Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「師匠」のいない時代-【師弟関係】はもうオワコンなのか?!

唐突ですが、みなさんには「師匠」っていますか?

「いますよ~」っていう人もいれば、「いないなぁ~」という人もいるかと思います。

僕には、「師匠」と呼びたい人(呼べる人)が何人もいます。

このブログでも何度も書いていますが、板谷祐さん(ボーカリスト)や石神秀幸さん(ラーメン評論家)は、僕の永遠の心の師匠です。板谷さんと石神さんは、僕の生き方を変えてくれましたし、彼の思想や思考を自分の中にとにかく取り込みました。千葉のラーメンという意味では、やっぱり山路力也さん(ラーメン評論家)は、師匠…? 大先輩? 尊敬する兄貴分?だと(振り返ると)思います。

実際に、教育学の分野でも、社会福祉の分野でも、哲学の分野でも、「師匠」と呼べる人がいます。学問上の師匠は、ここでは書きませんが、(訣別した師匠も含めて)数人ですが、確かにいます。

実際に教えを受けた師匠もいれば、実際に教えは受けていないけど多大な影響を与えてくれた師匠もいます。また、どっぷりではないものの、間接的?に教えを受けた師匠というのもあるかと思います。

モレンハウアー先生は直接会ってはいないですが、そのお弟子さん?から色んなことを教わりました☝

師匠とは何かという問いはとても難しい問いですが、ここでは「自分の人生に一方的に大きな影響を与えてくれた対等ではない存在」としておきたいと思います。

大事なのは、「一方的」であることと「対等ではない」という点ですかね。

板谷さんや石神さんから多くのことを学びましたが、僕がこのお二人に何かをしたことはありません。ただただ一方的にこのお二人から学んだだけです。幸いにも、このお二人から僕自身を認知して頂けましたが、それは大事じゃないんです。ただただ一方的にこっちが勝手に憧れて、勝手に学んで、勝手に「師匠」と呼んでいるだけです(苦笑)。

なので、板谷さんとも、石神さんとも「対等」ではありません。多分、死ぬまでこのお二人よりも低いところに居続けると思いますし、それでいいんです。このお二人を超えたいとは思っていません。対等でない以上、対等になりたいとも思いませんし、僕のことを分かってもらいたいとも思いませんし、僕なんぞに興味なんてもってもらえなくていいんです。そういう意味で、内田樹さんの「師匠は絶対的他者だ」という考えは正しいと思います。

こっちがただただ一方的に「この人のようになりたい」と思っているだけです。モレンハウアー先生も、教育学の「理論」と「実践」の双方を極めた人で、ただただ尊敬する人です。

師匠が心に棲んでいてくれるから、謙虚にもなれるし、己の未熟さにも常に気づかせてもらえます。


ただ最近、世の中を見ていても、実際の教育現場にいても、実際に学生や若者たちと関わっていても、「今の時代、師匠って要るのかな?」と思うことが増えてきました。

僕が若い日々を過ごした80年代~90年代って、まだまだ今みたいにPCが普及していたわけじゃないし、データ量もすごく少なかったですし、Wikipediaみたいな便利なサイトもありませんでした。なので、「ググってとりあえず知る」みたいなことができませんでした。分からないことがあったら、先生に聞くしかありませんでした(図書館で調べ物をするというのもありましたね)。

でも、00年代~10年代になると、ネット上での知識もとんでもなく増えて、どんな事柄であっても、それをそれなりに知ることが瞬時にできるようになりました。

誰かに従事しなくても、必要な知識を必要なだけ得られる環境がどんどん整っていき、「師弟関係」も今や「オワコン」なのではないかと思うほどに、「師匠」の重みがなくなっていったように感じます。

18世紀の産業革命につづく「IT革命」の結果、知識や情報や技能が「人」の手から離れ、「ネット空間」で集約されるようになりました。その最も代表的な例が、「料理」「調理」でしょう。厳しい師弟関係の中で、技術だけでなく職人としての生き方を学んだ時代は終焉を迎え、今はネットでレシピや動画でその技術を無限に学ぶことができるようになりました。

教育技術や保育技術も、今やネットを通じて膨大な技術を学ぶことができます。授業の組み立て方や絵本の読み聞かせや手遊びなどは、もうYouTubeがあれば、無限に学ぶことができます。

最も打撃を喰らったのは、「外国語業界」「語学業界」かもしれません。YouTubeの普及により、今ではあらゆる言語をYouTubeで学ぶことができます。語学教師は、文字通り「外国語」を教える教師であり、その人から単に文法や読解だけでなく、その外国の文化や歴史や宗教や背景などを教わります。

師匠の多い僕は、英語の師匠もドイツ語の師匠もいました。ドイツ語の師匠は、二人いて、その二人からは文法や読解だけでなく、「語学を学ぶとはどういうことか」を叩きこまれました。そのうちの一人は、留学経験を経てペラペラにしゃべれる僕をどん底まで叩き落してくれました(苦笑)。その結果、もう26年近くドイツ語をやってますが、本気で「全然まだまだだ」って思えています。

人から学ぶか。それともネットから学ぶか。

どちらからもうまく学べればいいですけど、でも、その「うまくバランスよく」というのは、もはや「師弟関係」ではないよなって思うんです。

師弟関係って、「その人みたいになりたい」という感覚がベースにあって、「その人の学んできたルーツをすべて手に入れたい」という欲望が根幹にあって、自分自身が完全に別の何者かになりたいという「変身願望」が潜んでいるような気がするんです。

ことわざに「師は三世の契、親は一世の睦び」という言葉があります。親子関係というのはこの世限りのものだけど、師弟関係は、「現世」と「来世」、そして「過去」につながっていくもので、親子関係よりも尊い、という考えであります。

師匠をもつ人は、「過去」についての知識や背景を(親から学ぶ以上にはるかに)多く学んでいます。調理の世界で言えば、単に「料理の作り方」だけでなく、どうしてその食材が使われるのか、どうしてこういう調理方法なのか、どこからその料理が伝わり、どう変化していったのかといったことも師匠から学びます。

また、師匠から学ぶということは、その師匠が学んできた道を学ぶということでもあり、師匠の師匠からの教えを授かるということでもあります。その師匠の師匠もまた、その師匠の師匠がいて、そうなると四代前の師匠の教えをも授かるということになります。

そうやってあらゆる知識や文化が伝承されてきたんです。

でも、今はインターネットの時代。ネット内にある膨大な情報やすぐに役に立つ技術が膨大に用意されています。わざわざ遠回りをする師弟関係を通じて学ぶよりも、合理的にサクサクと早急に学ぶことができます。それよりなにより、自分が否定されずに、自分が苦しまずに、学ぶことができます。師匠が直接的に弟子に否定しなくとも、弟子はなかなか師匠に肯定はしてもらえません。…師匠というのは、もう存在するだけで、(弟子からすれば)否定されているんです(苦笑)。

そういう否定的な経験の中で、人は悩み、呻吟し、困惑し、途方に暮れ、もんもんとした時間を過ごします。そのもんもんとした時間の中で、ゆっくりゆっくり内面から少しずつ成長していくんですね。

そうした経験をもたない人が増えているのかもしれない…、と思うと、少し危機的なものを感じます。

師匠がいる人は、その師匠がいるので、ちょっとやそっとでぐらついたり、うろたえたり、流行りに流されたりしません。逆に言えば、師匠がいない人は、師匠がいないので、ちょっとのことでぐらつき、うろたえ、その時その時の流行に流され、あっちへこっちへと振り回されます。軸がないのだから、そうなるしかないんです。

とはいえ、今の時代に「師弟関係を大事にしようね」と言っても、きっと誰も耳を傾けてはくれないでしょう。「師匠? なに時代錯誤なことを言ってんの?」、「師匠なんて、昭和のオワコンだって…」、「今はネットの時代、ネットがあればどうにでもなる」、そんな声が聴こえてきます。

だから、僕も「師弟関係って大事だよ」とはもう言えませんし、言う気にもなりません。師弟関係の良さをいくらアピールしたところで、「めんどうくさいです」と言われておしまいでしょう。

今のスマートで柔軟な若者たちを見ていると、潔くて意見も堂々と言えていいなと思う反面、礎となるような基盤がないゆえの危うさや脆さを感じるんですよね。

そういえば、昨年だったかな。「あなたが尊敬する人は?」と学生たちに尋ねたら、「いない」が半分くらいで、「親」がもう半分くらいで、わずかに「中高の先生(その全てが部活の顧問)」でしたかね。

僕には、尊敬できる素敵な師匠や先人がいっぱいいたので、僕自身もそういう存在にしっかりならなきゃってずっと頑張ってきたけど、もうそういう時代じゃないんだなって(寂しくも)思います。

この歌を歌う人も、この先どんどん減っていくんだろうな…。

師匠をもたない人が圧倒的多数となる次の時代、いったいどんな時代になるんだろう?、という好奇心はあったりなかったりしますかね?!

言い換えれば、過去とのつながりをもたない人たちが社会を担う次の時代は、バラ色の世界となるのでしょうか。それとも、そこは絶望の世界となるのでしょうか。

でも、それを見ないで、ひっそりと死んでいきたいな、、、と。

コメント一覧

sehensucht
定点観測者さん

そうですね。「基礎となる考え方」って、多分「言葉だけ」で教えられるものではないような気がします。

心、精神性、あるいは知性を伝えるスキル(アート)、今はなかなか磨きにくい時代だなぁと思います。。。
定点観測者
ネットでは、情報は伝わりますが、その基礎となる考え方は伝わらないでしょうね。
学校の教師も「心」を伝えるスキルを持った人がどれぐらい残ってるのか…
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