2021年1月24日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:41〜51(新共同訳)
イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35)「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)
人々はつぶやき始めます。「この人はヨセフの息子のイエスではないか。わたしたちは父も母も知っている。そのイエスが『わたしは天から降って来た』などとどうして言えるのか。」
教会では「躓く」という言い方をすることがあります。信仰生活や教会生活を続けられなくなることを指して使われます。ユダヤ人たちはイエスに躓きました。イエスを信じることができませんでした。人々にはイエスが永遠の命を与える特別な人には思えませんでした。
イエスは彼らを制して言われます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
知るということには色々なレベルがあります。顔や名前を知っているというレベルから性格や考えが分かるというレベルまで色々あります。イエスが救い主であると信じるレベルまで知るに至るには、父なる神の導きが必要です。この人を救おうという神の意志が必要です。そしてイエス キリストに導かれた人を、イエスは終わりの日に復活させると言われます。
では救いは一切、神任せなのでしょうか。そうではありません。イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ 11:9, 10, 13)
神はわたしたちの救いを願い、わたしたちの応答を求めて語りかけられます。その神の言葉を聞き流すのではなく、受け止め、理解して、救いを求めていく者に、神は聖霊の導きを与えてくださいます。
イエスも言われます。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたし(イエス)のもとに来る。」
神の言葉を聞き、神の御前に身を低くして聞いた者は、イエス キリストへと導かれます。預言者の言葉も含めて、聖書の言葉は、イエスに出会うために語られているからです。(参照:ヨハネ 5:39)そしてイエス キリストに出会います。イエスに出会い、イエスを知っていく時、イエス キリストこそ活ける神の御言葉であることを知るでしょう。イエスこそ神のもとから来た者、すなわちイエスだけが父を見、父を知っていることを知るでしょう。イエス キリストに出会うことによって、わたしたちはわたしたちに命を与え、わたしたちを罪から救い出し、共に生きようとされる神を知り、その愛を知るのです。
そしてイエスは言われます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
命は信じることによって保たれていきます。売買をしたり、お金を預けるなどの社会生活はもちろんのこと、治療を受ける、介護を受ける、売っている食糧を買って日々食べることなど、生命の維持には信じて受けることが深く関わっています。
そして永遠の命は、イエス キリストを信じ、神を信じることと深く関わっているのです。生きているのはわたし自身ですが、わたしの命はわたしの所有物ではありません。命を手放す時が来ます。その時、死に囚われた命から、死に勝利し復活されたキリストの命へと進み行く道が備えられているのです。それがキリストを信じるということです。
永遠の命は、死に勝利し復活されたキリストの命に与ることによって受け取ります。それをわたしたちに示しているのが聖晩餐です。わたしたちの救い主であるイエスが、わたしたちにご自分の命を差し出しておられます。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ 26:26~28)聖晩餐の度に読むこのイエスの言葉を聞き続けて、わたしたちは聖晩餐に与っていきます。イエスを信じて、イエスが差し出される永遠の命に与っていくのです。
だから聖晩餐は信じることへの招きなのです。信じていなくても、教会に来て聖晩餐に与るならば、誰でも永遠の命に与れるというのではありません。イエス キリストと出会い、イエス キリストが救い主であると信じて、感謝して受ける時に、わたしたちは神との間に信じるという命を支える特別な関係が与えられ、永遠の命に生き始めるのです。
イエスは言われます。「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」
この世の命を生きるためにも食べ物が必要です。しかしその食べ物を食べても、永遠の命には至りません。永遠の命に生きるためには、命のパンであるイエス キリストが必要なのです。
イエスは言われます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに救い主イエスを与え、信じることと永遠の命を与えてくださり感謝します。信仰生活、教会生活を通して、あなたと共に生きる永遠の命を味わい知ることができるように導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:41〜51(新共同訳)
イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35)「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)
人々はつぶやき始めます。「この人はヨセフの息子のイエスではないか。わたしたちは父も母も知っている。そのイエスが『わたしは天から降って来た』などとどうして言えるのか。」
教会では「躓く」という言い方をすることがあります。信仰生活や教会生活を続けられなくなることを指して使われます。ユダヤ人たちはイエスに躓きました。イエスを信じることができませんでした。人々にはイエスが永遠の命を与える特別な人には思えませんでした。
イエスは彼らを制して言われます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
知るということには色々なレベルがあります。顔や名前を知っているというレベルから性格や考えが分かるというレベルまで色々あります。イエスが救い主であると信じるレベルまで知るに至るには、父なる神の導きが必要です。この人を救おうという神の意志が必要です。そしてイエス キリストに導かれた人を、イエスは終わりの日に復活させると言われます。
では救いは一切、神任せなのでしょうか。そうではありません。イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ 11:9, 10, 13)
神はわたしたちの救いを願い、わたしたちの応答を求めて語りかけられます。その神の言葉を聞き流すのではなく、受け止め、理解して、救いを求めていく者に、神は聖霊の導きを与えてくださいます。
イエスも言われます。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたし(イエス)のもとに来る。」
神の言葉を聞き、神の御前に身を低くして聞いた者は、イエス キリストへと導かれます。預言者の言葉も含めて、聖書の言葉は、イエスに出会うために語られているからです。(参照:ヨハネ 5:39)そしてイエス キリストに出会います。イエスに出会い、イエスを知っていく時、イエス キリストこそ活ける神の御言葉であることを知るでしょう。イエスこそ神のもとから来た者、すなわちイエスだけが父を見、父を知っていることを知るでしょう。イエス キリストに出会うことによって、わたしたちはわたしたちに命を与え、わたしたちを罪から救い出し、共に生きようとされる神を知り、その愛を知るのです。
そしてイエスは言われます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
命は信じることによって保たれていきます。売買をしたり、お金を預けるなどの社会生活はもちろんのこと、治療を受ける、介護を受ける、売っている食糧を買って日々食べることなど、生命の維持には信じて受けることが深く関わっています。
そして永遠の命は、イエス キリストを信じ、神を信じることと深く関わっているのです。生きているのはわたし自身ですが、わたしの命はわたしの所有物ではありません。命を手放す時が来ます。その時、死に囚われた命から、死に勝利し復活されたキリストの命へと進み行く道が備えられているのです。それがキリストを信じるということです。
永遠の命は、死に勝利し復活されたキリストの命に与ることによって受け取ります。それをわたしたちに示しているのが聖晩餐です。わたしたちの救い主であるイエスが、わたしたちにご自分の命を差し出しておられます。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ 26:26~28)聖晩餐の度に読むこのイエスの言葉を聞き続けて、わたしたちは聖晩餐に与っていきます。イエスを信じて、イエスが差し出される永遠の命に与っていくのです。
だから聖晩餐は信じることへの招きなのです。信じていなくても、教会に来て聖晩餐に与るならば、誰でも永遠の命に与れるというのではありません。イエス キリストと出会い、イエス キリストが救い主であると信じて、感謝して受ける時に、わたしたちは神との間に信じるという命を支える特別な関係が与えられ、永遠の命に生き始めるのです。
イエスは言われます。「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」
この世の命を生きるためにも食べ物が必要です。しかしその食べ物を食べても、永遠の命には至りません。永遠の命に生きるためには、命のパンであるイエス キリストが必要なのです。
イエスは言われます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに救い主イエスを与え、信じることと永遠の命を与えてくださり感謝します。信仰生活、教会生活を通して、あなたと共に生きる永遠の命を味わい知ることができるように導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン