2019年6月16日(日) オープンチャーチ(特別伝道礼拝)
聖書:ローマの信徒への手紙5:6~11
きょうは、聖書における大切なテーマ「愛」と「赦し」について話しをさせていただきます。
聖書には、「愛」と「赦し」という言葉が何度も出てきます。しかし、それがどういう意味かと聞かれたなら、悩んでしまいます。
聖書が告げる「愛」とは「共に生きようと願う思い」です。「あなたと共に生きていきたい」という思いです。ですから「愛する」というのは、「共に生きるために、相手を大切にする」ということです。
「好き」というのは感情ですが、「愛」には意思があります。
例えば、募金のことを考えてみましょう。遠く離れた国で飢餓のために多くの人々が苦しんでいる。その人たちのことが好きかと聞かれても、顔も知らないし、言葉を交わしたこともないので分かりません。しかしその人たちが苦しんでいていいとは思わない。小さな事でも自分にできることがあれば、協力したいと思う。ここには愛があるのだと思います。
ところで、神はなぜ愛しなさいと言われるのでしょうか。
それは、人が、愛である神にかたどられて、愛する者・愛される者として造られているからです。「神は愛」(1ヨハネ 4:16)であり、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)と聖書は告げています。これは、わたしたちの根幹にある事柄です。だから人は、信仰のあるなしに関わらず皆愛さずにはいられないし、愛されることを求めているのです。
夫婦には夫婦の愛があります。親子には親子の愛があります。友達との間の愛もあれば、共に働く仲間との愛もあり、広くは郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、人類に対する愛があります。人は「愛」である「神にかたどられて」「愛する者」「愛される者」として命を与えられているのです。
しかし、罪が愛を妨げています。すべての人は、罪を抱えており、愛することができずに苦しんでいます。
聖書に、人が初めて罪を犯してしまう場面が出てきます。人が最初に犯した罪とは、食べることを禁じられていた木の実を食べてしまうことでした(創世記 2章)。その禁じられた木の実は「善悪の知識の木の実」でした。とんでもない悪いことをしたのではなく、食べるなと言われていた木の実を食べただけなのです。
ですが、善悪の知識の木の実を食べたことで、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識を持つことの何が悪いのかと思われるかもしれません。しかし、人は「自分の」善悪の知識を持つようになってしまったのです。
それは、神の御心とは違う善悪です。神の御心とは違う善悪を持つようになった人は、神から自由になって、自分の思うままに生きていきたいと思うようになりました。一々神にこうしなさい、こうしてはいけないと言われるのが煩わしくなりました。自分は善悪をちゃんと知っている、困ったときには呼ぶからその時助けてくれればいい、そんな困ったときにだけ助けてくれる都合のいい神、自分の願い事を聞いてくれる神を求めるようになりました。
さらに、善悪の知識が違ってしまったのは、神と人との間だけではありません。人と人との間も違ってしまいました。一人ひとりが自分の善悪の知識を持ってしまったのです。その結果、どうしたいのか、どうすべきなのかといったことが、違ってしまい、理解し合えない現実、対立し争う現実が生じてきました。
これは、個人から世界まで覆っています。夫婦であれ、親子であれ、善悪の知識が同じで考えや判断に違いがないなどということはありません。日本の政治がどうあるべきか、世界の平和のためにどうしたらいいのか、皆意見が違います。自分の善悪を通すために、様々な力を使うようになりました。暴力から経済的圧力、社会的地位による圧力など様々な力を使うようになりました。それが時には殺人や戦争という悲劇を引き起こしてしまうことになってしまったのです。
罪は、愛が求める共に生きる関係、絆を破壊します。
そこから新たに生きていくために必要なのが「赦し」です。赦しがなければ、関係は壊れていくばかりです。
赦すことが目指しているのは、新たに共に生きること、和解です。赦しは、新たに生き始めるためのものなのです。重荷となり、わたしを苦しめる過去から自由になって、新しく生きるためのものです。
神が、愛すること、赦すことをお命じになるのは、生きることに喜びと希望が伴うためなのです。ですから、愛と赦しは、生きることを支えるなくてはならぬものなのです。
しかし、大きな問題が残っています。わたしは愛せないし、赦せないのです。そして、おそらくこれは、わたし一人の問題ではなく、多くの人に関わる問題ではないかと思います。
神は、罪ゆえに愛せない悲しみ、赦せない苦しみからわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださいました。聖書は告げます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)
罪によって壊れ傷ついている関係を回復し、愛によって関係を結び直すためにイエス キリストは世に来られました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださいました。そして、わたしたちが神の愛を受けて生きられるように「罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしに」なったのです。(1ヨハネ 4:10)「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ 1:14)
きょうの聖書の言葉をもう一度お聞きください。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ 5:6~10)
実に神の方が、わたしたちとの関係を大切に思っていてくださったのです。わたしたちが不信心で、罪人で、敵であったときに、神はわたしたちと和解し、共に生きようとしてくださっていたのです。このためにまさしく命を懸けてくださいました。神はわたしたちと和解し、関係を新たに築き、共に生きようとしてくださっているのです。神はわたしたちを愛するが故にひとり子を遣わしてくださいました。
ですから、わたしたちはイエス キリストを知るとき、安心して神の愛を受けられるのです。イエス キリストは、自分を裏切る者を弟子として受け入れてくださる方です。自分を殺そうとしている者たちに神の国の奥義を語られるお方です。十字架の上でまで、自分を嘲る者たちを執り成すお方です。この方がわたしたちを知っていてくださるのです。この方が、わたしは救われないのではないか、という不安から救い出してくださいます。わたしたちはイエス キリストによって、神の愛を知り、赦しを知って、新しく生きることができるのです。親の愛に包まれて生きる子どものように、神の子とされて、神の愛と赦しを受けて生きていけるのです。
神はひとり子イエス キリストによって、わたしたちとの確かな関係を築いてくださいました。例えて言うなら、神とわたしたちとの関係は十字架の縦の棒です。天と地を結ぶ縦の関係です。それに対して人と人との関係は十字架の横の棒です。そして、神との縦の関係が定まると、それに基づいて隣り人との横の関係も定まります。イエス キリストの十字架はまさに神との縦の関係、隣り人との横の関係を新しくするためのものでした。その二つの関係が命と愛に満ちたものとなるためにキリストは十字架を負われたのです。
愛すること、赦すことは、愛される経験、赦される経験をしていく中で覚えていく事柄です。愛された経験の少ない人は、どうしたら愛せるのか分かりません。赦された経験が少ない人は、赦されることの大切さに気づけません。人が生まれてから大人になるまでに長い時間がかかります。それには、神の深いご配慮があるのだろうと思います。自分の力で生きていくことはできず、多くの愛を注がれ、与えられ、たくさん赦されて人は育つのです。
そしてわたしたちは生涯、神の大きな愛と赦しの中で、常に新しく、愛されて生きる喜び、赦されて生きる慰めを味わい、知っていくのです。これはもう十分経験した、もう必要ないという事柄ではなく、生きている限りいつも必要なことなのです。
神は、わたしたち一人ひとりが愛せるように、赦せるように、尽きることのない愛を注ぎ、限りない赦しを与えていてくださるのです。
神が、わたしの愛となり、赦しとなってくださいました。
今や、家庭から世界に至るまで、個人個人から国家間に至るまで、あらゆる関係がきしみ悲鳴を上げています。関係が新しくされることをすべての人が必要としています。
神は、人が人として生きるために欠かせない、愛されて生きる関係、赦されて生きる関係をキリストによって与えてくださっています。
この愛と赦しに満ちた関係の中で新しく生き始めることへと、神は今招いてくださいます。是非、この神の恵みを受けて、愛の喜び、赦しの慰めによる新しい人生を歩み始めて頂きたいと願います。
ハレルヤ
父なる神様
あなたは、わたしたちと共に生きることを願い、愛をもってわたしたちを創り、罪に苦しむわたしたちに赦しと更なる愛を注いでいてくださいます。
どうか今、あなたの愛と赦しの中で、わたしたちを新しく生きる者とし、わたしたちに与えられている一つひとつの関係を祝福してください。あなたにあって、共にある日々を、喜ぶことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙5:6~11
きょうは、聖書における大切なテーマ「愛」と「赦し」について話しをさせていただきます。
聖書には、「愛」と「赦し」という言葉が何度も出てきます。しかし、それがどういう意味かと聞かれたなら、悩んでしまいます。
聖書が告げる「愛」とは「共に生きようと願う思い」です。「あなたと共に生きていきたい」という思いです。ですから「愛する」というのは、「共に生きるために、相手を大切にする」ということです。
「好き」というのは感情ですが、「愛」には意思があります。
例えば、募金のことを考えてみましょう。遠く離れた国で飢餓のために多くの人々が苦しんでいる。その人たちのことが好きかと聞かれても、顔も知らないし、言葉を交わしたこともないので分かりません。しかしその人たちが苦しんでいていいとは思わない。小さな事でも自分にできることがあれば、協力したいと思う。ここには愛があるのだと思います。
ところで、神はなぜ愛しなさいと言われるのでしょうか。
それは、人が、愛である神にかたどられて、愛する者・愛される者として造られているからです。「神は愛」(1ヨハネ 4:16)であり、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)と聖書は告げています。これは、わたしたちの根幹にある事柄です。だから人は、信仰のあるなしに関わらず皆愛さずにはいられないし、愛されることを求めているのです。
夫婦には夫婦の愛があります。親子には親子の愛があります。友達との間の愛もあれば、共に働く仲間との愛もあり、広くは郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、人類に対する愛があります。人は「愛」である「神にかたどられて」「愛する者」「愛される者」として命を与えられているのです。
しかし、罪が愛を妨げています。すべての人は、罪を抱えており、愛することができずに苦しんでいます。
聖書に、人が初めて罪を犯してしまう場面が出てきます。人が最初に犯した罪とは、食べることを禁じられていた木の実を食べてしまうことでした(創世記 2章)。その禁じられた木の実は「善悪の知識の木の実」でした。とんでもない悪いことをしたのではなく、食べるなと言われていた木の実を食べただけなのです。
ですが、善悪の知識の木の実を食べたことで、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識を持つことの何が悪いのかと思われるかもしれません。しかし、人は「自分の」善悪の知識を持つようになってしまったのです。
それは、神の御心とは違う善悪です。神の御心とは違う善悪を持つようになった人は、神から自由になって、自分の思うままに生きていきたいと思うようになりました。一々神にこうしなさい、こうしてはいけないと言われるのが煩わしくなりました。自分は善悪をちゃんと知っている、困ったときには呼ぶからその時助けてくれればいい、そんな困ったときにだけ助けてくれる都合のいい神、自分の願い事を聞いてくれる神を求めるようになりました。
さらに、善悪の知識が違ってしまったのは、神と人との間だけではありません。人と人との間も違ってしまいました。一人ひとりが自分の善悪の知識を持ってしまったのです。その結果、どうしたいのか、どうすべきなのかといったことが、違ってしまい、理解し合えない現実、対立し争う現実が生じてきました。
これは、個人から世界まで覆っています。夫婦であれ、親子であれ、善悪の知識が同じで考えや判断に違いがないなどということはありません。日本の政治がどうあるべきか、世界の平和のためにどうしたらいいのか、皆意見が違います。自分の善悪を通すために、様々な力を使うようになりました。暴力から経済的圧力、社会的地位による圧力など様々な力を使うようになりました。それが時には殺人や戦争という悲劇を引き起こしてしまうことになってしまったのです。
罪は、愛が求める共に生きる関係、絆を破壊します。
そこから新たに生きていくために必要なのが「赦し」です。赦しがなければ、関係は壊れていくばかりです。
赦すことが目指しているのは、新たに共に生きること、和解です。赦しは、新たに生き始めるためのものなのです。重荷となり、わたしを苦しめる過去から自由になって、新しく生きるためのものです。
神が、愛すること、赦すことをお命じになるのは、生きることに喜びと希望が伴うためなのです。ですから、愛と赦しは、生きることを支えるなくてはならぬものなのです。
しかし、大きな問題が残っています。わたしは愛せないし、赦せないのです。そして、おそらくこれは、わたし一人の問題ではなく、多くの人に関わる問題ではないかと思います。
神は、罪ゆえに愛せない悲しみ、赦せない苦しみからわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださいました。聖書は告げます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)
罪によって壊れ傷ついている関係を回復し、愛によって関係を結び直すためにイエス キリストは世に来られました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださいました。そして、わたしたちが神の愛を受けて生きられるように「罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしに」なったのです。(1ヨハネ 4:10)「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ 1:14)
きょうの聖書の言葉をもう一度お聞きください。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ 5:6~10)
実に神の方が、わたしたちとの関係を大切に思っていてくださったのです。わたしたちが不信心で、罪人で、敵であったときに、神はわたしたちと和解し、共に生きようとしてくださっていたのです。このためにまさしく命を懸けてくださいました。神はわたしたちと和解し、関係を新たに築き、共に生きようとしてくださっているのです。神はわたしたちを愛するが故にひとり子を遣わしてくださいました。
ですから、わたしたちはイエス キリストを知るとき、安心して神の愛を受けられるのです。イエス キリストは、自分を裏切る者を弟子として受け入れてくださる方です。自分を殺そうとしている者たちに神の国の奥義を語られるお方です。十字架の上でまで、自分を嘲る者たちを執り成すお方です。この方がわたしたちを知っていてくださるのです。この方が、わたしは救われないのではないか、という不安から救い出してくださいます。わたしたちはイエス キリストによって、神の愛を知り、赦しを知って、新しく生きることができるのです。親の愛に包まれて生きる子どものように、神の子とされて、神の愛と赦しを受けて生きていけるのです。
神はひとり子イエス キリストによって、わたしたちとの確かな関係を築いてくださいました。例えて言うなら、神とわたしたちとの関係は十字架の縦の棒です。天と地を結ぶ縦の関係です。それに対して人と人との関係は十字架の横の棒です。そして、神との縦の関係が定まると、それに基づいて隣り人との横の関係も定まります。イエス キリストの十字架はまさに神との縦の関係、隣り人との横の関係を新しくするためのものでした。その二つの関係が命と愛に満ちたものとなるためにキリストは十字架を負われたのです。
愛すること、赦すことは、愛される経験、赦される経験をしていく中で覚えていく事柄です。愛された経験の少ない人は、どうしたら愛せるのか分かりません。赦された経験が少ない人は、赦されることの大切さに気づけません。人が生まれてから大人になるまでに長い時間がかかります。それには、神の深いご配慮があるのだろうと思います。自分の力で生きていくことはできず、多くの愛を注がれ、与えられ、たくさん赦されて人は育つのです。
そしてわたしたちは生涯、神の大きな愛と赦しの中で、常に新しく、愛されて生きる喜び、赦されて生きる慰めを味わい、知っていくのです。これはもう十分経験した、もう必要ないという事柄ではなく、生きている限りいつも必要なことなのです。
神は、わたしたち一人ひとりが愛せるように、赦せるように、尽きることのない愛を注ぎ、限りない赦しを与えていてくださるのです。
神が、わたしの愛となり、赦しとなってくださいました。
今や、家庭から世界に至るまで、個人個人から国家間に至るまで、あらゆる関係がきしみ悲鳴を上げています。関係が新しくされることをすべての人が必要としています。
神は、人が人として生きるために欠かせない、愛されて生きる関係、赦されて生きる関係をキリストによって与えてくださっています。
この愛と赦しに満ちた関係の中で新しく生き始めることへと、神は今招いてくださいます。是非、この神の恵みを受けて、愛の喜び、赦しの慰めによる新しい人生を歩み始めて頂きたいと願います。
ハレルヤ
父なる神様
あなたは、わたしたちと共に生きることを願い、愛をもってわたしたちを創り、罪に苦しむわたしたちに赦しと更なる愛を注いでいてくださいます。
どうか今、あなたの愛と赦しの中で、わたしたちを新しく生きる者とし、わたしたちに与えられている一つひとつの関係を祝福してください。あなたにあって、共にある日々を、喜ぶことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。アーメン