2019年12月22日(日) 主日礼拝 降誕節主日
聖書:マタイ 2:1〜12(新共同訳)
きょうはイエス キリストの誕生を記念する降誕節、クリスマスの礼拝です。ご存じの通り、クリスマスは12月25日です。正確には、イエスがお生まれになった頃、ユダヤの一日は日没から始まり、翌日の日没までです。ですから12月24日の日没から、12月25日の夕方日が沈むまでがクリスマスです。
日本の場合、12月25日が休日ではないので、25日の直前の日曜日に降誕節礼拝を守っています。
今年はマタイによる福音書からイエス キリスト誕生の話を聞いてまいります。
キリストというのは、ヘブライ語のメシアのギリシャ語訳です。メシアというのは「油注がれた者」という意味で、祭司や王などが任職されるときに油を注がれました。時代を経る中で、神が最後に立てられる救い主を表すようになりました。
ですからイエス キリストというのは、イエスはキリスト=救い主です、という意味で、苗字と名前ではありません。
救い主の誕生は、神の民が待ち望んでいた事柄でした。しかし、ほとんどの人はイエス キリストの誕生を知りませんでした。ここにイエス キリストの誕生を祝おうという異邦人がやって来ました。それは、東の方から来た占星術の学者たちでした。この学者たちが、一体どこの国から来たのか、一体何人だったのか、聖書はそれを語りません。
占星術と言いましても、現在のものとは随分違いまして、この人たちは哲学、薬学、自然科学に秀てており、祭司の務めを果たし、占いをし、夢を解いていました。古代オリエントの人たちは、星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表わしていると考えていました。そこに突然明るい星が現れたり、特別な現象が現れると、それは神が何か特別なことを啓示しているのだと考えられていました。
不思議なことに、イエスがお生まれになった頃、世界中に王を待ち望む気運が満ちていました。スエトニウスやタキトゥス、ヨセフスといった当時の歴史を記した人々がそのことを書いています。
そこで学者たちは、星によって示されたのは、ユダヤ人の王というだけでなく、全人類を治める真の王がこの世にお生まれになったと考えました。ですから学者たちは、今お生まれになった真の王によって待ち望んでいた真の平和が実現することを思い、この王の誕生を祝うために遠くの地から旅をして来たのです。
この学者たちは、ユダヤヘはやってまいりましたが、ユダヤのどこで自分たちが探している真の王がお生まれになったのかを知りませんでした。ですから彼らは、エルサレムヘやって釆て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねたのです。彼らにしてみれば、自分たちがはるばる旅して来たようなことをユダヤ人自身が知らないなどというふうには思わなかったのです。
しかし、学者たちのこの言葉は、ヘロデ王に、そしてエルサレムの人々に不安を抱かせました。ヘロデ王にとりましては、4節にありますように「メシア」つまりユダヤ人が待ち望んでいる救い主の出現でした。ヘロデは、このメシアのために革命が起きて、ヘロデ家の王位が覆されるのを恐れました。
このヘロデ王は、通称「ヘロデ大王」と呼ばれ(紀元前40年にローマの元老院によってユダヤ王に任ぜられ、紀元前4年に没するまでその地位にありました)、政治的に優れた手腕を持っており、パレスチナにこれまでにない平和と秩序をもたらしました。エルサレム神殿の再建に着手したり、飢饅の際には自分の金の皿をとかして難民のために穀物を購入したりしました。
しかし、彼の性格には致命的な欠点がありました。それは異常なほどに猜疑心が強かったのです。彼は、晩年には「殺意に満ちた老人」と呼ばれるようにまでなり、誰かが自分の権力の座を脅かすように思えれば、すぐにその人を殺してしまいました。彼は自分の妻とその母を殺し、長男とほかの二人の息子も殺害してしまいました。時のローマ皇帝のアウグストゥスが「ヘロデの息子であるよりもヘロデの豚である方が安全だ」と皮肉ったほどです。
このような人物が、国民が待ち望んでいる救い主が生まれたということを聞けば穏やかにしておれないのは当然です。そして、そのような王の性格を知っているエルサレムの人々もまた、メシアが誕生したという話を聞いてこの王がどのようなことをするかを思い、穏やかではいられませんでした。
ヘロデ王は、祭司長たち律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるのかと、彼らに問い質します。彼らは、旧約のミカ 5:2を引用して答えました。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
これはヘロデ王の不安と恐れを確かにするのに十分すぎる答えでした。ヘロデ王は(自分の近くにいる者たちを誰も信じていませんでしたので)秘かに学者たちを呼んで詳しく話を聞き、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って送り出しました。
わたしたちの救い主「キリストが来られた」という知らせを聞いたこの世は実に騒がしく、落ち着かないのです。「救い主が来てくださった」という喜びではなく、不安と恐れと悪意がキリストの回りを渦巻きだします。神の民は、救い主の誕生を喜びをもって迎えたわけではありませんでした。
しかしながら、神がわたしたちに働き掛けてくださる時も似ているのではないでしょうか。神が御心を成そうとされるとき、その御心はわたしたちの願い・期待とは違っており、しばしば戸惑いや悩みが伴います。「今のままでよかったのに、神様は何でこんなことをなさるんだろう」とわたしたちはしばしば思います。しかし、神の恵みはわたしたちの思いを超えたところから、けれども確実にわたしたちのもとへ届くのです。この場合もそうだったのです。
神は御子の誕生を祝うために、遠く思いもよらぬところから学者たちを導いてこられました。彼らはユダヤ人ではありません。彼らは聖書に記された唯一の神を信じ、礼拝していたわけでもありません。わたしたちにはなぜ彼らがと、疑問に思います。わたしたちには、神を信じ歩んできた旧約の民こそが神の救いの御業を誉め称えるのがふさわしいように思えます。けれど、神は異邦人を選び、導いてこられました。神の救いの御業は、ユダヤ人だけのものではなく、すべての人を招いていることを明らかにするためだったのかもしれません。そして、このわたしたちの思いを超えた神の御心によって、キリストがお生まれになった時と場所からはるかに遠く隔たったわたしたちも神の国に入れらるようになった訳です。
神は、キリスト者だけを祝福し、用いられるのではありません。神は、すべての命の造り主、造られたすべてのものを顧みておられます。神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ 2:4)。聖書はイエス キリストを指して「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」た(テトス 2:11)と言っています。神の救いはすべてを包みます。神の救いの前で「この人は救われない」などとあきらめなければならない人は一人もいないのです。
信仰は、人が救われているかいないかを判断するための目印ではありません。信仰は、与えられた者にとって恵みなのです。信仰によって、わたしたちは罪を抱えたわたしたちを救うためにひとり子をさえ遣わしてくださること、神がわたしたちを愛していてくださることを知ります。ですから信仰は恵みなのです。信仰のあるなしで、救われているかいないかを論じるのは正しくありません。
この学者たちは聖書の中でここにしか記されていません。学者たちはこの後のキリストの生涯には何の関わりも持ちませんでしたし、聖書もこの後の学者たちのことは何も記しておりません。けれども神は救い主の誕生に当たって確かにこの学者たちをお用いになったのです。彼らは神の救いの御業に与かりましたし、大きな喜びを味わいました。喜びにあふれました。学者たちは、彼らがなりわいとしている星を見ることによってイエス キリストのもとへ導かれました。星を見るということはユダヤの習慣にはありませんでした。しかしこの時神は、この異教的な習慣を用いて学者たちを御子のもとへ導いてこられました。エルサレムで御言葉により、キリストのお生まれになるのはベツレヘムであると示された後も、神は学者たちを星によって導いていかれるのです。神は、一人一人を顧みていてくださり、一人一人にふさわしい仕方、不思議な仕方で導かれるのです。
わたしたちは自分の考えで神を小さなものにしてしまってはなりません。自分の考えに神を閉じ込めてはいけません。
今、この時間には教会に集うことなく、神を知らずに生活している人たちが数多くいます。けれども、そのような人たちも、神の御支配の外にいるのではありません。
イエスがお生まれになったときと同じく、この世は救い主の誕生を喜び祝うよりも罪の混沌の中にあるように思えます。しかし神は、罪の闇の中に救いの光としてひとり子を遣わしてくださいました。神はすべてを、全世界をその御手の内に治めておられます。神はすべての出来事を御心に従って、神の国の到来、救いの完成に向けて世界を導いていてくださいます。
わたしたちも、この神の確かな導きを信じて、真の王イエス キリストの誕生を祝って礼拝を捧げるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
真の救い主、真の王をお与えくださり感謝します。イエス キリストの恵みがすべての人に届きますように。どうか罪の世の空しさから救いだし、わたしたちも主にある喜びで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:マタイ 2:1〜12(新共同訳)
きょうはイエス キリストの誕生を記念する降誕節、クリスマスの礼拝です。ご存じの通り、クリスマスは12月25日です。正確には、イエスがお生まれになった頃、ユダヤの一日は日没から始まり、翌日の日没までです。ですから12月24日の日没から、12月25日の夕方日が沈むまでがクリスマスです。
日本の場合、12月25日が休日ではないので、25日の直前の日曜日に降誕節礼拝を守っています。
今年はマタイによる福音書からイエス キリスト誕生の話を聞いてまいります。
キリストというのは、ヘブライ語のメシアのギリシャ語訳です。メシアというのは「油注がれた者」という意味で、祭司や王などが任職されるときに油を注がれました。時代を経る中で、神が最後に立てられる救い主を表すようになりました。
ですからイエス キリストというのは、イエスはキリスト=救い主です、という意味で、苗字と名前ではありません。
救い主の誕生は、神の民が待ち望んでいた事柄でした。しかし、ほとんどの人はイエス キリストの誕生を知りませんでした。ここにイエス キリストの誕生を祝おうという異邦人がやって来ました。それは、東の方から来た占星術の学者たちでした。この学者たちが、一体どこの国から来たのか、一体何人だったのか、聖書はそれを語りません。
占星術と言いましても、現在のものとは随分違いまして、この人たちは哲学、薬学、自然科学に秀てており、祭司の務めを果たし、占いをし、夢を解いていました。古代オリエントの人たちは、星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表わしていると考えていました。そこに突然明るい星が現れたり、特別な現象が現れると、それは神が何か特別なことを啓示しているのだと考えられていました。
不思議なことに、イエスがお生まれになった頃、世界中に王を待ち望む気運が満ちていました。スエトニウスやタキトゥス、ヨセフスといった当時の歴史を記した人々がそのことを書いています。
そこで学者たちは、星によって示されたのは、ユダヤ人の王というだけでなく、全人類を治める真の王がこの世にお生まれになったと考えました。ですから学者たちは、今お生まれになった真の王によって待ち望んでいた真の平和が実現することを思い、この王の誕生を祝うために遠くの地から旅をして来たのです。
この学者たちは、ユダヤヘはやってまいりましたが、ユダヤのどこで自分たちが探している真の王がお生まれになったのかを知りませんでした。ですから彼らは、エルサレムヘやって釆て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねたのです。彼らにしてみれば、自分たちがはるばる旅して来たようなことをユダヤ人自身が知らないなどというふうには思わなかったのです。
しかし、学者たちのこの言葉は、ヘロデ王に、そしてエルサレムの人々に不安を抱かせました。ヘロデ王にとりましては、4節にありますように「メシア」つまりユダヤ人が待ち望んでいる救い主の出現でした。ヘロデは、このメシアのために革命が起きて、ヘロデ家の王位が覆されるのを恐れました。
このヘロデ王は、通称「ヘロデ大王」と呼ばれ(紀元前40年にローマの元老院によってユダヤ王に任ぜられ、紀元前4年に没するまでその地位にありました)、政治的に優れた手腕を持っており、パレスチナにこれまでにない平和と秩序をもたらしました。エルサレム神殿の再建に着手したり、飢饅の際には自分の金の皿をとかして難民のために穀物を購入したりしました。
しかし、彼の性格には致命的な欠点がありました。それは異常なほどに猜疑心が強かったのです。彼は、晩年には「殺意に満ちた老人」と呼ばれるようにまでなり、誰かが自分の権力の座を脅かすように思えれば、すぐにその人を殺してしまいました。彼は自分の妻とその母を殺し、長男とほかの二人の息子も殺害してしまいました。時のローマ皇帝のアウグストゥスが「ヘロデの息子であるよりもヘロデの豚である方が安全だ」と皮肉ったほどです。
このような人物が、国民が待ち望んでいる救い主が生まれたということを聞けば穏やかにしておれないのは当然です。そして、そのような王の性格を知っているエルサレムの人々もまた、メシアが誕生したという話を聞いてこの王がどのようなことをするかを思い、穏やかではいられませんでした。
ヘロデ王は、祭司長たち律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるのかと、彼らに問い質します。彼らは、旧約のミカ 5:2を引用して答えました。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
これはヘロデ王の不安と恐れを確かにするのに十分すぎる答えでした。ヘロデ王は(自分の近くにいる者たちを誰も信じていませんでしたので)秘かに学者たちを呼んで詳しく話を聞き、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って送り出しました。
わたしたちの救い主「キリストが来られた」という知らせを聞いたこの世は実に騒がしく、落ち着かないのです。「救い主が来てくださった」という喜びではなく、不安と恐れと悪意がキリストの回りを渦巻きだします。神の民は、救い主の誕生を喜びをもって迎えたわけではありませんでした。
しかしながら、神がわたしたちに働き掛けてくださる時も似ているのではないでしょうか。神が御心を成そうとされるとき、その御心はわたしたちの願い・期待とは違っており、しばしば戸惑いや悩みが伴います。「今のままでよかったのに、神様は何でこんなことをなさるんだろう」とわたしたちはしばしば思います。しかし、神の恵みはわたしたちの思いを超えたところから、けれども確実にわたしたちのもとへ届くのです。この場合もそうだったのです。
神は御子の誕生を祝うために、遠く思いもよらぬところから学者たちを導いてこられました。彼らはユダヤ人ではありません。彼らは聖書に記された唯一の神を信じ、礼拝していたわけでもありません。わたしたちにはなぜ彼らがと、疑問に思います。わたしたちには、神を信じ歩んできた旧約の民こそが神の救いの御業を誉め称えるのがふさわしいように思えます。けれど、神は異邦人を選び、導いてこられました。神の救いの御業は、ユダヤ人だけのものではなく、すべての人を招いていることを明らかにするためだったのかもしれません。そして、このわたしたちの思いを超えた神の御心によって、キリストがお生まれになった時と場所からはるかに遠く隔たったわたしたちも神の国に入れらるようになった訳です。
神は、キリスト者だけを祝福し、用いられるのではありません。神は、すべての命の造り主、造られたすべてのものを顧みておられます。神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ 2:4)。聖書はイエス キリストを指して「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」た(テトス 2:11)と言っています。神の救いはすべてを包みます。神の救いの前で「この人は救われない」などとあきらめなければならない人は一人もいないのです。
信仰は、人が救われているかいないかを判断するための目印ではありません。信仰は、与えられた者にとって恵みなのです。信仰によって、わたしたちは罪を抱えたわたしたちを救うためにひとり子をさえ遣わしてくださること、神がわたしたちを愛していてくださることを知ります。ですから信仰は恵みなのです。信仰のあるなしで、救われているかいないかを論じるのは正しくありません。
この学者たちは聖書の中でここにしか記されていません。学者たちはこの後のキリストの生涯には何の関わりも持ちませんでしたし、聖書もこの後の学者たちのことは何も記しておりません。けれども神は救い主の誕生に当たって確かにこの学者たちをお用いになったのです。彼らは神の救いの御業に与かりましたし、大きな喜びを味わいました。喜びにあふれました。学者たちは、彼らがなりわいとしている星を見ることによってイエス キリストのもとへ導かれました。星を見るということはユダヤの習慣にはありませんでした。しかしこの時神は、この異教的な習慣を用いて学者たちを御子のもとへ導いてこられました。エルサレムで御言葉により、キリストのお生まれになるのはベツレヘムであると示された後も、神は学者たちを星によって導いていかれるのです。神は、一人一人を顧みていてくださり、一人一人にふさわしい仕方、不思議な仕方で導かれるのです。
わたしたちは自分の考えで神を小さなものにしてしまってはなりません。自分の考えに神を閉じ込めてはいけません。
今、この時間には教会に集うことなく、神を知らずに生活している人たちが数多くいます。けれども、そのような人たちも、神の御支配の外にいるのではありません。
イエスがお生まれになったときと同じく、この世は救い主の誕生を喜び祝うよりも罪の混沌の中にあるように思えます。しかし神は、罪の闇の中に救いの光としてひとり子を遣わしてくださいました。神はすべてを、全世界をその御手の内に治めておられます。神はすべての出来事を御心に従って、神の国の到来、救いの完成に向けて世界を導いていてくださいます。
わたしたちも、この神の確かな導きを信じて、真の王イエス キリストの誕生を祝って礼拝を捧げるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
真の救い主、真の王をお与えくださり感謝します。イエス キリストの恵みがすべての人に届きますように。どうか罪の世の空しさから救いだし、わたしたちも主にある喜びで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン