聖書の言葉を聴きながら

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詩編 147:12〜20

2021-01-28 11:02:19 | 聖書
2021年1月27日(水) 祈り会
聖書:詩編 147:12〜20(新共同訳)


 きょうは147篇後半です。この詩篇は3部構成で、1~6節、7~11節、12~20節の3つの部分からなります。3部とも最初に讃美をして、それからその理由を語るという構成になっています。きょうは3部を読んでいきましょう。

 12節「エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。」
 詩人はイスラエルの首都であるエルサレムに語りかけます。シオンというのはエルサレムが建っている丘の名前です。エルサレムもシオンも、イスラエルの民を象徴する言葉として使われています。
 エルサレムは、紀元前586年第2回のバビロン捕囚の際に新バビロニアによって破壊されました。およそ50年後、紀元前539年、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされた後、捕囚の民は解放され、帰国が許されました。エルサレムの再建、神殿の再建も許され、紀元前517年頃には第2神殿と呼ばれる神殿も完成しました。
 2節には「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」とエルサレムの復興が詠われています。12節は、罪ゆえに裁かれていたイスラエルを憐れみ、赦しを与え、新たな歩みへと導かれる主を讃えるようにと詠います。

 13~14節「主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。/あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。」
 詩人は「平和を与えてくださるのは主である」と詠います。10節では「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない」と語りました。おそらく詩人は、イザヤの言葉を聞いていたのでしょう。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。」(イザヤ 31:1)けれど為政者たちは預言者の言葉に耳を傾けず、大国との同盟関係によって国を守ろうとしました。そして滅びました。
 その現実、神の裁きを覚えて詩人は13~14節を詠います。平和は主が与えてくださり、平和は主の許にあると。

 15~18節「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」
 神は地に平和をもたらすためにお語りになります。
 「羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし/氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。/御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。」
 詩人は詩的な表現を用います。地上に降る雪、霜、氷塊は、神から地に与えられる神の言葉を表しています。神を信じ、神と共に歩むのでなければ、神の言葉は雪や霜、氷のように誰もその冷たさに耐えることができません。つまり、人の力では神の言葉、御言葉を守ることはできず、罪が増し加わるばかりです。
 国が危機に直面する時代に預言者たちが語ったことは、武力により頼まず、神を信じ神に依り頼みなさいということでした。「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(イザヤ 30:15)これは今日のことで言うならば「日米同盟に頼らず、神を信じ静かにしていなさい」というようなことです。おそらく今日でも預言者の言葉、すなわち神の言葉に聞き従うのは難しいでしょう。神の思いはわたしたちの思いを超えています。
 罪人には神の御言葉が理解できません。聞き従うことができません。しかし神は、神の言葉によって罪に気づき、神へと立ち帰るように信仰を与え、救いの御業を推し進められます。信仰により、完全でなくとも、神の御心を理解し、神と共にあることを求めていくならば、冷たさに耐えることのできなかった神の言葉は溶け、流れる水となり、地を潤し、命を芽生えさせるのです。神の言葉は、平和をもたらし、命を育むのです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。/そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ 55:10~11)

 明治、鎖国を終え、アメリカ・ヨーロッパの文明・文化が日本に入ってきた頃、和魂洋才という言葉が言われました。精神は日本古来の「大和魂」で、技術・テクノロジーは西洋の学問・知識を吸収してやっていく、という意味です。古くは和魂漢才と言われ、大和魂と中国伝来の学問とを合わせてやっていくという考えでした。日本には、精神は日本のもの、技術は必要なものを輸入して、という考えが昔からあるようです。しかし、精神は今まで通りで、技術さえ学べば、大丈夫なのではなのです。悔い改めて、丸ごと新しくされて、神と共に生きるのでなければ平和はなく、命も育まれないのです。形の上だけの信仰では、神の民も滅びます。神の許へと立ち帰るという意味で「悔い改める」ことが必要なのです。

 19~20節「主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。/どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。」
 申命記ではこう言われました。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」(申命記 4:7~8)
 神の言葉は命を育みます。神の裁きは民を神へと立ち帰らせます。神の許に命と平和があります。詩人は神の言葉を聞ける幸い、神と共に歩むことのできる幸いを思います。神を信じていても、生きる原理が罪の世の在り方になるならば、神は主ではなくなります。もし、神が主でなくなれば、それは神の民ではなくなってしまうということになります。

 詩人は今、再建された神殿へ思いを向け、希望を携えて帰還してくる同胞を思いながら、歴史を導かれる主の御前に立っています。そして罪人の愚かさ・頑なささえも用いて救いの御業をなされる、神の慈しみの大きさを感じています。詩人は今、神の御業がもたらす喜びに心震わせながら、すべての民に呼びかけます。
 「ハレルヤ 主を讃美せよ。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはあなたと共に歩めるようにと御言葉を語られます。どうかその思いを理解し、受け止めることができますように。自分に都合のいい言葉だけ聞こうとするのではなく、その時その時語られるあなたの言葉を全部受け止められますように。どうかあなたに包まれ、あなたに満たされて、命と平和の道を歩んでいけるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン