2020年6月14日(日)主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 11:1~5(新共同訳)
パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
神のご計画は、罪なきひとり子イエス キリストを救い主として遣わし、その命をかけてわたしたちの罪を贖うというもの。そしてイエス キリストを信じる者に信仰を通して義を与え、神の子とする、というものです。
旧約の御言葉は、イエス キリストを指し示してきました。
しかし、旧約の御言葉によって歩んできたイスラエルは、多くの者がイエス キリストを信じませんでした。神が与えてくださる神の義・神の正しさではなく、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。律法はこう守るべき、救い主はこうあるべき、神に仕えている自分たちこそ敬われるべきなど、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。その結果、イエス キリストを拒絶してしまったのです。
そしてキリストの福音は異邦人に宣べ伝えられ、新たにイエス キリストを信じる新しい民が起こされました。
パウロも熱心なファリサイ派の信徒で、多くのユダヤ人と同じように考えていました。しかしそれが復活のキリストとの出会いによって覆されてしまいました。神がイエス キリストを救い主として遣わされたことははっきり分かりました。けれども「それでは」と問わずにはいられない疑問が浮かんできます。
これまでもこの手紙にはパウロの問いが何度も出てきました。神の言葉は無効になったのだろうか(9:4)新たに異邦人を選ばれた神に不義がありはしないか(9:14)イスラエルには十分に知らされなかったのだろうか(10:19)。
罪人は神の御心を知ることができません。神に知らせて頂かなくてはなりません。だから神に問いかけます。「御心をお示しください」と祈ります。
きょうの箇所でもパウロは問います。神はご自分の民であるイスラエルを退けられたのだろうか。イスラエルの歩み・歴史は空しく意味のないものだったのだろうか。自分自身イスラエルの民であるパウロには、イスラエルの救い、救いの御業におけるイスラエルの意味を問わずにはおれません。
人は意味を求める存在です。無意味であることに耐えられません。だから人は自分の意義や誇りを求めます。
パウロは神の御業の中にイスラエルの意味を見出します。パウロがここで引用したのは、列王記上 19:10~19に記されている預言者エリヤのエピソードです。
エリヤは紀元前9世紀に北イスラエル王国で活動した預言者です。当時北イスラエルの王はアハブという人でした。彼の妻イゼベルは隣国の王の娘です。彼女は自分が親しんできたバアルを礼拝することを北イスラエルに導入しようとしました。北イスラエルの首都サマリヤにバアルを礼拝する神殿を建てました(列王上 16:32)。エリヤは偶像礼拝に抵抗し、信仰を守るために働いたので、エリヤの命もねらわれるようになりました。
アハブ、イゼベルの手を逃れて逃亡するエリヤは神に訴えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王上 19:10, 14)それに対する神の答えがこれです。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王上 19:18)
パウロはこの出来事を引用します。
神の民は、神の救いの業、恵みの業を担う者たちです。しかし、一騎当千の信仰の精鋭たちの集団ではありません。イスラエルは何度も神を裏切り、神を捨てます。けれど神が見捨てないのです。神が見放さないのです。旧約の詩人は告白します。「まことに、主はその民を見放さず/ご自分の民を見捨てられない。」(詩編 94:14 聖書協会共同訳)
イエスの弟子たちもイエスを裏切り、イエスを見捨てました。しかし、その弟子たちのところへ復活のキリストが来てくださり、聖霊を与えてくださるのです(ヨハネ 20:22)。
なぜ神は、何度も裏切られ、何度も赦されるのか。なぜ神は、何度も捨てられ、何度も招かれるのか。おそらくそれは、罪のただ中で、赦され招かれた者だけが知ることではないかと思います。自分の前にまで来てくださり、語りかけ、救いを手渡してくださる神に出会った者だけが気づくのではないかと思います。
パウロも復活のキリストとの出会いによって、まことに神と出会った一人です。キリストが自分の前にまで来てくださり、語りかけ、赦しを与え、招いてくださいました。自分の信念、確信を超えて、キリストが出会ってくださったのです。ファリサイ派の教義を超えて、神の御業が目覚めさせてくださいました。
だからキリストと出会い、神を知ったパウロは、こう言うのです。「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」
神の愛も約束も、救いの御業も何一つ変わってはいないのです。神はイスラエルを通してご自分を証ししてこられました。そして約束通り、救い主をイスラエルの子孫に与えてくださいました。神は救い主を信じる信仰を通して、お造りになったすべてのものに救いを注いでくださいます。現に今も、恵みによって選ばれた者が救い主を宣べ伝え、救いの御業に与っています。人間には理解し尽くすことのできない神ご自身の愛、恵み、真実によってわたしたちは救われているのです。
わたしは古代教会の信条、改革派教会の信仰告白を重んじています。しかし、信条や信仰告白がわたしたちを救うのではありません。信条や信仰告白は、キリストの救いの御業、それをなされる神ご自身に出会って与えられ示されるものです。信条や信仰告白が大切なのは、救いの御業、それをなされる父・子・聖霊なる神ご自身を指し示しているからです。一番大切なのは、神ご自身です。神に出会い、神との交わりの内に生きることです。
パウロの願いは、同胞イスラエルが自分と同じようにキリストに出会い、神を知ることです。ユダヤ教の教師たちの教えに精通することではなく、イスラエルを召し出し、救いの業をなしてこられた神ご自身に出会うことです。そのとき、自分がイスラエルであること、そしてイスラエルの歩みを神の恵みとして受け取ることができるからです。
わたしたちもまた、神に出会い、今を恵みとして受け取り、神にあって希望を与えて頂くことが必要です。世界が混沌としています。人権を大切に思い、平和を求める人たちに絶望を押しつけてくるような時代です。「神なんかいないじゃないか」という叫びに対して言葉がつまります。
だからこそ、信仰を持つ人々が神と出会う必要があるのです。聖書を通して語りかけておられる神に出会い、主は今も生きて働いておられるという信仰を与えられ、神に希望を抱かせて頂かねばならないのです。
わたしたちの救いのためにイエス キリストをさえ与えてくださる神は、わたしたちに救いを与え、希望となってくださいます。いくらでも疑問を抱いて大丈夫です。神に訴えて大丈夫です。神は必ず答えてくださり、救いの御業がわたしたちすべてのためになされていることを知らせてくださいます。
神の恵みは尽きず、今も恵みによって選ばれた者が残っています。
ハレルヤ
父なる神さま
エリヤの望みが尽きるところで、あなたはあなたの民が選ばれ、残されていることを語られました。どうか今、わたしたちにもお語りください。今わたしたちの目の前に拡がる世界は、罪に溢れています。命が踏みにじられ、人権は押し潰され、ウイルスに苦しむ世界の中で、難民や貧しさにあえぐ者たちが不衛生な中で脅かされています。エリヤに七千人の民を残されたように、今あなたの民を召し出し、選び出してください。あなたの義をこの世界に打ち立ててください。今も救いの御業がなされていることを知ることができますように。どうか空しくなることのないあなたの希望をわたしたちにお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 11:1~5(新共同訳)
パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
神のご計画は、罪なきひとり子イエス キリストを救い主として遣わし、その命をかけてわたしたちの罪を贖うというもの。そしてイエス キリストを信じる者に信仰を通して義を与え、神の子とする、というものです。
旧約の御言葉は、イエス キリストを指し示してきました。
しかし、旧約の御言葉によって歩んできたイスラエルは、多くの者がイエス キリストを信じませんでした。神が与えてくださる神の義・神の正しさではなく、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。律法はこう守るべき、救い主はこうあるべき、神に仕えている自分たちこそ敬われるべきなど、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。その結果、イエス キリストを拒絶してしまったのです。
そしてキリストの福音は異邦人に宣べ伝えられ、新たにイエス キリストを信じる新しい民が起こされました。
パウロも熱心なファリサイ派の信徒で、多くのユダヤ人と同じように考えていました。しかしそれが復活のキリストとの出会いによって覆されてしまいました。神がイエス キリストを救い主として遣わされたことははっきり分かりました。けれども「それでは」と問わずにはいられない疑問が浮かんできます。
これまでもこの手紙にはパウロの問いが何度も出てきました。神の言葉は無効になったのだろうか(9:4)新たに異邦人を選ばれた神に不義がありはしないか(9:14)イスラエルには十分に知らされなかったのだろうか(10:19)。
罪人は神の御心を知ることができません。神に知らせて頂かなくてはなりません。だから神に問いかけます。「御心をお示しください」と祈ります。
きょうの箇所でもパウロは問います。神はご自分の民であるイスラエルを退けられたのだろうか。イスラエルの歩み・歴史は空しく意味のないものだったのだろうか。自分自身イスラエルの民であるパウロには、イスラエルの救い、救いの御業におけるイスラエルの意味を問わずにはおれません。
人は意味を求める存在です。無意味であることに耐えられません。だから人は自分の意義や誇りを求めます。
パウロは神の御業の中にイスラエルの意味を見出します。パウロがここで引用したのは、列王記上 19:10~19に記されている預言者エリヤのエピソードです。
エリヤは紀元前9世紀に北イスラエル王国で活動した預言者です。当時北イスラエルの王はアハブという人でした。彼の妻イゼベルは隣国の王の娘です。彼女は自分が親しんできたバアルを礼拝することを北イスラエルに導入しようとしました。北イスラエルの首都サマリヤにバアルを礼拝する神殿を建てました(列王上 16:32)。エリヤは偶像礼拝に抵抗し、信仰を守るために働いたので、エリヤの命もねらわれるようになりました。
アハブ、イゼベルの手を逃れて逃亡するエリヤは神に訴えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王上 19:10, 14)それに対する神の答えがこれです。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王上 19:18)
パウロはこの出来事を引用します。
神の民は、神の救いの業、恵みの業を担う者たちです。しかし、一騎当千の信仰の精鋭たちの集団ではありません。イスラエルは何度も神を裏切り、神を捨てます。けれど神が見捨てないのです。神が見放さないのです。旧約の詩人は告白します。「まことに、主はその民を見放さず/ご自分の民を見捨てられない。」(詩編 94:14 聖書協会共同訳)
イエスの弟子たちもイエスを裏切り、イエスを見捨てました。しかし、その弟子たちのところへ復活のキリストが来てくださり、聖霊を与えてくださるのです(ヨハネ 20:22)。
なぜ神は、何度も裏切られ、何度も赦されるのか。なぜ神は、何度も捨てられ、何度も招かれるのか。おそらくそれは、罪のただ中で、赦され招かれた者だけが知ることではないかと思います。自分の前にまで来てくださり、語りかけ、救いを手渡してくださる神に出会った者だけが気づくのではないかと思います。
パウロも復活のキリストとの出会いによって、まことに神と出会った一人です。キリストが自分の前にまで来てくださり、語りかけ、赦しを与え、招いてくださいました。自分の信念、確信を超えて、キリストが出会ってくださったのです。ファリサイ派の教義を超えて、神の御業が目覚めさせてくださいました。
だからキリストと出会い、神を知ったパウロは、こう言うのです。「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」
神の愛も約束も、救いの御業も何一つ変わってはいないのです。神はイスラエルを通してご自分を証ししてこられました。そして約束通り、救い主をイスラエルの子孫に与えてくださいました。神は救い主を信じる信仰を通して、お造りになったすべてのものに救いを注いでくださいます。現に今も、恵みによって選ばれた者が救い主を宣べ伝え、救いの御業に与っています。人間には理解し尽くすことのできない神ご自身の愛、恵み、真実によってわたしたちは救われているのです。
わたしは古代教会の信条、改革派教会の信仰告白を重んじています。しかし、信条や信仰告白がわたしたちを救うのではありません。信条や信仰告白は、キリストの救いの御業、それをなされる神ご自身に出会って与えられ示されるものです。信条や信仰告白が大切なのは、救いの御業、それをなされる父・子・聖霊なる神ご自身を指し示しているからです。一番大切なのは、神ご自身です。神に出会い、神との交わりの内に生きることです。
パウロの願いは、同胞イスラエルが自分と同じようにキリストに出会い、神を知ることです。ユダヤ教の教師たちの教えに精通することではなく、イスラエルを召し出し、救いの業をなしてこられた神ご自身に出会うことです。そのとき、自分がイスラエルであること、そしてイスラエルの歩みを神の恵みとして受け取ることができるからです。
わたしたちもまた、神に出会い、今を恵みとして受け取り、神にあって希望を与えて頂くことが必要です。世界が混沌としています。人権を大切に思い、平和を求める人たちに絶望を押しつけてくるような時代です。「神なんかいないじゃないか」という叫びに対して言葉がつまります。
だからこそ、信仰を持つ人々が神と出会う必要があるのです。聖書を通して語りかけておられる神に出会い、主は今も生きて働いておられるという信仰を与えられ、神に希望を抱かせて頂かねばならないのです。
わたしたちの救いのためにイエス キリストをさえ与えてくださる神は、わたしたちに救いを与え、希望となってくださいます。いくらでも疑問を抱いて大丈夫です。神に訴えて大丈夫です。神は必ず答えてくださり、救いの御業がわたしたちすべてのためになされていることを知らせてくださいます。
神の恵みは尽きず、今も恵みによって選ばれた者が残っています。
ハレルヤ
父なる神さま
エリヤの望みが尽きるところで、あなたはあなたの民が選ばれ、残されていることを語られました。どうか今、わたしたちにもお語りください。今わたしたちの目の前に拡がる世界は、罪に溢れています。命が踏みにじられ、人権は押し潰され、ウイルスに苦しむ世界の中で、難民や貧しさにあえぐ者たちが不衛生な中で脅かされています。エリヤに七千人の民を残されたように、今あなたの民を召し出し、選び出してください。あなたの義をこの世界に打ち立ててください。今も救いの御業がなされていることを知ることができますように。どうか空しくなることのないあなたの希望をわたしたちにお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン