聖書の言葉を聴きながら

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詩編 146:6b〜10

2021-01-14 17:46:09 | 聖書
2021年1月13日(水) 祈り会
聖書:詩編 146:6b〜10(新共同訳)


 きょうは146篇の後半、6b節からです。
 便宜上、1節の中に複数の文章があるとき、最初の文を a 、次の文を b 、3番目の文を c として区別します。きょうは6節の2番目の文章からとなります。

 6b節「とこしえにまことを守られる主は」。この言葉は、146篇の前半と後半をつなぐ、この詩篇の核となる言葉です。なぜ神を助けと頼み、神を待ち望む人は幸いなのか(5節)。それは神が「とこしえにまことを守られる」お方だからです。わたしたちを見捨てることなく、見放すことのない真実なお方だからです(ヨシュア 1:5)。

 146篇の後半は、その神の真実がどのように現されるかを数え上げていきます。6bから9節まで「主」を主語とした文章が積み重ねられます。
 主は「虐げられている人のために裁き」をしてくださり「飢えている人にパンを与えて」くださいます。
 主は「捕らわれ人を解き放ち」、主は「見えない人の目を開き」、主は「うずくまっている人を起こされ」ます。主は「従う人を愛し」、主は「寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まして」くださいます。そして主は「逆らう者の道をくつがえされ」るのです。

 おそらく詩人は、バビロン捕囚からの解放をよく知る世代なのだろうと思います。神は、義のためにご自身の民をも裁き、国を滅ぼし、そのために異邦人をさえお用いになりました。
 義というのは、神との正しい関係を表します。神の憐れみ・慈しみによって「神さまは赦してくださるから何をしたって大丈夫」と神を侮るのではなく、神に感謝し、神を喜び、神に従って共に生きることを、義と呼びます。
 詩人は、預言者が立てられ、神の言葉が語られる。神の言葉を侮る民が裁かれ、国が滅びる。異邦人が神の裁きに用いられる。神の民がバビロン捕囚に連れて行かれる。50年の後、捕囚から解放される。この一連の出来事をよく知っているのだろうと思います。
 そして詩人は、この一連の出来事を通して、神が与えてくださっていた、神と共にそして隣人と共にという「共に生きる」恵みを再確認したのでしょう。詩人は、国が滅び、神の言葉ではなく、真(まこと)の神を知らない異邦人に支配されることを通して、神が与えてくださっていた恵みに気づいたのです。そして「神は何という大きな恵みを与えてくださっていたのか」という驚きと感謝に満たされたのです。
 聖書を見ていくと、神は奇跡によって癒されたり、助けたりもなさいますが、戒めにより、助けを必要とする人たちも共に生きることができる共同体をお造りになります。神の国という言葉がありますが、国という単語は治める・支配するという動詞から派生した言葉です。神が治めておられる所、つまり神の言葉に従い、神と共に生きる所に神の国は現れます。神の民は、神に従うことを通して神の国に生き、神を証しするのです。

 聖書の戒めは、罪の世で神と共に生きるために与えられたものです。
 申命記 16:11にはこうあります。「あなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。」
 さらに申命記 24:17~22ではこう命じられています。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」

 神の救いの御業に与った者は、神の救いの御業に倣い、憐れみを注ぎ、虐げられている人・飢えている人と共に歩むのです。今、引用した申命記の戒めが、出エジプトと結び合わされていることに心を留める必要があります。神の民の歩むべき指針の根本には、神の救いに与ったから、神の救いに与っているから、という神の救いの御業との深い関わりがあります。
 社会的弱者に対する助けや公平は、聖書の記述よりもさらに古いバビロニアの法典にも見られます(月本昭男『詩編の思想と信仰 VI』pp.273~274)。おそらくそれらの影響があると思われますが、聖書の記述の大事な点は、神の救いの御業とのつながり、神の慈しみ・憐れみという視点から語られていることです。神とのつながりの故に戒めに従うことが求められるのです。

 神の救いの御業に伴う慈しみは、今日の人権に基づく法律に勝るとも劣りません。わたしが最も驚いた戒めの一つが、申命記 23:25~26にあります。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」わたしの祖父も百姓をしていて、米や野菜を作っていました。わたしも耕運機を動かして手伝いをしましたが、こんなことは考えられません。現代でもあり得ない戒めが、神によって与えられ、神の言葉により共に生きる共同体が形づくられていたのです。

 詩人は、これら神の救いの御業は、主が「とこしえにまことを守られる」お方であるからだ、と理解しています。

 神の民は、神の機嫌が悪くならないように神の顔色をうかがいビクビクしながら従うのではありません。神のとこしえの真実に守られ支えられ、恵みに与って、喜び感謝しつつ、安心して従うのです。
 だから詩人は、自分自身が受け、神の民も受けてきた救いの恵みを思い起こし、とこしえにまことを守られる主を仰ぎ見ながら告白します。1~2節「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。/命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。」
 そして主にある兄弟姉妹に呼びかけます。10節「主はとこしえに王。/シオンよ、あなたの神は代々に王。/ハレルヤ。」
 ハレルヤは「ヤ(主、神)をハレル(讃美)せよ」という意味です。

 神が王として治める神の国にこそ、信じることのできるとこしえのまこと・真実があります。罪の世で苦しむ者を見捨てることも見放すこともなさらない慈しみがあります。わたしたちが共に生きることのできる義があります。
 今、詩人と共に、わたしたちに注がれている救いの恵みを思い起こして頂きたいのです。そして詩人と共に、主を誉め讃えつつ歩んでいきましょう。主にある喜びに共に与って、この主が開かれた新しい年を歩んでいきたいと思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人があなたを知り、あなたの言葉と業の意味を知って驚きと喜びに満たされたように、わたしたちも、礼拝によりあなたを知り、御言葉を通して御旨を知り、祈りを知り、讃美を知ることができますように。どうか恵みから恵みへとあなたと共に歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン