんポストがあることが重要なのだ。

では、エッペルトはなぜそうした重要性に気付いたのか。司祭はエッペルト以外にもたくさんいる。だが、なぜエッペルトはここまで赤ちゃんポストにこだわるのか。そこには、彼ならではの経験があった。エッペルトは、司祭を目指す学生時代、イタリアに修養の旅に出かけている。戦後間もないころだという。北イタリア、南チロル地方のある町に訪れた。そこで、彼はある女子修道院に行くことになった。そこで、彼は直接彼自身の目で、中世に営まれていたターンテーブル(Drehlade)を見たそうだ。ターンテーブルは、中世の時代、捨て子を保護する目的で作られた赤ちゃんポストのようなもので、これを彼は50年ほど前に見ていたのだった。この原体験が、エッペルトの中にはあった。ゆえに、彼が2000年頃、ちょうどドイツ国内で赤ちゃんポストの設置が話題になっていた頃に、いち早く赤ちゃんポスト構想に乗り出すことができた。

また、彼は、祭司でありつつ、小学校と中学校の『宗教』(科目)を教える教師でもあった。長年、彼は子どもたちに宗教とは何かということを問いかけ、そしてその意味を教え続けてきた。「私は、祭司でもありますが、教師でもあります。私の父も実は教師でした。私の父は、戦前の職業学校の教師であり、子どもたちに働くことの意味を伝えようとしていました。教師であることと、赤ちゃんポストの担い手であることにはどんな関連があるのかは分かりませんが、子どもや女性たちを守りたい、母親がパニックになって、衝動的な行動に走ってしまうことを防ぎたい、と思うのは、自然なことだと思います」、とエッペルトは語る。

赤ちゃんポストの取り組みと教育の共通点は、彼の中には自明のこととしてあったようだ。「子どもを守りたい」「母親を守りたい」「赤ちゃんを守りたい」、それがエッペルトの根本的な願いであり、また祭司であり教師であることの根底であった。振り返ってみると、日本の教育学は、ずっと「どう教えるか」「どう学ぶか」という側面に軸足を置きすぎていたのではないか。教育学は、教えること、学ぶこと-あるいは躾けること、指導すること、職業訓練等-に目を向けすぎていて、守ることという任務を怠ってきたのではないか。あるいは、「守ること」「保護すること」という観点に、あまりにも無頓着だったのではないか。少なくとも、そういう根本的な思想(あるいは宗教的使命?)から、赤ちゃんポストの実践が営まれていると思う。

本当に素敵な方でした。心から尊敬したくなるような人でした。

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