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ヨハネによる福音書 3:12〜15

2019-07-09 18:06:04 | 聖書
2019年7月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネ 3:12〜15(新共同訳)


 イエスは、訪ねてきたニコデモに対して語り続けます。
 「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
 地上のことというのは、ニコデモに話した聖霊の働きにより洗礼を通して新しく生まれることです。
 天上のことというのは、地上の生涯が終わった先に用意されている事柄のことです。例えば、ヨハネ 14章でこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ 14:2, 3)これは地上の生涯が終わって神の国に入れられてからでないと確かめようのないことです。

 イエスは、ニコデモに最も必要な救いについて語られます。読んで頂くと分かりますが、イエスはニコデモに尋ねられたから語っているのではありません。イエスはニコデモが語らずともニコデモを知っておられるので、ニコデモに必要なことを語ってくださるのです。
 ニコデモは、律法をきちんと守って神に喜ばれ、祝福されようとするファリサイ派の一員でした。彼は律法を守ることが救いの要件だと思っていました。ところがイエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。

 救いは神の御手の内にある事柄です。わたしたちの自由にすることはできません。ファリサイ派や律法学者たちは、救いは自分たちの手の中にあると勘違いしていました。そして、神の御心は自分たちが一番よく分かっていると思い上がっていました。けれどニコデモは、イエスに教えを請いに来る謙虚な人でした。それでもイエスの言葉に衝撃を受け「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」「どうして、そんなことがありえましょうか」と驚くばかりでした。
 イエスはニコデモに、実は神のことを分かっていないということを知らせ、自分の言葉に心を開くように促します。ファリサイ派や律法学者たちが考えるよりもはるかに広く深い神の御心を知るように導かれるのです。

 イエスは言います。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」
 神と共にいた者でなければ、神を知らないし、神を語ることはできません。神ご自身でなければ、神の御心を正しく伝えることはできません。イエス キリストこそ、わたしたちの救いのために人となって天から降ってきてくださった神よりの神、真に神であり、真に人であるお方です。聖書は語ります。「(神は)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ 1:2)
 イエス キリスト以外に天に上った者は誰もいません。イエス キリストは唯一無二のお方です。このただ一人のお方が、わたしたちの救いのために十字架に上げられてくださいました。

 ここに出てくる「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と書かれているのは、民数記 21:4~9に出てきます。エジプトから導き出してくださった神の御業に不平を言うイスラエルに対して、神は炎の蛇を送り、蛇にかまれて多くの死者が出ました。民はモーセに泣きつきます。モーセは民のために神に祈ります。神はモーセに答えて言われます。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」それでモーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た、と聖書は語ります。
 ここでイエスが民数記の出来事に触れられたのは、この出来事がキリストの十字架を指し示しているからです。神の裁きの出来事を仰ぎ見ることが、救いへとつながるという点が十字架を指し示しているのです。キリストの十字架においてわたしたちの罪が裁かれており、十字架の主を仰ぎ見て、神が罪を裁き、わたしたちを救ってくださっていることを信じるのです。それ故に、十字架はキリスト教会のシンボルとして用い続けられてきました。

 イエスはニコデモに新しく生まれる鍵となる十字架を示されました。なぜなら、永遠の命を得るためには、キリストの十字架が自分の救いのためであることを知り、信じ受け入れる必要があるからです。

 ところで、わたしたち罪人は、どうしても満足や手応えを求めます。律法を守れるようになった。以前より、愛せるようになった。赦せるようになった。成長した。どうしてもファリサイ派のような律法主義的な信仰に近づいていきます。
 しかし聖書は、神と共に生きるということ、神と共にある命について語ります。命は、わたしの命であっても、わたしのもの、わたしの所有物ではありません。わたしたちは能力も性格も自分で選んで生まれては来ません。いつの時代に生まれるか、どの国に生まれるかも選べません。健康に気遣うことはできても、死から自由になることは決してありません。命は自分の自由にはなりません。命は、神から与えられた賜物であり、神のものなのです。
 命をお与えくださった神は、命が滅びるのをよしとされず、共に生きていくことを願って、救いの御業をなしてくださいました。その神の救いの御業の結果、わたしたちに与えられるのが、神と共に生きる命、永遠の命です。

 この永遠の命は、このヨハネ福音書が救いを語る上で重要だと考えているテーマです。例えば「永遠の命」という言葉が、マタイでは3回、マルコは2回、ルカでは3回なのに対して、ヨハネには17回出てきます。そしてヨハネ 6:40では「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だと記しています。またこの福音書自体の目的が「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)とあります。
 永遠の命は、今の命と同じく、神から与えられる賜物、恵みです。律法に捕らわれ、自分の成長に捕らわれ、自分に思いを向けるのではなく、わたしたちのためにご自分の命を献げて十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ、キリストを通して命の源である父・子・聖霊なる神との交わりに入れて頂くとき、永遠の命に与るのです。

 イエスは、ニコデモが自分自身から解放され、神の恵みの御業に自分自身を委ねることへと導こうとしておられます。わたしたちもまた、真の羊飼いであるイエス キリストに導いて頂くとき、自分自身のすべてを委ねることのできる真の神との交わり、永遠の命に入れて頂くのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17:3)


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを知っていてくださり、永遠の命に与らせるため、丁寧に導いてくださいます。救いは、わたしたちが求めるところにではなく、あなたの御心の内にあります。どうかあなたの導きを信頼し、御心を求めていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン