2010年9月28日の記事ですが、新年ということで、もう一度トップで掲載します。今書いている論文ともリンクするので、もしよろしければ、お読みください☆
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どれだけ時代が進化しようとも、どれだけ文明が発達しようとも、救いの手を必要とする人間はいなくならない。いつの時代であっても、多くの人が苦しみ、悲しみ、絶望を感じ、生きる意味を見失い、どうしようもない状況に立たされる。
僕は、ずっと「人は救われるのか」ということを考え続けている。人が救われるとしたら、それは誰の手によって救われるのか。どんな仕方で救われるのか。救われる人間とはどういう人間なのか。もっと言えば、どういう人間が助けを必要とし、どういう人間が助けを必要としないのか。そもそも、人間は生まれながらにして人の手を借りて生き延びていく。死ぬ時も、人間は人の手を借りて死んでいく。死んだあとさえ、人の手を借りている(お葬式や四十九日など)。
それは、「人は人を救うことはできるのか」という問いにも直結する。「人を救う」ことを生業にしている人はたくさんいる。物理的に人を救う人はもちろん、精神的、心理的に人を救う人もたくさんいる。いったいどんな人が人を救えるのか。どこまで人を救えるのか。
僕自身、青年期の頃に予想だにしない色んなことがあって、救いの手を求めた。色んな人に出会い、いろんな文化、本や音楽などに出会い、救われてしまった。けれど、同じような状況にあって、救われず、今も苦しんでいる人はたくさんいる。なぜ、僕は救われてしまったのか。そして、なぜ別の人は救われなかったのか。思い起こせば、自分よりも救いを必要としている人もいた。けれど、その人は救われずに、彼岸へと旅立ってしまった。早すぎる死だった。
幸いにも、僕は一度人生がぶっ壊れながらも、大学に進学し、大学院にまでいき、憧れだった仕事に就いている。でも、それは自分の力、自分の実力で成してきたことなのか? いや、それは違うと思う。色んな条件がたまたまよかっただけだ。僕が救われたのは、ただのたまたま、単なる偶然で、それに原因や理由などはない。自分の力を超えた何かに、たまたま救われただけだ。
大人になり、色んな人と出会い、その中で、救われる人、救われない人、救われないのに救われてしまった人、救われるべきなのに救われない人、色んな人と出会い、対話をしてきた。リアルに出会う人だけじゃなく、本やネットを通じて知った人たちのなかにも、どうしようもなくどん底に落ちてしまった人がたくさんいる。僕の想像をはるかに超えるギリギリの人生を生きている人がどれだけいることか。
しかし、どんな場合にも、人間は、苦しみや悲しみを背負いながらも、死ぬまで生きなければならない。どんなにどん底でも、どんなに傷つこうとも、命ある限りは生き続けなければならない。死んでしまえば終わりだ。もしかしたら死んだ方がよっぽど楽かもしれない。人生や世界に絶望しても、生き続けなければならない根拠なんてあるのか? 死ぬことよりも生きることの方がよい、と誰が決めた? 生きること、いや、生き続けることが正しいなんて、断言できるようなことなのか?
多分、僕はずっとこのことを考えてきたと思う。人の笑顔をみると幸せな気分になるが、笑顔がまったくない人間もいる。笑うことも、泣くことも、すがることも、頼ることもできない人もたくさんいる。僕が生きたこの35年の間に、そういう人って決して減ってないと思う。僕が小さかった頃に比べても、今はとてもとても便利になり、快適になっていると思う。電車のなかにクーラーがないのが、幼いころは当たり前だった。今は(都市部では)クーラーのない電車を見つける方が難しくなってきた。
なのに、人は全然救われない。むしろ、ますます救いの手を求める人が増えてきているように思う。
もし僕に思い切りがあり、度胸があり、向う見ずに跳び込める人間だったら、研究者なんかやらずに、実践者となって、救いの手を必要とする人に全力でぶつかっていったことだろう。そういう活動家や実践者には、本当に頭が下がる。すごいと思う。とても真似できない。すごい活動家や実践者には、これまでも幾度も出会ってきた。そのたびに、自分の肩身の狭さも感じてきた。
けれど、僕はもう少し考えたいと思っている。人を救う、人に救われるということの理論というか、救う-救われるという関係性(人間関係)のあり方やその可能性を思考したいと思っている。それが意味のあることなのかどうかは分からない。でも、もし人を救う理論があるなら、それを自分の手で見つけだしたいと思う。具体的に人を助けられるかどうか、じゃなくて、人を救うってどういうことなのか、をもっと深く考えたいのだ。
多くの援助理論やケア論では、人が人を救うことは可能だ、ということが前提となっている。その上で、どうやって人を救うかという方法を考えている。けれど、その方法で救われる場合もあれば、全く救われない場合もある。ピア・カウンセリング、行動療法、グループワーク、認知療法、家族療法… もちろん、こういう援助やケアをする人も、「こうすれば、人は必ず救われる」と思ってはいないとは思う。ただ、「救えるはず」という希望的な期待はどこかにあると思う。
僕には、そういう自明性がもともとない。なぜなら、自分自身が救われた理由が分からないからだ。どうして救われたのか、誰が救ってくれたのか、その具体的な答えが見つからないのだ。だから、「救える」とは言えないし、「救えるはず」という楽観的期待もない。逆に、歳を重ねて、大人になればなるほど、「救えないじゃん」っていう絶望的な悲観しかもてなくなっている。たとえもし誰かを救ったとしても、それが自分のおかげなのかどうかもよく分からない。で、もしそれが確かそうで、間違ってなさそうだったとしても、「この人は僕の手を借りて救われたのです」、なんて、恐ろしくて言えるわけがない。
とすると、僕は、「人を救える」=「人は救われる」という前提から出発できないのである。かといって、自分自身が救われている以上、「救われないのだ」、と開き直って言うこともできない。だから、どっちの立場にも立てないのだ。
生きること、生き続けることを救うことは、本当に難しいし、できるかどうかも分からない。でも、人間は救う手をやめることはない。殺すのも人間であれば、救うのも人間なのである。殺人の研究、戦争の研究があるなら、生きる研究、救う研究があってもいいと思う。多分、僕の目指す研究ってそういうものなんだと思う。
心理学、現象学、社会福祉学、教育学と学び歩いてきて、色んな発見があった。それを踏まえた上で、人間がこの世界で生きるための学問、人間が一個の存在として(できれば笑顔で)生きていけるための理論をもっともっと模索していきたい。それが自分のすべきことだと今は思っている。
「きっと誰もが楽しく生きられる…はず」、というこのブログのコンセプト-つまりは僕のコンセプトは、そういう理想を示している。似たようなことをV.フランクルも言っていた。「それでも人生にイエスと言う」。 人生の肯定は可能か。人生を肯定できるとすれば、どういう条件のもとで可能なのか。
これからも、このことを念頭において、生きていきたい。
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人生の肯定の可能性の条件。これって、ある種のケアリングの根本問題だよなー。もう少し深く考えてみたいと思う内容でした。