2021年1月20日(水) 祈り会
聖書:詩編 147:1〜11(新共同訳)
きょうは147篇です。最初と最後に「ハレルヤ」がある讃美の詩編です。
この詩篇は3部構成で、1~6節、7~11節、12~20節の3つの部分からなります。3部とも最初に讃美をして、それからその理由を語るという構成になっています。きょうは1部と2部を読んでいきましょう。
1節「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。」
詩人は讃美することがうれしくて仕方ありません。歌を歌うのが好きな人は大勢います。カラオケが大好きな人も沢山います。けれど詩人は、もちろん歌うことも好きかもしれませんが、歌うことが好きなだけでなく、神さまが好きなのです。神さまのことを思うと、うれしくなってくるのです。
その理由が2~3節。「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。/打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」
詩人はバビロン捕囚が終わり、エルサレムの神殿が再建されたのを見ています。バビロン捕囚が終わったのが紀元前538年、神殿が再建されたのは紀元前517年頃と考えられています。神殿再建の喜びがこの詩篇の元にあるのでしょう。
ただ神殿が再建されたというだけでなく、国が滅ぼされて散り散りになった同胞が帰還してくるんです。罪によって破壊されたものが再建される。罪によって散り散りになった者たちが神の許に帰ってくる。神の許に帰ってきたときに、バラバラになってしまっていた者たちが再会する。まさしくバビロン捕囚の終わりは、罪が贖われた救いの現れた時でした。国が滅びるという裁きを経験し、心打ちくだかれた人々が癒され、神によってその傷を包んで頂いた時でした。
神の救いに包まれ、喜びに満たされていた詩人は、時を貫く神の御業に思いを馳せます。4~6節「主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。/わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」
「主は星に数を定め」詩人は神の言葉を思い起こしていたことでしょう。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)これはイスラエルの父祖アブラハムに与えられた神の約束です。神は数え切れない星々の一つひとつを知っておられる。その名を知っておられます。同様に神の民の一人ひとりを知っていてくださいます。世界の果てに散らされようと、神は忘れることなく覚えていてくださいます。
神の民の歩みは、神の導きにかかっています。その数も神の御心の内にあります。「わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」預言者の言葉、神の声に耳を傾けない為政者たちを裁くため、国も滅ぼされました。そしてご自身の義をお立てになります。その英知の御業は数えきることができません。詩人は、畏れつつも、神の真実を思い、震えます。神の民である喜び、神と共に歩む幸いを詩人は感じているのです。
続いて第2部。7節「感謝の献げ物をささげて主に歌え。/竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。」
再び、神を讃美します。讃美も献げ物です。献げ物と同じ仲間が、祈り、讃美、信仰告白、献金です。聖書を構成する柱の一つが「命」です。しかもその命は、神と共に生きる命です。神は命をお造りになりました。しかし人が罪を犯したため、死に囚われてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、人を罪から、そして罪がもたらした死から、救い出し、永遠の命・神の国へと導かれます。
命の特徴の一つが「循環」です。吸った息を吐く。食べた物が排泄される。血液が循環する。この循環が止まると死に至ります。さらに生きるためには、大切な人と心が通い合うことが大切です。この命を支える循環が神となされるのが信仰です。神が語りかけてくださる。導いてくださる。恵みを注いでくださる。その神に対して、応答する。祈る。讃美する。告白する。自らを献げるしるしとしての献金をする。これらを通して神さまとの霊の循環がなされ、神の命が育まれていきます。
神の命へと思いが向いていくとき、神が創造された世界が感じられます。8~9節「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。/獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。」神の造られた世界には、神の慈しみが満ちています。この理解が、イエスの言葉に繋がっていきます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ 6:26)救いの御業をなされる神を感じていくとき、神がその恵みが被造物すべてに注がれている世界が見えてきます。
そして神の思い・御心への応答へと、思いが向かいます。10~11節「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。/主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」
主が喜ばれること、主が望まれることに思いが向いていきます。それは世が評価する「馬の勇ましさ」でも「人の足の速さ」でもありません。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」なのです。
この詩人の思いは「〜しなければならない」といった律法主義とは無縁のものです。詩人の思いいっぱいに神が見えています。神へと思いが向いています。詩人は神の御前に立っています。そして喜びに満たされて神と共に歩んでいます。
スイスのジュネーブで宗教改革をしたカルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』を書きました。その問1で「人生の主な目的は何ですか」と問い、「神を知ることであります」と答えているのですが、おそらくカルヴァンは、この詩人のような信仰を思い描いていたのではないかと思います(参照:ジュネーヴ教会信仰問答, 新教出版社, 外山八郎 訳)。
神を知るとき、神の愛を知ります。慈しみを知ります。真実を知ります。神を知るとき、神が造られた命の意味、わたしの目にあなたは価高く、貴い(イザヤ 43:4)と言われる言葉の意味が分かってきます。だからわたしが礼拝で願うことも「神と出会い、神を知る」ことなのです。
どうか皆さんもこの詩人と同じように、主にある喜びに満たされて、神と共に歩まれますように。
ハレルヤ
父なる神さま
詩編を通し、あなたの民があなたの救いに満たされ、喜びに満たされて、あなたを知ることができることをお示しくださり、感謝します。どうかわたしたちも、この罪世にあって、あなたと出会い、あなたを知り、あなたの命に満たされて歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 147:1〜11(新共同訳)
きょうは147篇です。最初と最後に「ハレルヤ」がある讃美の詩編です。
この詩篇は3部構成で、1~6節、7~11節、12~20節の3つの部分からなります。3部とも最初に讃美をして、それからその理由を語るという構成になっています。きょうは1部と2部を読んでいきましょう。
1節「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。」
詩人は讃美することがうれしくて仕方ありません。歌を歌うのが好きな人は大勢います。カラオケが大好きな人も沢山います。けれど詩人は、もちろん歌うことも好きかもしれませんが、歌うことが好きなだけでなく、神さまが好きなのです。神さまのことを思うと、うれしくなってくるのです。
その理由が2~3節。「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。/打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」
詩人はバビロン捕囚が終わり、エルサレムの神殿が再建されたのを見ています。バビロン捕囚が終わったのが紀元前538年、神殿が再建されたのは紀元前517年頃と考えられています。神殿再建の喜びがこの詩篇の元にあるのでしょう。
ただ神殿が再建されたというだけでなく、国が滅ぼされて散り散りになった同胞が帰還してくるんです。罪によって破壊されたものが再建される。罪によって散り散りになった者たちが神の許に帰ってくる。神の許に帰ってきたときに、バラバラになってしまっていた者たちが再会する。まさしくバビロン捕囚の終わりは、罪が贖われた救いの現れた時でした。国が滅びるという裁きを経験し、心打ちくだかれた人々が癒され、神によってその傷を包んで頂いた時でした。
神の救いに包まれ、喜びに満たされていた詩人は、時を貫く神の御業に思いを馳せます。4~6節「主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。/わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」
「主は星に数を定め」詩人は神の言葉を思い起こしていたことでしょう。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)これはイスラエルの父祖アブラハムに与えられた神の約束です。神は数え切れない星々の一つひとつを知っておられる。その名を知っておられます。同様に神の民の一人ひとりを知っていてくださいます。世界の果てに散らされようと、神は忘れることなく覚えていてくださいます。
神の民の歩みは、神の導きにかかっています。その数も神の御心の内にあります。「わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」預言者の言葉、神の声に耳を傾けない為政者たちを裁くため、国も滅ぼされました。そしてご自身の義をお立てになります。その英知の御業は数えきることができません。詩人は、畏れつつも、神の真実を思い、震えます。神の民である喜び、神と共に歩む幸いを詩人は感じているのです。
続いて第2部。7節「感謝の献げ物をささげて主に歌え。/竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。」
再び、神を讃美します。讃美も献げ物です。献げ物と同じ仲間が、祈り、讃美、信仰告白、献金です。聖書を構成する柱の一つが「命」です。しかもその命は、神と共に生きる命です。神は命をお造りになりました。しかし人が罪を犯したため、死に囚われてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、人を罪から、そして罪がもたらした死から、救い出し、永遠の命・神の国へと導かれます。
命の特徴の一つが「循環」です。吸った息を吐く。食べた物が排泄される。血液が循環する。この循環が止まると死に至ります。さらに生きるためには、大切な人と心が通い合うことが大切です。この命を支える循環が神となされるのが信仰です。神が語りかけてくださる。導いてくださる。恵みを注いでくださる。その神に対して、応答する。祈る。讃美する。告白する。自らを献げるしるしとしての献金をする。これらを通して神さまとの霊の循環がなされ、神の命が育まれていきます。
神の命へと思いが向いていくとき、神が創造された世界が感じられます。8~9節「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。/獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。」神の造られた世界には、神の慈しみが満ちています。この理解が、イエスの言葉に繋がっていきます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ 6:26)救いの御業をなされる神を感じていくとき、神がその恵みが被造物すべてに注がれている世界が見えてきます。
そして神の思い・御心への応答へと、思いが向かいます。10~11節「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。/主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」
主が喜ばれること、主が望まれることに思いが向いていきます。それは世が評価する「馬の勇ましさ」でも「人の足の速さ」でもありません。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」なのです。
この詩人の思いは「〜しなければならない」といった律法主義とは無縁のものです。詩人の思いいっぱいに神が見えています。神へと思いが向いています。詩人は神の御前に立っています。そして喜びに満たされて神と共に歩んでいます。
スイスのジュネーブで宗教改革をしたカルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』を書きました。その問1で「人生の主な目的は何ですか」と問い、「神を知ることであります」と答えているのですが、おそらくカルヴァンは、この詩人のような信仰を思い描いていたのではないかと思います(参照:ジュネーヴ教会信仰問答, 新教出版社, 外山八郎 訳)。
神を知るとき、神の愛を知ります。慈しみを知ります。真実を知ります。神を知るとき、神が造られた命の意味、わたしの目にあなたは価高く、貴い(イザヤ 43:4)と言われる言葉の意味が分かってきます。だからわたしが礼拝で願うことも「神と出会い、神を知る」ことなのです。
どうか皆さんもこの詩人と同じように、主にある喜びに満たされて、神と共に歩まれますように。
ハレルヤ
父なる神さま
詩編を通し、あなたの民があなたの救いに満たされ、喜びに満たされて、あなたを知ることができることをお示しくださり、感謝します。どうかわたしたちも、この罪世にあって、あなたと出会い、あなたを知り、あなたの命に満たされて歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン