2021年1月3日(日) 主日礼拝 礼拝
聖書:イザヤ 61:1〜3(新共同訳)
今年最初に聞くのは、預言者イザヤの預言です。
初代の王サウルによって建国されたイスラエル王国は、第2代の王ダビデ、第3代の王ソロモンと発展しましたが、第4代の時、北イスラエルと南ユダに分裂しました。この王国の歩みは、サムエル記(上・下)、列王記(上・下)、歴代誌(上・下)に記されています。北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされます。南ユダでは、多くの人が捕虜としてバビロニアに連れて行かれるバビロン捕囚と呼ばれる出来事も起こりました。
神は北イスラエルが滅ぼされる30年ぐらい前から、聖書に文書が収められているイザヤやアモス、ホセアなどの預言者を立て、悔い改めを求められました。しかし、国の指導者たちは預言者の言葉を聞くことなく、滅びへと進んでいきました。
イザヤ書は、旧約の預言書の最初にある預言書で、66章からなる大部なものです。預言の時代背景などを見ていくと、イザヤ書は三部に分かれ、イザヤ一人で語ったものではなく、イザヤとイザヤに連なる預言者たちによって語られたものと考えられています。最初の預言から最後の預言までは、およそ200年の時が経っていると考えられています。
きょう聞きましたところは、聖書学では第三イザヤと呼ばれている第三部に当たるところです。バビロン捕囚が終わり、人々がエルサレムへと帰還した時代に語られたものと考えられています。きょうの箇所の続き4節には、紀元前520年に始まったエルサレム神殿の再建について(紀元前515年完成)語られています。
さてきょうの箇所ですが、1節「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」
預言者は油注がれて、務めに立てられました。王や祭司など神の務めを行う者を任職するときに油が注がれました。油注がれた者というのがメシアという言葉で、後に救い主を表すようになります。そしてメシアがギリシャ語に訳されたのがキリストという言葉です。
預言者は油注がれ、務めに立てられると、神の霊に捉えられます。神の霊は預言者になすべき事を明らかにします。1節「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。/打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させる」2~3節「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」
預言者の務めは「良い知らせを伝え」ることだと言われます。良い知らせ、それは福音です。福音を伝えるのが預言者の務めだと言われます。
良い知らせ=福音の内容はと言うと、告知という言葉で二つの表現で語られています。「解放」と「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」を告知することです。この二つは同じ出来事を言っています。バビロン捕囚とそれに伴う抑圧からの解放、そして困難な時にイスラエルを助けることなく苦しめた者たちへの神の報復です。
「貧しい人」という言葉が出てきますが、これは困難な時代、苦しみの中で心弱った人のことです。ここで使われている貧しいという言葉は、経済的な貧しさではなく、精神的貧しさを表す言葉が使われています。マタイによる福音書5章の山上の説教で語られる「心の貧しい人々」につながる表現です。心の貧しい人に、神は福音を伝えてくださるのです。福音によって生きて働かれる神を知り、神の真実を知って、貧しい人は幸いへと導かれるのです。
神は預言者を用いて「打ち砕かれた心を包み」「嘆いている人々を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油を」「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて」くださいます。
3節の「灰に代えて」というのは、イスラエルには大きな悲しみを経験した時に灰をかぶるという表現をしていたことを表しています。他にも衣服を引き裂くという表現もありました。
こうして良い知らせを受け取った神の民は、神の栄光を現し、神を証しします。「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」この樫の木は、聖なる木と考えられ、樫の木の傍らに祭壇が築かれることもありました(創世記 13:18)。
彼らはバビロン捕囚という裁きの中にいた人たちです。裁きの中で、心打ちくだかれ、嘆き、暗い心を抱えていました。裁きの中にいる人たちに、良い知らせを伝えるため、神は預言者を立てられるのです。神が御業をなされると、裁きの中にあった人たちに喜びの香油と賛美の衣が与えられ、主の輝きを現すのです。
きょうのイザヤの預言は、イエス キリストに重なっていきます。
神のひとり子イエスは、油注がれた者=メシア=キリストとなり、世に来られました。イエス キリストは、徴税人や娼婦、律法を守れず罪人と蔑まれていた貧しい人たちに良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、慰めを与え、罪に捕らわれていた人々に自由を与えてくださいました。
ちなみにルカによる福音書によると(4:16~)、イエスはきょうのイザヤ 61章を安息日に会堂で朗読されて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と言われました。イザヤのこの預言は、イエス キリストにおいて成就しました。
こうして、イエス キリストご自身が油注がれる者=メシア=キリストとなり、神に遣わされる者となり、預言の成就、活ける神の御言葉、良い知らせ=福音そのものとなってくださいました。
そしてマルコは、神の子イエス キリストの福音を伝えるためにマルコによる福音書を編纂しました。マタイもルカもヨハネも、それぞれがイエス キリストを伝えたいと考える人たちのために、福音書を編纂しました。
祝福をもって世界を創造された神は、いつもわたしたちに良い知らせ=福音を語ってくださいます。預言者を遣わし、ひとり子を与え、福音書を備えて、神は祝福を語り、福音を実現してくださいます。
そして世の終わりまで神の祝福を伝えるために、神の輝きを現す樫の木として教会を建ててくださいました。神の祝福を受け取ったわたしたち一人ひとりを神の義を証しする樫の木として育み育て、用いてくださいます。わたしたちの思いを超えて、神はわたしたちを用いて救いの御業をなされます。
神が始めてくださったこの新しい年 2021年も、皆さんお一人おひとりが、神の祝福を受けて歩んで行かれますように。神が与えてくださる慰めを受け、自由に包まれ、喜びに満たされ、主を讃美しながら歩んで行かれますように。
ハレルヤ
父なる神さま
新しい年、最初の日曜日にも御言葉を通して語りかけてくださり、救いの御業を示してくださったことを感謝します。わたしたちは今、感染症による混乱、政治の混乱、罪の世の混沌の中で道が見出せなくなってきています。よい羊飼いであり、わたしたちの道であるイエス キリストに従い、救いの道・命の道を歩ませてください。どうかわたしたちをも用いて、救いの御業を推し進めてください。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:イザヤ 61:1〜3(新共同訳)
今年最初に聞くのは、預言者イザヤの預言です。
初代の王サウルによって建国されたイスラエル王国は、第2代の王ダビデ、第3代の王ソロモンと発展しましたが、第4代の時、北イスラエルと南ユダに分裂しました。この王国の歩みは、サムエル記(上・下)、列王記(上・下)、歴代誌(上・下)に記されています。北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前586年に新バビロニアによって滅ぼされます。南ユダでは、多くの人が捕虜としてバビロニアに連れて行かれるバビロン捕囚と呼ばれる出来事も起こりました。
神は北イスラエルが滅ぼされる30年ぐらい前から、聖書に文書が収められているイザヤやアモス、ホセアなどの預言者を立て、悔い改めを求められました。しかし、国の指導者たちは預言者の言葉を聞くことなく、滅びへと進んでいきました。
イザヤ書は、旧約の預言書の最初にある預言書で、66章からなる大部なものです。預言の時代背景などを見ていくと、イザヤ書は三部に分かれ、イザヤ一人で語ったものではなく、イザヤとイザヤに連なる預言者たちによって語られたものと考えられています。最初の預言から最後の預言までは、およそ200年の時が経っていると考えられています。
きょう聞きましたところは、聖書学では第三イザヤと呼ばれている第三部に当たるところです。バビロン捕囚が終わり、人々がエルサレムへと帰還した時代に語られたものと考えられています。きょうの箇所の続き4節には、紀元前520年に始まったエルサレム神殿の再建について(紀元前515年完成)語られています。
さてきょうの箇所ですが、1節「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」
預言者は油注がれて、務めに立てられました。王や祭司など神の務めを行う者を任職するときに油が注がれました。油注がれた者というのがメシアという言葉で、後に救い主を表すようになります。そしてメシアがギリシャ語に訳されたのがキリストという言葉です。
預言者は油注がれ、務めに立てられると、神の霊に捉えられます。神の霊は預言者になすべき事を明らかにします。1節「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。/打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させる」2~3節「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」
預言者の務めは「良い知らせを伝え」ることだと言われます。良い知らせ、それは福音です。福音を伝えるのが預言者の務めだと言われます。
良い知らせ=福音の内容はと言うと、告知という言葉で二つの表現で語られています。「解放」と「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」を告知することです。この二つは同じ出来事を言っています。バビロン捕囚とそれに伴う抑圧からの解放、そして困難な時にイスラエルを助けることなく苦しめた者たちへの神の報復です。
「貧しい人」という言葉が出てきますが、これは困難な時代、苦しみの中で心弱った人のことです。ここで使われている貧しいという言葉は、経済的な貧しさではなく、精神的貧しさを表す言葉が使われています。マタイによる福音書5章の山上の説教で語られる「心の貧しい人々」につながる表現です。心の貧しい人に、神は福音を伝えてくださるのです。福音によって生きて働かれる神を知り、神の真実を知って、貧しい人は幸いへと導かれるのです。
神は預言者を用いて「打ち砕かれた心を包み」「嘆いている人々を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油を」「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて」くださいます。
3節の「灰に代えて」というのは、イスラエルには大きな悲しみを経験した時に灰をかぶるという表現をしていたことを表しています。他にも衣服を引き裂くという表現もありました。
こうして良い知らせを受け取った神の民は、神の栄光を現し、神を証しします。「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」この樫の木は、聖なる木と考えられ、樫の木の傍らに祭壇が築かれることもありました(創世記 13:18)。
彼らはバビロン捕囚という裁きの中にいた人たちです。裁きの中で、心打ちくだかれ、嘆き、暗い心を抱えていました。裁きの中にいる人たちに、良い知らせを伝えるため、神は預言者を立てられるのです。神が御業をなされると、裁きの中にあった人たちに喜びの香油と賛美の衣が与えられ、主の輝きを現すのです。
きょうのイザヤの預言は、イエス キリストに重なっていきます。
神のひとり子イエスは、油注がれた者=メシア=キリストとなり、世に来られました。イエス キリストは、徴税人や娼婦、律法を守れず罪人と蔑まれていた貧しい人たちに良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、慰めを与え、罪に捕らわれていた人々に自由を与えてくださいました。
ちなみにルカによる福音書によると(4:16~)、イエスはきょうのイザヤ 61章を安息日に会堂で朗読されて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と言われました。イザヤのこの預言は、イエス キリストにおいて成就しました。
こうして、イエス キリストご自身が油注がれる者=メシア=キリストとなり、神に遣わされる者となり、預言の成就、活ける神の御言葉、良い知らせ=福音そのものとなってくださいました。
そしてマルコは、神の子イエス キリストの福音を伝えるためにマルコによる福音書を編纂しました。マタイもルカもヨハネも、それぞれがイエス キリストを伝えたいと考える人たちのために、福音書を編纂しました。
祝福をもって世界を創造された神は、いつもわたしたちに良い知らせ=福音を語ってくださいます。預言者を遣わし、ひとり子を与え、福音書を備えて、神は祝福を語り、福音を実現してくださいます。
そして世の終わりまで神の祝福を伝えるために、神の輝きを現す樫の木として教会を建ててくださいました。神の祝福を受け取ったわたしたち一人ひとりを神の義を証しする樫の木として育み育て、用いてくださいます。わたしたちの思いを超えて、神はわたしたちを用いて救いの御業をなされます。
神が始めてくださったこの新しい年 2021年も、皆さんお一人おひとりが、神の祝福を受けて歩んで行かれますように。神が与えてくださる慰めを受け、自由に包まれ、喜びに満たされ、主を讃美しながら歩んで行かれますように。
ハレルヤ
父なる神さま
新しい年、最初の日曜日にも御言葉を通して語りかけてくださり、救いの御業を示してくださったことを感謝します。わたしたちは今、感染症による混乱、政治の混乱、罪の世の混沌の中で道が見出せなくなってきています。よい羊飼いであり、わたしたちの道であるイエス キリストに従い、救いの道・命の道を歩ませてください。どうかわたしたちをも用いて、救いの御業を推し進めてください。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン