聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:18

2019-05-20 06:46:19 | 聖書
2019年5月19日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:18(新共同訳)


 この手紙の著者であるパウロは、聖霊によって救いに入れられた者は、神の子どもとされ、神の相続人、キリストと共同の相続人となって神から祝福を相続すると語ります。

 ただその時に少し引っかかることを語ります。パウロは「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(8:17)と語ります。

 わたしたちは普通、神に苦しみを求めません。
 確かに高いレベル、高い境地、あるいは勝利を目指して、自ら厳しい修練を課すことがあります。悟りを求める修行者、また音楽などの芸術、武術やスポーツなど道を究めようと志す人などはそうでしょう。パウロも別の手紙で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ 3:10,11)と言っています。

 ではわたしたちは、苦難を求めるべきなのでしょうか。
 そうではありません。確かに古くから今に至るまで、修道士など厳しい環境の中で自らを律し、罪と闘い、正しい道を歩もうと修練を続ける人たちがいます。しかし聖書は、修練や研鑽の先に救いがあるとは言っていません。
 わたしたちは、自分で滝に打たれるなどの修行をするのではなく、罪の世で生きていく中で直面する試練、誘惑を通してすべての人が訓練されていくのです。パウロも救いのために自分から進んで断食の行をしたとか言うのではありません。福音を宣べ伝えていく中で、苦しみに直面するのです。キリストの十字架と復活を思いつつ、救いの御業に仕えた先に備えられている復活の栄光を望み見ているのです。
 ですから、わたしたちが求めるべきは、苦難ではなく信仰です。わたしたちに必要なのは、困難の中でも神を信頼する信仰、神に依り頼む信仰、神と共に生きる信仰です。

 ただわたしたちは、罪の世にあって生きることに伴う苦しみについて知っている必要があります。罪の世で生きるときに必然的に伴う苦しみについて正しく知り、適切に対応することは必要です。

 聖書は苦しみの根源が、罪にあると語ります。罪については創世記3章で語られています。罪の根本は、神が食べてはいけないと命じられた善悪の知識の木の実を食べてしまったことです。人類最初の罪ですから、どんな大事かと思いきや拍子抜けするような事柄です。しかしこの罪の結果、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識の木の実を食べて、善悪の知識を持ったのです。
 ただ問題のは、この善悪は、神の御心とは違う自分の善悪でした。そして他の人とも違う自分の善悪でした。
 これによって、人は神の御心に従えなくなりました。神の御心が分からなくなりました。神の御心よりも、自分の感じる善悪が基準、中心になってしまいました。神との間だけでなく、隣人との間でも分かり合えないことが生じるようになりました。キリスト者が集まれば信仰が一緒だから、価値観が一緒、考えが一緒になるかと言えば、そんなことはありません。
 そして、罪により、自分自身の善悪を持つようになったために、一緒に生きる隣人たちとも善悪が衝突するようになりました。いいこと悪いことが夫婦でも違います。親子でも違います。ご近所でも職場でも違います。この罪の世では、個人から国家間に至るまで善悪が衝突しています。そこで何が起こるかといいますと、自分の善を通すために争い支配するということが起こります。物理的な暴力だけでなく、経済的な圧力、社会的な地位による圧力など様々な力によって争いが生じます。迫害もここから生じます。罪は自分の思いを通すために争いを生み出し、支配を生み出すのです。
 さらには、自分の善悪に従い、命の創造主である神に背を向けて生きることから、命に背を向け、死に向かって生きるようになってしまいました。

 こうして罪は、神と共に生きること、隣人と共に生きることを破壊します。支配を生み出します。そして、命すなわち生きることを破壊するのです。これが罪がもたらす苦しみです。

 この罪から救い出すためにイエス キリストは、人となってこの世に来られました。聖書は告げます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ 1:21)。そして、わたしたちの罪を贖うために、ご自身は罪がないにも関わらず、十字架を負われ、わたしたちに代わって、わたしたちのために裁きを受けてくださいました。

 そのイエスが言われます。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)。
 イエス キリストは、十字架によって、復活に至り、神の国と永遠の命をわたしたちに与えてくださいます。イエスは自分の後に続き、神の国と永遠の命に至る道を歩むように招いておられます。

 このイエスの招きをわたしたちは知っています。けれどわたしたちは罪がもたらす苦しみの中で迷い、揺らぎます。しかしその迷い、揺らぎの中にもイエスは共にいてくださいます。イエスご自身、十字架の前に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 26:39)と祈られました。そして「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6:13)と祈るように教えてくださいました。

 祈りは、神と共に歩むための恵みの賜物です。わたしたちはどこにいても、どんな状況でも神に呼びかけ、神の御前に進み出ることが出来ます。だからわたしたちは祈りつつ、神との交わりの中で歩みます。イエス キリストを仰いで、神はそのひとり子をお与えになったほどに、わたしを愛していてくださっている。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願っていてくださる。その神の愛に支えられて歩むのです。そして、約束されている救いを望み見て、歩んでいくのです。

 聖書は「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言います。
 聖書において「栄光」とは、神が救いの神であることが現れることを言います。ですから「将来わたしたちに現されるはずの栄光」というのは、約束されていた救いが実現することを指します。わたしたちが神の子とされ、神の国に入れられ、永遠の命が与えられること、罪から完全に解放され、神の愛に生きることが実現することを表しています。そこでは、神と共に生きることを喜び、神の許で共に生きることを喜び、互いに仕え合い、神に命を与えられたこと、神にかたどって命を与えられたこと、生きていることを喜ぶのです。

 これはわたしたちの想像を超える恵みです。そんな恵みが本当に与えられるのだろうか、と疑いたくなるほどの恵みです。パウロはこれを「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と表現しています。苦しみと栄光を比較しているのではなく、苦しみの中から想像してみても、その想像をはるかに超えていく大きな恵みを言い表しているのです。

 わたしたちは生きていくのには希望が必要です。どんな時にも揺るがない神からの希望が必要です。この手紙がしたためられ、教会で読まれるようになってから今まで、迫害もありました。戦争もありました。病気が蔓延したこともありました。神の言葉が空しく思えるような出来事が数え切れないほどありました。けれど、どんなことが起こり、どんな状況になっても、神の約束は変わりません。神の信実が、神の信実であるイエス キリストの救いの御業が、この言葉を支え続けています。

 わたしたちが罪の世を生きていくには、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言うことのできる神の希望が必要なのです。そしてその希望を神はわたしたちに与えてくださいます。神は、わたしたちが救いの恵みの中で喜び生きることを願っておられます。だからわたしたちは、代々の聖徒たちと共に、神の信実であるイエス キリスト、神から来る希望に支えられて、罪の苦しみの中で「主よ、助けてください」と祈り求めながら、主と共に救いの道を歩んでいくのです。

ハレルヤ

父なる神さま
 わたしたちが信仰によって、あなたが用意していてくださる栄光を仰ぎ見ることができますように。礼拝を通して、あなたの御国を知ることができますように。あなたの信実であるイエス キリストにより与えられている希望によって支えられて、与えられている一日一日をあなたと共に歩めますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン