とある幼稚園の先生の話。彼女曰く、「最近、大学や短大の先生たちから、学生をあまり強く怒らないでください、というお願いが多くて、現場も困っている」、と。短大のみならず、大学までもお願いしているというのだから驚きである。今の若者たちは、打たれ弱くなった、すぐに「心が折れる」と漏らす、ちょっと厳しいことを言われただけで凹む、と考えられている。また、「褒められたい」という願望が誰よりも強く、褒められることでしか、自分を肯定することができない。か弱い現代の学生たちの姿が思い浮かぶ。保育園・幼稚園時代から、ずっと甘やかされて育ち、大学・短大でも甘やかされて学び、突然、厳しい社会に放り込まれる。当然、数年でつぶれる若者は増える。大学卒業者でさえ、卒業後数年で路頭に迷い、お先真っ暗となる。
今や、大学も短大も、選ばなければどこでも入学できる時代。「大学全入時代」と言われている。学費さえ納めれば、誰でも大学、短大に入れる。もはや、大学も短大も、高校の延長でしかない。どんな人間でも「大学生」になれる時代なのだ。かくして、大学・短大は、学問を学ぶ場所ではなくなり、就職するための予備校となった。教育系や福祉系の大学・短大となると、もはや「資格」「免許」の取得だけが学びの目的となり、「専門家育成機関」でしかない。就職率が学校の良し悪しをはかる基準となり、その就職率に躍起になる。そして、就職さえ決まればあとは放置だ。お客様化した学生は、とにかく「母校」での生活を満喫して、「楽しかった」と思わせればそれでよい。口コミほど、効力のあるものはない。顧客満足度よろしく、懇切丁寧に、毎回授業評価アンケートをとっては、教員たちに、不平不満をぶちまける。今の大学は、たっぷり甘やかして、快適に過ごしてもらえればそれでよい、と、大胆に言えばそういうことになる。
上の一例を踏まえると、今の大学・短大は、「専門家育成」さえロクにしておらず、ただ資格、免許の資格を与えるためだけの場所となり、学生たちになんとか資格、免許を与えようと必死になっている(そして、それを学生・親が望んでいる)。大学・短大にとっては、「実習」は資格取得の「必須科目」であり、これを落とされると、資格(という名のプレゼント)が与えられなくなる、資格が与えられないと、「中退」の可能性が出てくる。中退数は、今後の運営上、なんとか避けたいところ。「中退者数ゼロ」は、消費者(高校生とその親)にとっては、とても重要なことだからである。進歩的な大学・短大であればあるほど、必死になって学生に資格というプレゼントを与えようと躍起になる。
それがリアルな大学・短大の実情なのだろう。70年代に「高校全入時代」を迎えた。そして、今や「大学全入時代」を迎えた。そうなると、大学も変わらなければならなくなる。短大となると、どこも悲鳴に似た叫びが聞こえてくる。
でも、と僕は思う。教員・保育士養成系の大学・短大とはいえ、教育機関であり、専門家育成の視点をもちながらも、幅の広い視野を与えなければならないのでは、と。古い考えかもしれない。
大学1年生の時と大学4年生の時とでは、考えることや気になることは全然違っている。若者はとかく変わりやすい。夢や目標も変わるし、揺らぐし、消えるかもしれない。短大だと、就学期間は2年であり、人生を決めるのは早すぎるし、決めたところで、数年でまた変わるかもしれない。
そうした状況の中、僕は思う。今の大学生や短大生というのは、「第一の職業人生(キャリア)」を歩み始めている、と考えたらどうだろうか。「第一」がある以上、「第二の職業人生」があってよい。今の時代、終身雇用の神話を信じるものは誰もいない。誰もが、第一の職業人生に躓き、路頭に迷う。それでよいのではないか。第一の職業人生に躓いたときに、また学びなおせる機会があればそれでよいのではないか。スウェーデンなんかでは、20代後半~30代の「大学生」がたくさんキャンパスにいる。学びなおしの時にこそ、大学教育・高等教育の威力が発揮されるのではないか。
学生⇒第一のキャリア⇒学びなおし⇒第二のキャリア⇒…
その際に、課題となるのは、「学びなおし」の場がない、ということである。学びなおし(再教育)の受け手となるのが、大学機関なのではないか。教養科目、たとえば哲学、宗教学、歴史学、心理学、社会学、政治学、経営学などは、社会に一度出てからにこそ、それらの大切さに気づけるようなものなのである。働いてこそ、人間は学ぶことの意味を知るのである。こういう働き手を入学の母集団にすることで、大学はより高度な知を学ぶ優れた場所になるのではないか。