2019年11月10日(日) 主日礼拝 逝去者記念礼拝
聖書:イザヤ書 61:1~3, 10~11(新共同訳)
本日は、先に召された方々を覚えて守る逝去者記念礼拝です。
教会の暦、教会暦に、先に召された人々を覚える All Saints Day と呼ばれる日が11月の初めにあるところから、この時期、逝去者を覚えて礼拝を守る教会が多くあります。地方に行きますと、お盆の帰省に合わせて守るところもあります。
現代はとても便利な時代になりました。人類は文明を積み重ね、科学技術により昔はできなかったいろいろなことができるようになりました。けれどどんなに便利になっても、人が自由にできないものがあります。その一つが時間です。人は時間を止めることはできません。成長し、年を取り、老いていくことを止めることはできません。そして誰もがこの世での人生の終わりの時を迎えます。
死は、自分の命であっても、命は自分の思い通りにすることができないことを教えます。実に、命は自分の命であっても、自分の所有物ではありません。命は、与えられたものであり、いつか与えてくださった方の許に帰らねばなりません。
聖書は、その命の造り主である神がおられること、神によって命が与えられ、神は一人ひとりをご自分の御国へと導こうとしておられることを教えています。
神は創造のとき、愛と祝福をもってお造りになられました。神は人をご自分にかたどって造られました(創世記 1:27)。愛である神ご自身(1ヨハネ 4:16)にかたどって、愛をもって生きる者としてお造りになりました。
しかし、人は罪を犯してしまいました。食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました(創世記 3:6)。それにより、神とは違う自分の善悪を持つようになり、神とは共に歩めなくなってしまいました。その結果、命の造り主である神から離れていくようになりました。神に背を向けて歩む、その人生の終わりには死が待っています。人は罪によって、死に囚われてしまいました。
そこで神は罪と罪がもたらす死から救うために御業をなしてくださいました。その救いの御業は、わたしたちと新しい関係を築くことでした。人を罪と死から救い出すことができるのは神だけです。命を創造される神だけが、死を超える命を与えることができるのです。ですから、神はわたしたちとつながろうとしてくださり、わたしたちに関わってくださいます。そのとき、わたしたちは死から解放されるのです。
さて、きょう読みました箇所ですが、神はご自身の御心・計画を伝えるために預言者をお立てになります。聖書が語る預言というのは、あらかじめ未来を語ることではなく、神の言葉を託されて語ることです。ですから預言は、言葉を預かると書きます。
聖書は語ります。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」油を注ぐというのは、任職の儀式です。預言者として立てられたことを表す儀式です。「神の霊がわたしをとらえた」というのは、神の霊、聖霊によって語るべき神の言葉が示されるということです。
「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」預言者は務めを果たすために遣わされます。その務めは「貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告知」することです。
「貧しい」と訳された言葉(アーナーヴ:ヘブライ語)は、経済的に貧しいと言うより、宗教的・倫理的に心が貧しいという意味で用いられることの多い言葉です(岩波版の注)。つまり、心豊かに生きることができる良い知らせを伝え、傷つき砕けた心を癒やし、神の許にある自由を与えるために預言者は語ります。良き知らせの源である神を指し示して語ります。そして「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」、つまり救いの完成する日を告知するのです。
預言者は神の言葉によって「嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」ます。神の民は、罪が力を振るい支配しているかのごとくに映るこの世にあって、神の言葉により、恵みを与えられ、喜びを受けて生きてきました。神に祝福された新しい命、死をも超えていく永遠の命を受けて生きてきました。そして神の民は「主の輝きを現す」「正義の樫の木」、神を証しする大切な存在とされ、救いのために用いられてきたのです。
「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。」神は、わたしたちに花婿のように花嫁のように真実な愛の関係を与えてくださいます。神はわたしたちを罪から救い出して、神の愛と真実による新しい関係に入れてくださいます。わたしたちは、神の愛を受けて、救いの喜びを味わいます。
命を造り、救いを与えてくださる神の恵みは、死を超えて永遠です。先に召された愛する一人ひとりは、神の愛と真実の中にいます。そしてわたしたちの地上の生涯が終わるときの未来もそこにあります。
神だけが死を超える未来を示すことができます。わたしたちのために救い主となられたイエス キリストだけが、復活と永遠の命を与えることができます。
わたしたちは神の国で愛する者たち、すべての聖徒たちに会うのです。救いの喜びに満たされて主の食卓を共に囲みます。教会はイエスが弟子たちと守られた最後の晩餐を記念して聖晩餐というパンとぶどう酒を分かち合う儀式を行います。これは過去の出来事を記念するだけでなく、救いの完成する日に神の国で祝われる主の食卓を指し示します。そこにおいてわたしたちは、愛する者たち、代々の聖徒たちと喜びの食卓を囲みます。神に命を与えられたこと、愛する者と共に生きる恵みを与えられたこと、共に救われ神の国に導かれたことを喜ぶ主の食卓に共に与ります。わたしたちは神の愛と真実によって、死でさえも奪い去ることのできない大いなる喜びへと導かれています。神の御前に立ち帰る者は、その喜びの中に愛する者を見出します。
預言者は、その幸いを語ります。「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」
わたしたちは今、主にある希望を持って、愛する者たちを思い見るのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは死によっても失われることのない救いを与えてくださいます。あなたの愛、あなたの真実に支えられて、わたしたちは愛する者たちを思い見ることができます。どうか愛する者たちが与った救いの恵みに、わたしたちも共に与り、あなたにある希望に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:イザヤ書 61:1~3, 10~11(新共同訳)
本日は、先に召された方々を覚えて守る逝去者記念礼拝です。
教会の暦、教会暦に、先に召された人々を覚える All Saints Day と呼ばれる日が11月の初めにあるところから、この時期、逝去者を覚えて礼拝を守る教会が多くあります。地方に行きますと、お盆の帰省に合わせて守るところもあります。
現代はとても便利な時代になりました。人類は文明を積み重ね、科学技術により昔はできなかったいろいろなことができるようになりました。けれどどんなに便利になっても、人が自由にできないものがあります。その一つが時間です。人は時間を止めることはできません。成長し、年を取り、老いていくことを止めることはできません。そして誰もがこの世での人生の終わりの時を迎えます。
死は、自分の命であっても、命は自分の思い通りにすることができないことを教えます。実に、命は自分の命であっても、自分の所有物ではありません。命は、与えられたものであり、いつか与えてくださった方の許に帰らねばなりません。
聖書は、その命の造り主である神がおられること、神によって命が与えられ、神は一人ひとりをご自分の御国へと導こうとしておられることを教えています。
神は創造のとき、愛と祝福をもってお造りになられました。神は人をご自分にかたどって造られました(創世記 1:27)。愛である神ご自身(1ヨハネ 4:16)にかたどって、愛をもって生きる者としてお造りになりました。
しかし、人は罪を犯してしまいました。食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました(創世記 3:6)。それにより、神とは違う自分の善悪を持つようになり、神とは共に歩めなくなってしまいました。その結果、命の造り主である神から離れていくようになりました。神に背を向けて歩む、その人生の終わりには死が待っています。人は罪によって、死に囚われてしまいました。
そこで神は罪と罪がもたらす死から救うために御業をなしてくださいました。その救いの御業は、わたしたちと新しい関係を築くことでした。人を罪と死から救い出すことができるのは神だけです。命を創造される神だけが、死を超える命を与えることができるのです。ですから、神はわたしたちとつながろうとしてくださり、わたしたちに関わってくださいます。そのとき、わたしたちは死から解放されるのです。
さて、きょう読みました箇所ですが、神はご自身の御心・計画を伝えるために預言者をお立てになります。聖書が語る預言というのは、あらかじめ未来を語ることではなく、神の言葉を託されて語ることです。ですから預言は、言葉を預かると書きます。
聖書は語ります。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」油を注ぐというのは、任職の儀式です。預言者として立てられたことを表す儀式です。「神の霊がわたしをとらえた」というのは、神の霊、聖霊によって語るべき神の言葉が示されるということです。
「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」預言者は務めを果たすために遣わされます。その務めは「貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告知」することです。
「貧しい」と訳された言葉(アーナーヴ:ヘブライ語)は、経済的に貧しいと言うより、宗教的・倫理的に心が貧しいという意味で用いられることの多い言葉です(岩波版の注)。つまり、心豊かに生きることができる良い知らせを伝え、傷つき砕けた心を癒やし、神の許にある自由を与えるために預言者は語ります。良き知らせの源である神を指し示して語ります。そして「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」、つまり救いの完成する日を告知するのです。
預言者は神の言葉によって「嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」ます。神の民は、罪が力を振るい支配しているかのごとくに映るこの世にあって、神の言葉により、恵みを与えられ、喜びを受けて生きてきました。神に祝福された新しい命、死をも超えていく永遠の命を受けて生きてきました。そして神の民は「主の輝きを現す」「正義の樫の木」、神を証しする大切な存在とされ、救いのために用いられてきたのです。
「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。」神は、わたしたちに花婿のように花嫁のように真実な愛の関係を与えてくださいます。神はわたしたちを罪から救い出して、神の愛と真実による新しい関係に入れてくださいます。わたしたちは、神の愛を受けて、救いの喜びを味わいます。
命を造り、救いを与えてくださる神の恵みは、死を超えて永遠です。先に召された愛する一人ひとりは、神の愛と真実の中にいます。そしてわたしたちの地上の生涯が終わるときの未来もそこにあります。
神だけが死を超える未来を示すことができます。わたしたちのために救い主となられたイエス キリストだけが、復活と永遠の命を与えることができます。
わたしたちは神の国で愛する者たち、すべての聖徒たちに会うのです。救いの喜びに満たされて主の食卓を共に囲みます。教会はイエスが弟子たちと守られた最後の晩餐を記念して聖晩餐というパンとぶどう酒を分かち合う儀式を行います。これは過去の出来事を記念するだけでなく、救いの完成する日に神の国で祝われる主の食卓を指し示します。そこにおいてわたしたちは、愛する者たち、代々の聖徒たちと喜びの食卓を囲みます。神に命を与えられたこと、愛する者と共に生きる恵みを与えられたこと、共に救われ神の国に導かれたことを喜ぶ主の食卓に共に与ります。わたしたちは神の愛と真実によって、死でさえも奪い去ることのできない大いなる喜びへと導かれています。神の御前に立ち帰る者は、その喜びの中に愛する者を見出します。
預言者は、その幸いを語ります。「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」
わたしたちは今、主にある希望を持って、愛する者たちを思い見るのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは死によっても失われることのない救いを与えてくださいます。あなたの愛、あなたの真実に支えられて、わたしたちは愛する者たちを思い見ることができます。どうか愛する者たちが与った救いの恵みに、わたしたちも共に与り、あなたにある希望に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン