2020年8月12日(水) 祈り会
聖書:詩編 137:1〜9(新共同訳)
詩人はバビロンの流れのほとりに座り、涙を流します。
彼は、バビロン捕囚によりエルサレムからバビロンに連れてこられました。
彼の故国 南ユダは、新バビロニアによって滅ぼされました。その際、バビロニアの王ネブカドネツァルは、多くの者を捕虜としてバビロニアの首都バビロンに連れて行きました。第1回が紀元前 597年、列王記下 24:14にはこう記されています。「彼(ネブカドネツァル)はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。」
そして第2回は10年後、紀元前 587年です。列王記下 25:11「民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。」ここから50年バビロン捕囚は続きます。
詩人はおそらく神殿で讃美の奉仕をする詠唱者だったのだろうと思います。列王記や歴代誌には、神殿に関する記述の中に詠唱者という言葉が出てきます。
彼にとっては、讃美の奉仕こそ神から与えられた務めでした。彼は捕虜として連れて行かれるのに、竪琴を手放さずに持っていきました。エルサレムからバビロンまでの約2,000kmの旅路において、大切に抱えて自分にとってなくてならぬものとして持っていきました。
バビロンにはユーフラテス川から水を引くための運河が張り巡らされています。1節の「流れ」は複数形なので、この運河を指しているのでしょう。
運河の川底には時間とともに土砂が溜まっていきます。洪水の危険を避けるためには、底をさらうことが必要です。捕囚の民はその労働者にあてがわれたと思われます。そしてその労働の監督をバビロニア人がします。そして休憩時間に命じるのです。3節「わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから」。
詩人は神殿の讃美奉仕者、詠唱者です。彼が歌うのは讃美の歌、詩編です。彼は聴いている同胞イスラエルのために神を讃美します。
バビロニア人にはヘブライ語は分かりません。彼は詩人に歌詞を説明させます。ある旧約学者は、3節の「歌」の原文は「歌の言葉」を表しており、「歌をうたえ」を「歌詞を求めた」と訳しています(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。そして歌詞の説明を聞いたバビロニア人は言ったのでしょう。「己が民を救うこともできない神、その神を信じているお前たちは、何と哀れなことであろうか。」
詩人は思います。4節「どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。」
そして彼は2節 竪琴を運河のほとりの柳の木々に掛けたのです。彼は、エルサレムから大切に持ち続けてきた竪琴を手放したのです。主への讃美を主のあざけりに使われるなど彼には耐えられませんでした。
そして彼は涙しながら祈りつぶやきます。5~6節「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。/わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。」
エルサレムという単語は女性名詞です。ヘブライ語の名詞は男性名詞と女性名詞があります。詩人は、恋人に向かって訴えるように語ります。「わたしがあなたを忘れてしまうようなことがあるなら、竪琴をつま弾くこの右手は動かなくなってもいい。もしも、あなたを思わぬ時、あなたを最大の喜びとしないような時が来るなら、わたしの舌が上顎に張り付いて、讃美できなくなってしまえ。」
彼は悔しさ・悲しさで自分が埋め尽くされてしまう中で、神に向かって訴えます。
7節「主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。』」
エドムは、ヤコブの兄 エサウの子孫です。イスラエルと近しい民です。けれど、隣接する国ですから、領土を巡って絶えず争いがあり、良い関係ではありませんでした。
「エルサレムのあの日」というのは、新バビロニアによってエルサレムが陥落した日のことです。エドムはその時、バビロニア軍の攻撃に加担し、ユダの領地を侵略しました。
それについてオバデヤ書が記しています。オバデヤ 10~11「兄弟ヤコブに不法を行ったので/お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。お前が離れて立っていたあの日/異国の者がエルサレムの財宝を奪い/他国の者がその門に入り/エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に/お前も彼らの一人のようであった。」
そしてエドムは積年の思いを吐き出すように叫びます。「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」何一つ残すことなくすべてを奪い尽くそうというのです。
詩人はこの場面を目撃し、その声を聞いたのでしょう。バビロニア人のあざけりを受けて、詩人は記憶が甦り、それが自分の中を嵐のように駆け巡ります。
詩人は、主がエドムのしたことを忘れず、報いてくださることを願います。
8~9節「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
娘バビロン、エルサレムを恋人のように擬人化し語りかけたように、バビロンをも擬人化して語りかけます。
詩人は、バビロニアがエルサレムにしたのと同じことをバビロンに仕返しする者を幸いだと讃えます。これは詩人がバビロニアに伝わる「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラピ法典を知ったのでしょう。ハンムラピは新バビロニアではなく、その前に存在したバビロニアの初代の王です。詩人は、バビロニアの有名な法典のように、バビロンもエルサレムと同じようにされればいい、と願っています。なぜ願うのか。それは自分たちには報復する力などなく、辱めに耐えるしかなかったからです。
8節の「いかに幸いなことか」は、9節の「お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」にも掛かっていきます。あまりにも強烈な言葉で、詩篇がこんな言葉で終わっていいのかとすら思います。
幼子をたたきつけるのは、当時の戦争において普通に行われていました。自分たちに刃向かう後の世代をなくしてしまうためです。これは聖書の他の箇所にも出てきます。預言者エリシャは後にアラムの王になるハザエルに向かってこう語ります。列王記下 8:12「あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」
罪の世では、余りに理不尽な状況、自分ではどうすることもできない状況、とても受けとめることのできない事柄というものがあります。そんなとき、神の民は、神が裁きを成してくださることを祈り願いました。
預言者エレミヤも祈ります。エレミヤ 15:15「主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。」20:12「万軍の主よ・・わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。」
自分の手に余ることは神に委ねるのです。神は言われます。申命記 32:35「わたしが報復し、報いをする」。
詩編には、神が「報復の神」であることを期待するものもあります。詩編 94:1~2「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。」
詩編を読み始めるときに申し上げましたが、詩編は神が語りかけられた言葉ではなく、民の祈りの言葉です。神がその祈りを受け入れ、ご自身の言葉、神の言葉としてくださいました。それはこの137篇も含めて神が「こう祈りなさい。こう祈っていい。わたしが聞く」と言ってくださっているのだと思います。
9節の言葉を聞いて、皆さんが思い浮かべるのは、新約の愛と赦しの言葉かもしれません。マタイ 5:43, 44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ローマ 12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
主が求めておられるのは、愛と赦しです。
しかし、わたしたちは罪を抱えており、愛せないのです、赦せないのです。罪の世にあって、罪を抱えて、怒りや悲しみに苦しむのです。わたしたちには、神の裁きが必要です。その時神は、詩編を通して語りかけられます。「信仰深く装わなくていい。あなたをわたしに委ねなさい。怒りも悲しみもわたしに委ねなさい」と語りかけてくださいます。わたしたちは信仰を演じる必要はないのです。神はわたしたちを知っておられます。わたしたちの欠けも弱さも知っておられます。そしてわたしたちを受けとめてくださいます。だから神は、独り子イエス キリストをお遣わしくださったのです。そして神の国に入るその日まで、わたしたちを整え導いてくださいます。
現代でも、戦争などにおいて、子どもたちの命が奪われ、弱い者が辱められる状況はなくなっていません。新しい武器・爆弾が開発され、古よりもはるかに悲惨な状況を生み出しています。
わたしたちは、神の国が到来するその日まで、この137篇も神が与えてくださった神の言葉として祈ります。今もなお怒り・悲しみに苦しむ人々、涙せずにはいられない人々と共に、神に祈っていくのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この世では、罪が猛威を振るい、涙せずにはいられない苦しみや悲しみ、理不尽を押しつけてきます。この世にあってわたしたちは無力に立ちつくします。わたしたちはあなたが裁かれるのを待ち望みます。どうか罪を裁き、あなたの義を立て、御国を来たらせてください。わたしたちの怒りや悲しみ、そして絶望を拭い去ってください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 137:1〜9(新共同訳)
詩人はバビロンの流れのほとりに座り、涙を流します。
彼は、バビロン捕囚によりエルサレムからバビロンに連れてこられました。
彼の故国 南ユダは、新バビロニアによって滅ぼされました。その際、バビロニアの王ネブカドネツァルは、多くの者を捕虜としてバビロニアの首都バビロンに連れて行きました。第1回が紀元前 597年、列王記下 24:14にはこう記されています。「彼(ネブカドネツァル)はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。」
そして第2回は10年後、紀元前 587年です。列王記下 25:11「民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。」ここから50年バビロン捕囚は続きます。
詩人はおそらく神殿で讃美の奉仕をする詠唱者だったのだろうと思います。列王記や歴代誌には、神殿に関する記述の中に詠唱者という言葉が出てきます。
彼にとっては、讃美の奉仕こそ神から与えられた務めでした。彼は捕虜として連れて行かれるのに、竪琴を手放さずに持っていきました。エルサレムからバビロンまでの約2,000kmの旅路において、大切に抱えて自分にとってなくてならぬものとして持っていきました。
バビロンにはユーフラテス川から水を引くための運河が張り巡らされています。1節の「流れ」は複数形なので、この運河を指しているのでしょう。
運河の川底には時間とともに土砂が溜まっていきます。洪水の危険を避けるためには、底をさらうことが必要です。捕囚の民はその労働者にあてがわれたと思われます。そしてその労働の監督をバビロニア人がします。そして休憩時間に命じるのです。3節「わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから」。
詩人は神殿の讃美奉仕者、詠唱者です。彼が歌うのは讃美の歌、詩編です。彼は聴いている同胞イスラエルのために神を讃美します。
バビロニア人にはヘブライ語は分かりません。彼は詩人に歌詞を説明させます。ある旧約学者は、3節の「歌」の原文は「歌の言葉」を表しており、「歌をうたえ」を「歌詞を求めた」と訳しています(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。そして歌詞の説明を聞いたバビロニア人は言ったのでしょう。「己が民を救うこともできない神、その神を信じているお前たちは、何と哀れなことであろうか。」
詩人は思います。4節「どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。」
そして彼は2節 竪琴を運河のほとりの柳の木々に掛けたのです。彼は、エルサレムから大切に持ち続けてきた竪琴を手放したのです。主への讃美を主のあざけりに使われるなど彼には耐えられませんでした。
そして彼は涙しながら祈りつぶやきます。5~6節「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。/わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。」
エルサレムという単語は女性名詞です。ヘブライ語の名詞は男性名詞と女性名詞があります。詩人は、恋人に向かって訴えるように語ります。「わたしがあなたを忘れてしまうようなことがあるなら、竪琴をつま弾くこの右手は動かなくなってもいい。もしも、あなたを思わぬ時、あなたを最大の喜びとしないような時が来るなら、わたしの舌が上顎に張り付いて、讃美できなくなってしまえ。」
彼は悔しさ・悲しさで自分が埋め尽くされてしまう中で、神に向かって訴えます。
7節「主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。』」
エドムは、ヤコブの兄 エサウの子孫です。イスラエルと近しい民です。けれど、隣接する国ですから、領土を巡って絶えず争いがあり、良い関係ではありませんでした。
「エルサレムのあの日」というのは、新バビロニアによってエルサレムが陥落した日のことです。エドムはその時、バビロニア軍の攻撃に加担し、ユダの領地を侵略しました。
それについてオバデヤ書が記しています。オバデヤ 10~11「兄弟ヤコブに不法を行ったので/お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。お前が離れて立っていたあの日/異国の者がエルサレムの財宝を奪い/他国の者がその門に入り/エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に/お前も彼らの一人のようであった。」
そしてエドムは積年の思いを吐き出すように叫びます。「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」何一つ残すことなくすべてを奪い尽くそうというのです。
詩人はこの場面を目撃し、その声を聞いたのでしょう。バビロニア人のあざけりを受けて、詩人は記憶が甦り、それが自分の中を嵐のように駆け巡ります。
詩人は、主がエドムのしたことを忘れず、報いてくださることを願います。
8~9節「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
娘バビロン、エルサレムを恋人のように擬人化し語りかけたように、バビロンをも擬人化して語りかけます。
詩人は、バビロニアがエルサレムにしたのと同じことをバビロンに仕返しする者を幸いだと讃えます。これは詩人がバビロニアに伝わる「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラピ法典を知ったのでしょう。ハンムラピは新バビロニアではなく、その前に存在したバビロニアの初代の王です。詩人は、バビロニアの有名な法典のように、バビロンもエルサレムと同じようにされればいい、と願っています。なぜ願うのか。それは自分たちには報復する力などなく、辱めに耐えるしかなかったからです。
8節の「いかに幸いなことか」は、9節の「お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」にも掛かっていきます。あまりにも強烈な言葉で、詩篇がこんな言葉で終わっていいのかとすら思います。
幼子をたたきつけるのは、当時の戦争において普通に行われていました。自分たちに刃向かう後の世代をなくしてしまうためです。これは聖書の他の箇所にも出てきます。預言者エリシャは後にアラムの王になるハザエルに向かってこう語ります。列王記下 8:12「あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」
罪の世では、余りに理不尽な状況、自分ではどうすることもできない状況、とても受けとめることのできない事柄というものがあります。そんなとき、神の民は、神が裁きを成してくださることを祈り願いました。
預言者エレミヤも祈ります。エレミヤ 15:15「主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。」20:12「万軍の主よ・・わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。」
自分の手に余ることは神に委ねるのです。神は言われます。申命記 32:35「わたしが報復し、報いをする」。
詩編には、神が「報復の神」であることを期待するものもあります。詩編 94:1~2「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。」
詩編を読み始めるときに申し上げましたが、詩編は神が語りかけられた言葉ではなく、民の祈りの言葉です。神がその祈りを受け入れ、ご自身の言葉、神の言葉としてくださいました。それはこの137篇も含めて神が「こう祈りなさい。こう祈っていい。わたしが聞く」と言ってくださっているのだと思います。
9節の言葉を聞いて、皆さんが思い浮かべるのは、新約の愛と赦しの言葉かもしれません。マタイ 5:43, 44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ローマ 12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
主が求めておられるのは、愛と赦しです。
しかし、わたしたちは罪を抱えており、愛せないのです、赦せないのです。罪の世にあって、罪を抱えて、怒りや悲しみに苦しむのです。わたしたちには、神の裁きが必要です。その時神は、詩編を通して語りかけられます。「信仰深く装わなくていい。あなたをわたしに委ねなさい。怒りも悲しみもわたしに委ねなさい」と語りかけてくださいます。わたしたちは信仰を演じる必要はないのです。神はわたしたちを知っておられます。わたしたちの欠けも弱さも知っておられます。そしてわたしたちを受けとめてくださいます。だから神は、独り子イエス キリストをお遣わしくださったのです。そして神の国に入るその日まで、わたしたちを整え導いてくださいます。
現代でも、戦争などにおいて、子どもたちの命が奪われ、弱い者が辱められる状況はなくなっていません。新しい武器・爆弾が開発され、古よりもはるかに悲惨な状況を生み出しています。
わたしたちは、神の国が到来するその日まで、この137篇も神が与えてくださった神の言葉として祈ります。今もなお怒り・悲しみに苦しむ人々、涙せずにはいられない人々と共に、神に祈っていくのです。
ハレルヤ
父なる神さま
この世では、罪が猛威を振るい、涙せずにはいられない苦しみや悲しみ、理不尽を押しつけてきます。この世にあってわたしたちは無力に立ちつくします。わたしたちはあなたが裁かれるのを待ち望みます。どうか罪を裁き、あなたの義を立て、御国を来たらせてください。わたしたちの怒りや悲しみ、そして絶望を拭い去ってください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン