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マタイによる福音書 1:18〜25

2019-12-20 11:32:20 | 聖書
2019年12月18日(水) 祈り会
聖書:マタイ 1:18〜25(新共同訳)


 イエスの母マリアは、ヨセフという人と婚約していました。けれども、一緒になる前にマリアは身ごもっていることが明らかになりました。
 当時のユダヤにおける婚約は、婚姻届を出すのと同じようなものでした。ユダヤでは婚約するとき、二人以上の証人の立ち会いのもとで神の前で夫婦の誓約をし、婚約成立と同時に二人は法律上夫婦となりました。実際に共に暮らす生活は、その後約1年ほどしてから始められるのですが、婚約は結婚したという契約であり、ちゃんとした法的な手続きでした。ですからヨセフは19節で「夫ヨセフ」と呼ばれていますし、20節で天使は「妻マリア」と言っています。

 夫ヨセフは正しい人、つまり神の律法を重んじ、神に従って歩もうとする敬虔なユダヤ人でした。自分の知らぬところで身重になったマリアをそのまま妻として迎え入れることはできませんでした。
 マリアは、自分が聖霊によって身ごもったことを話したかもしれません。けれども、ヨセフには信じられませんでした。もしマリアが乱暴されたのであれば、そのことについて正しく裁く律法がありました。しかし、マリアがそういうことを何も言わないということは、ヨセフには彼女が姦淫したとしか考えられませんでした。
 旧約の申命記 22:13〜29には、婚約・結婚に関する律法が記されていますが、それによると婚約中の妻が姦淫によって身重になれば、神の民の中から恥ずべき罪を取り除くため必ず死刑に処せられねばならないことになっています。
 ヨセフは考えた末、秘かに離縁しようとしました。ヨセフはこのことを表ざたにしてマリアを死刑にすることを望まず、当時の離婚の手続きに基づいて離縁状を書いて去らせることにしました。

 マタイによる福音書が記す救い主の誕生の記事は、喜びに満ちていると言うよりも、「なぜこのようなことが」という戸惑いをわたしたちに与えます。聖霊によって身ごもったなどということは、ヨセフはもとよりわたしたちにも信じることのできない出来事です。

 おそらく正しい人ヨセフは、日々祈りを欠かすことはなかったでしょう。そんなヨセフにとってもどう祈ったらいいか分からなくなったのではないかと思います。彼がなおもこのことについて思い巡らしていたとき、主の天使が夢に現れて次のように語りました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 神の御旨を計りきれず思い悩んでいるヨセフに対して、神は、天使を通して語りかけられます。

 わたしたちキリスト者も生きていく中で、「なぜこのようなことが」「なぜよりにもよってわたしにこのようなことが起こるのだろうか」受け止めがたい出来事に直面します。けれども、時が経って「なぜ自分は今こうしているのだろう」と考えたとき、自分の人生の節目を考えていったとき、神が今もこのわたしにも働きかけ、導いていてくださることを思います。神の御旨を理解するには弱く鈍い者であります。しかし、慈愛に富みたもう神が、救いへと、恵みへと導くためにことあるごとにわたしたちに働きかけ、語りかけ、導いてくださることを思います。

 そして、わたしたちを顧み、恵みを注がれる神が、ご自身の独り子を救い主として世に遣わされたのです。
 「救う」という言葉を聞くとき、わたしたちは何から救われたいと願うでしょうか。聖書は、罪から救うと語ります。聖書が語る罪というのは、わたしたちが普通考える悪いこととは少し違います。聖書が教える罪というのは、神を疎んじ、神に背を向け、離れることです。罪を抱えたわたしたちは、神に従うのではなく、自分の思い通りに生きていこうとします。そして、命の創造者である神から離れて死に向かって行ってしまうのです。ですから罪から救うと言うときには、神に立ち帰らせるということです。わたしたちの命の源であり、わたしたちが本来いるべき神の御許に導くということです。
 わたしたちは、わたしであることを止めることはできません。いつも神の思いとは違う自分の思いに捕らわれ、神から離れていきます。ですから、自分で自分を救うことはできません。ただ神と一つである神の独り子、そしてわたしたちの救いのために人となることさえも厭わなかった救い主によってのみ、わたしたちは罪から救われ、神へと立ち帰るのです。

 神が世に遣わされた救い主に、神自らイエスと名付けられました。イエスという名前は、イェホシュアというユダヤの名前のギリシャ風の読み方です。その名前の意味は、まさに「神は救う」「神は救いである」という意味なのです。23節によれば、このイエスはインマヌエル「神は我々と共におられる」と呼ばれるとも言われています。
 わたしたちの救いとは、インマヌエルの名前が示すように、神を疎んじ、神から離れていこうとするわたしたちに対して、神ご自身の方から近づいてきてくださり、わたしたちと常に共にいて神の御許へと導いてくださる神の御業のことなのです。
 わたしたちの望みは、神がわたしたちを如何なるときにも見捨て、見放すことなく共にいてくださるところにあります。神は、救い主を世に遣わされたその最初の時からそのことを明らかにされているのです。ヨセフやわたしたちの思いをはるかに越えていましたが、救いを実現するため、神はイエスを世に遣わされたのです。
 救い主は人となって世に来られました。これは、わたしたちを求め、わたしたちと共に生きようとされる神の愛の現れであり、イエスの救いがわたしたち自身のものとなるため人となられたのです。神とわたしは関係ないのではなく、神の救いの業は人の中に出来事となって起こるのです。
 しかもイエスはごく普通の幼子としてお生まれになりました。神が救いの業をなされるのですが、神はその救いの業をわたしたちの手の中に置かれるのです。わたしたちが救いを受け取ることができるように、神は救い主を人の手の中に委ねてくださるのです。

 神がわたしたちに与えてくださった信仰も、幼子のように頼りなく思えるかもしれません。しかし、神がわたしたちの救いのために与えてくださったものを受け入れていくとき、わたしたちの思いを越える救いの業がなされていくのです。ヨセフは命じられたとおりにマリアを妻として迎えました。自分の思いを越える神の御業でありましたが、神が救いのためになされる御業に心を開き、受け入れていくとき、神の大いなる恵みが出来事となり、わたしたちを包みます。神は今も救いの業をなされます。わたしたち一人ひとりにイエス キリストを救い主として与え、神が与えてくださった命を喜び、神と共に生きることを喜べるように導いておられます。ヨセフと共に神の語りかけに心を開くものは幸いです。救いはあなたのものです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いは、わたしたちの思いを超えるあなたの御心にあります。どうかあなたの御心を受け取ることができるように、わたしたちの心を開いてください。わたしたちに語りかけてくださるあなたの御言葉に心を傾けていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン