2019年12月1日(日) 主日礼拝 待降節 第1主日
聖書:創世記 1:1〜23(新共同訳)
「初めに、神は天地を創造された。」
神の言葉である聖書は、この言葉でもってわたしたちに語り始めます。すべては神と共に始まりました。
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
神の言葉は、出来事となります。神の言葉は、虚しく消え去ることはありません。
神は、最初に「光」を創造されました。これは、太陽の光ではありません。太陽のことは14節、第4日に記されています。最初に神が創造された「光」、それはすべての命を満たすものです。
詩編 27:1 に「主はわたしの光、わたしの救い」という言葉があります。また、ヨハネによる福音書 1:9 では、イエス キリストを「すべての人を照らすまことの光」(口語訳)と言っています。
この光は、命にとってなくてならないものです。神は、創造の業を命の創造として行われました。単なるものを造られたのではなく、神は命をお造りになったのです。
創造主(つくりぬし、そうぞうしゅ)という言葉を使うとき、わたしたちは「命の創造主」だということを忘れずに思い浮かべる必要があります。
神は命をお造りになったが故に、人間が罪を犯した時にもう一度造りなおすということをなさいませんでした。神は全能のお方ですから、人間が最初に罪を犯した時に創造をやり直すことだっておできになりました。しかし、神がそれをなさらなかったのは、命を造られたからでした。
ものならば、別のものに交換することもできます。しかし、命は交換することはできません。神は、交換することのできない命のために、救いの計画をお立てくださいました。そして、その救いの計画においても、神が命の創造主であられることがわかるのです。神は、キリストの復活の命でわたしたちを満たし、救おうとしておられます。神は、尽きることのない命の創造者なのです。
命の創造者である神は、ご自身の言葉によって創造の業をなさいます。神の言葉は、秩序を生み出します。神の言葉がある前に存在したのは混沌です。神が言葉を語られると、様々に分けられていく中で、務めが与えられ、働きが与えられていきます。上の水と下の水が分けられ、海と陸が分けられ、昼と夜が分けられ、季節が分けられ、植物も動物も種類にしたがって創造されます。神の創造の業が、多様な存在、多様な働きを生み出していきます。そして、そのすべてを神の言葉が秩序づけていきます。
神の言葉がなければ、すべては混沌としたままです。神の言葉は、混沌の中から多様な存在、多様な働きを生み出します。そして、神の言葉の秩序は、その多様な存在、多様な働きが共に生きていくことを生み出します。神の創造は、命の創造であると同時に、共に生きることの創造なのです。
罪の世にあって、わたしたちはこのことを強く感じます。神に背を向けている人類は、混沌の中にあります。価値観の違い、考え方の違い、一致できないことにどれだけ苦しめられていることでしょうか。
しかし、わたしたちが神の言葉に聴く時、わたしたちは神の前に共にあることができます。年齢、性格、趣味、さらには民族といった違いを超えて共に生きることができます。自分の正しさを主張するのではなく、赦し、祈り、愛することを神の言葉が促します。
神の言葉が、今も共に生きることを造りだしているのです。
神は、創造の節目節目で「良かった」と言われます。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が何度も出てきます(4, 10, 12, 18, 21節)。創造の業において、迷いや後悔は全くありません。文字通り「良かった」のです。命があるということ、多様な存在、多様な働きがあるということ、共に生きるということが「良かった」のです。
この言葉を今、わたしたちも聞くことができます。神は、わたしたちに対しても「良かった」と言われます。わたしたちの命があるということ、わたしたちが賜物も性格も考え方も多様であること、働きが多様であること、今共に生きているということに対して、神は「良かった」と言われるのです。
この神の「良かった」という言葉を今、共に聞けることは、とても幸いなことだと思います。この神の言葉を聴く時、わたしたちは命の多様さを神と共に「良かった」と言うことができるからです。そして、わたしたち自身に対して神が「良い」と言ってくださるのを共に確認できるからです。
しかし、わたしたちは自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことがしばしばあります。
それは、わたしたちが神の祝福に背を向けて生きているからです。わたしたちは、自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことに苦しんでいます。生きることを喜べないことが、この世には多すぎます。
そのことを、誰よりも神ご自身が苦しまれました。そして、神はご自身の御子を救い主としてこの世に送るという奇跡をなさいました。創造の始めに、命を満たす光を創造されたように、わたしたち、そして全被造物が神の恵みのもとで生きることができるように、神は「すべての人を照らすまことの光」である御子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださったのです。
神はイエス キリストを救い主として遣わすことにおいてわたしたちに対する愛を示してくださいました。わたしたちはイエス キリストにおいて明らかにされた確かな愛のもとで、自分に向かって語られる「良かった」という神の言葉を聞くことができるのです。
そして、救い主イエスは人となって、人間が神に背を向けた報いを一身に背負い、わたしたちのために死んでくださり、またわたしたちのために死を打ち破り、甦ってくださいました。わたしたちの罪のすべてを贖い、わたしたちが神の「良かった」という言葉を本当に聞くことができるようにしてくださいました。
神は、命が命で満たされ続けるように御子の命を与えてくださいました。生きることが喜びであり、生きるものであり続けるようになしてくださいました。わたしたちをキリストにあって一つに結び合わせて、共に生きるものにしてくださいました。キリストにある救いの言葉、祝福の言葉を聞けるようにしてくださいました。
神のもとにこそ、わたしたちの命、共に生きる喜び、祝福があります。神の御前においてこそ、わたしたち一人ひとりに対するためらいのない喜びに満ちた「良かった」という言葉を聞くことができるのです。わたしたちはここで、キリストの救いの中で、平安に包まれて生きていくことができるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは、わたしたちを掛けがえのない命としてお造りくださいました。あなたのもとで、わたしたち一人一人が良いものであることを知り、共に生きることができます。
どうぞ、あなたの霊でわたしたちを満たし、あなたと共に生きるものとしてください。わたしたちの光であるイエス キリストに包まれ、あなたの「良かった」という言葉を聞きつつ生きる者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:創世記 1:1〜23(新共同訳)
「初めに、神は天地を創造された。」
神の言葉である聖書は、この言葉でもってわたしたちに語り始めます。すべては神と共に始まりました。
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
神の言葉は、出来事となります。神の言葉は、虚しく消え去ることはありません。
神は、最初に「光」を創造されました。これは、太陽の光ではありません。太陽のことは14節、第4日に記されています。最初に神が創造された「光」、それはすべての命を満たすものです。
詩編 27:1 に「主はわたしの光、わたしの救い」という言葉があります。また、ヨハネによる福音書 1:9 では、イエス キリストを「すべての人を照らすまことの光」(口語訳)と言っています。
この光は、命にとってなくてならないものです。神は、創造の業を命の創造として行われました。単なるものを造られたのではなく、神は命をお造りになったのです。
創造主(つくりぬし、そうぞうしゅ)という言葉を使うとき、わたしたちは「命の創造主」だということを忘れずに思い浮かべる必要があります。
神は命をお造りになったが故に、人間が罪を犯した時にもう一度造りなおすということをなさいませんでした。神は全能のお方ですから、人間が最初に罪を犯した時に創造をやり直すことだっておできになりました。しかし、神がそれをなさらなかったのは、命を造られたからでした。
ものならば、別のものに交換することもできます。しかし、命は交換することはできません。神は、交換することのできない命のために、救いの計画をお立てくださいました。そして、その救いの計画においても、神が命の創造主であられることがわかるのです。神は、キリストの復活の命でわたしたちを満たし、救おうとしておられます。神は、尽きることのない命の創造者なのです。
命の創造者である神は、ご自身の言葉によって創造の業をなさいます。神の言葉は、秩序を生み出します。神の言葉がある前に存在したのは混沌です。神が言葉を語られると、様々に分けられていく中で、務めが与えられ、働きが与えられていきます。上の水と下の水が分けられ、海と陸が分けられ、昼と夜が分けられ、季節が分けられ、植物も動物も種類にしたがって創造されます。神の創造の業が、多様な存在、多様な働きを生み出していきます。そして、そのすべてを神の言葉が秩序づけていきます。
神の言葉がなければ、すべては混沌としたままです。神の言葉は、混沌の中から多様な存在、多様な働きを生み出します。そして、神の言葉の秩序は、その多様な存在、多様な働きが共に生きていくことを生み出します。神の創造は、命の創造であると同時に、共に生きることの創造なのです。
罪の世にあって、わたしたちはこのことを強く感じます。神に背を向けている人類は、混沌の中にあります。価値観の違い、考え方の違い、一致できないことにどれだけ苦しめられていることでしょうか。
しかし、わたしたちが神の言葉に聴く時、わたしたちは神の前に共にあることができます。年齢、性格、趣味、さらには民族といった違いを超えて共に生きることができます。自分の正しさを主張するのではなく、赦し、祈り、愛することを神の言葉が促します。
神の言葉が、今も共に生きることを造りだしているのです。
神は、創造の節目節目で「良かった」と言われます。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が何度も出てきます(4, 10, 12, 18, 21節)。創造の業において、迷いや後悔は全くありません。文字通り「良かった」のです。命があるということ、多様な存在、多様な働きがあるということ、共に生きるということが「良かった」のです。
この言葉を今、わたしたちも聞くことができます。神は、わたしたちに対しても「良かった」と言われます。わたしたちの命があるということ、わたしたちが賜物も性格も考え方も多様であること、働きが多様であること、今共に生きているということに対して、神は「良かった」と言われるのです。
この神の「良かった」という言葉を今、共に聞けることは、とても幸いなことだと思います。この神の言葉を聴く時、わたしたちは命の多様さを神と共に「良かった」と言うことができるからです。そして、わたしたち自身に対して神が「良い」と言ってくださるのを共に確認できるからです。
しかし、わたしたちは自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことがしばしばあります。
それは、わたしたちが神の祝福に背を向けて生きているからです。わたしたちは、自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことに苦しんでいます。生きることを喜べないことが、この世には多すぎます。
そのことを、誰よりも神ご自身が苦しまれました。そして、神はご自身の御子を救い主としてこの世に送るという奇跡をなさいました。創造の始めに、命を満たす光を創造されたように、わたしたち、そして全被造物が神の恵みのもとで生きることができるように、神は「すべての人を照らすまことの光」である御子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださったのです。
神はイエス キリストを救い主として遣わすことにおいてわたしたちに対する愛を示してくださいました。わたしたちはイエス キリストにおいて明らかにされた確かな愛のもとで、自分に向かって語られる「良かった」という神の言葉を聞くことができるのです。
そして、救い主イエスは人となって、人間が神に背を向けた報いを一身に背負い、わたしたちのために死んでくださり、またわたしたちのために死を打ち破り、甦ってくださいました。わたしたちの罪のすべてを贖い、わたしたちが神の「良かった」という言葉を本当に聞くことができるようにしてくださいました。
神は、命が命で満たされ続けるように御子の命を与えてくださいました。生きることが喜びであり、生きるものであり続けるようになしてくださいました。わたしたちをキリストにあって一つに結び合わせて、共に生きるものにしてくださいました。キリストにある救いの言葉、祝福の言葉を聞けるようにしてくださいました。
神のもとにこそ、わたしたちの命、共に生きる喜び、祝福があります。神の御前においてこそ、わたしたち一人ひとりに対するためらいのない喜びに満ちた「良かった」という言葉を聞くことができるのです。わたしたちはここで、キリストの救いの中で、平安に包まれて生きていくことができるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは、わたしたちを掛けがえのない命としてお造りくださいました。あなたのもとで、わたしたち一人一人が良いものであることを知り、共に生きることができます。
どうぞ、あなたの霊でわたしたちを満たし、あなたと共に生きるものとしてください。わたしたちの光であるイエス キリストに包まれ、あなたの「良かった」という言葉を聞きつつ生きる者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン