聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 140:8〜14

2020-09-25 10:31:43 | 聖書
2020年9月23日(水) 祈り会
聖書:詩編 140:8〜14(新共同訳)


 きょうは、神に助けを求める詩篇 140篇の後半 8〜14節です。

 詩人は神に呼びかけます。8節「主よ、わたしの神よ、救いの力よ」。神に望みを抱いて、神こそわたしの救いと信じて祈ります。
 「わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。」
 ここで「先頭に立ってわたしを守ってください」とありますが、最近の翻訳ではどれも基本的に「あなたは私の頭を覆ってくださった」(聖書協会共同訳)と訳しています。新共同訳では、頭を覆うを戦の隊列の先頭で守ってくださると解釈したのでしょう。頭を覆うというのは、命を守るという意味だと岩波版の注では説明しています。
 意味としてはどちらの訳でもそう違いはありません。

 9節「主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。」
 悪しき者の思いが実現することがありませんように、と願います。悪しき者に限りませんが、自分の思い通りに事が成ることを罪人は願います。罪により、人は神とは違う善悪を持つようになり、自分の思い通りになることを求めてしまいます。そして自分の思い通りになったとき、人は誇らずにはいられないのです。
 詩人は、悪しき者の思いが実現しないように、悪しき者が誇ることがないようにと祈ります。

 10節「わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。」
 詩人を取り囲む者たちの悪意ある言葉が、語る者たちの上に降りかかればいいのに、と詩人は願います。
 11節「火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。」
 12節「舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。」

 詩人は敵への呪いを祈ります。この言葉を聞いて、聖書には「呪ってはならない」という言葉がなかったっけ、と思う方もいるでしょう。確かに聖書には「呪ってはなりません」(ローマ 12:14)と言われています。それなのに何でこういう祈りが聖書にあるのだろう、と疑問を持たれるでしょう。しかしわたしたちは、キリストと同じように苦難を受け止められるほど強くはないのです。
 この祈りが、聖書に収められているのは、苦難に苦しむわたしたちが怒り、嘆き、敵を呪うとき、神がわたしたちの思いを受け止めてくださるからです。わたしを究め、わたしを知っていてくださる(詩編 139:1)神は、わたしたちのあらゆる思い、わたしたちのすべてをわたしに委ねよと手を差しのべてくださるのです。

 苦しむ人の代表的人物に、旧約のヨブがいます。ヨブの友人たちは、ヨブのあまりの苦しみに言葉を失い、何とかヨブの心を宥めようとしますが、ヨブの怒りは増すばかりです。友人たちは、苦しみの原因を説明しようとしますが、ヨブは納得しませんでした。ヨブ記の最後に登場し、ヨブに語りかけられた神は、友人たちにも語られます。「主は・・テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。』」(ヨブ 42:7)
 神が友人たちに求められたのは「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ 12:15)ということだったのではないか、と思います。この「泣く人と共に泣きなさい」の直前には「呪ってはなりません」という言葉も出てきます。ヨブの友人たちの言葉も、詩人に「聖書には『呪ってはなりません』とありますよ」と言うのも間違ってはいないのだと思います。しかし間違ってはいないのだけれども、違うのだと思います。その時、その人に対して語る言葉としては、ふさわしくないのだと思います。それが詩人のこの言葉が、聖書の言葉とされていることを通して示されているところだと思います。神はこの呪いの祈りを受け止めてくださいました。
 耐えがたい思いは、神に受けとめて頂かなくてはなりません。

 神に受け止めて頂いたときに、わたしたちは自分でどうすることも出来ない思いから解き放たれていきます。神に受け止められ、神に包まれて、神と共に歩み出せるのです。

 詩人は、裁きがなされ、神の義が立てられること、神の国が到来するのを待ち望みます。
 13節「わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。」
 おそらく詩人は、終わりの日の神の国の到来を望み見ているのだと思います。もちろん、今救われることを諦めている訳ではありません。詩人は自分の祈りを神が聞いていてくださることを信じています。しかし詩人は今、神が目指しておられる救いの完成、神の国の到来が示され、見ているのだろうと思います。
 そして、仮に自分が救い出されなかったとしても、自分は神の救いの御業の道を歩む、という信仰を抱いているのだと思います。例えば、ダニエル書では、偶像礼拝を拒否したシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王ネブカドネツァルに脅されます。「もし拝まないならば、直ちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」。彼らは答えます。「もしそうなれば、私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、王様、あなたの手から、救い出してくださいます。〈 たとえそうでなくとも 〉、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」(ダニエル 3:15~18 聖書協会共同訳)

 詩人は主に在る希望を語って祈りを閉じます。
 「主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。」
 苦難の中でも、救いの神とその御業は、民に希望をもたらすのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 祈りによって、あなたを仰ぎ見、あなたとの交わりを与えられていることを感謝します。罪の世では苦難があります。詩人を希望へと導かれたように、わたしたちもあなたにすべてを受け止めて頂き、神の国の希望へと導かれますように。生きるのになくてはならない信仰と、希望と、愛をあなたから受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン