聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

はじめてのカテキズム 問い1〜2

2020-04-19 12:49:26 | カテキズム
2020年4月19日(日)主日礼拝  
聖書:イザヤ書 43:1
   ガラテヤの信徒への手紙 4:4〜6
   ヨハネの手紙一 4:9〜10(新共同訳)


 きょうからしばらくの間、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑みて、教会員の皆さんに礼拝出席を控えて頂くことにしました。牧師は通常どおり礼拝を献げます。けれど、通常のヨハネによる福音書、ローマの信徒への手紙の続きを説教するのではなく、臨時ですので、違う形で説教いたします。今回はアメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしてまいります。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。

 さて、わたしたちはいろいろな場面で自己紹介をする機会がありますが、皆さんは自己紹介で何を話されるでしょうか。名前、所属、誰かとの繋がり、好きなことなど、自分を知ってもらうのに役立つと思われることを話されるのではないかと思います。
 『はじめてのカテキズム』は問い1で「あなたは誰ですか」と問います。そしてこう答えます。「わたしは神さまの子どもです」
 カテキズムは「わたしは何者なのか」という問いに、神さまとの関係を答えます。それは、自分で自分を理解するのに最も必要なのが、神さまとの関係だからです。わたしという一個の存在は、わたしをお造りくださった神にその存在の根拠を持っています。わたしの身体的特徴、性格、能力、わたしのすべてが神の創造、神の御心に拠るものです。何よりわたしたちは神にかたどって造られているのです。わたしという存在は神にかかっているのです。だからまず始めに神さまとの関係を確認するのです。

 ところで、人間は意味を問う存在です。自分が今勉強していることに何の意味があるのか、自分の仕事(労働)は世の役に立っているのか、自分の人生にどんな意味があるのか。しばしばその意味を、どれだけ成果を上げたか、自分が有用あるいは有能であるかということで測ろうとします。自分に人と違う、人より優れた能力があるか、そして自分がどれだけ評価され感謝される(意味ある)奉仕をしたかといった自分固有の能力や業績で自分の価値を計ろうとします。
 しかし、自分が優れていることで自分の(生きる)価値を見出そうとすると、自分が平凡であること、老いや病で衰えていくこと、精神的身体的弱点があることを受け止め受け入れることができません。命と賜物を与えてくださった神と関わりなく、自分が認識している自分にあるもので自分の意味を見出していこうとすると、虚しさの中へと誘われてしまいます。これは神なくして生きようとする罪がもたらす必然の結果です。
 カルヴァンもジュネーブ教会信仰問答の冒頭で(問1)、人生の目的を問い、それは神を知ることだと答え、神との関わり、つながりにおいてこそ生きることの意味を見出すことができることを示しています。
 ですからカテキズムは、「あなたは誰ですか」という問いに対して、「わたしは神さまの子どもです」と神との関係において自分自身を理解することを示すのです。

 聖書は、命の源であり、わたしという一個の存在に惜しみない愛を注がれる神との関係を伝えています。カテキズムはそのことを問い2で「神さまの子どもであるとはどういうことですか」と問い、「わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです」と答えることにより明らかにしています。
 わたしという存在を掘り下げていくと、その一番底には「神はわたしを愛しておられる、わたしは神さまの子どもなのだ」ということがあるのです。

 なぜ子どもなのでしょう。親子は命のつながりです。自分の存在を考えるとき、親とのつながりを否定することはできません。神の子どもとされるということは、その否定できない命の関係に入れられるということです。そして、その関係を成り立たせるのは、神の愛なのです。神の愛が命を創造し、救いの恵みを支えているのです。

 聖書に聞きましょう。
 ガラテヤ 4:4~6「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」
 神の救いの御業は、わたしたちを神の子とするためでした。日本キリスト教会信仰の告白も「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな・・神の子とされます」と告白しています。神はわたしたちを、誰も否定することのできない命の関係の中に入れてくださり、神の子としてくださったのです。聖霊が「父なる神さま」と祈る信仰を与えてくださっていることを通して、わたしたちが神の子とされていることの証しとしてくださっているのです。

 次にイザヤ 43:1「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
 わたしたちの命の造り主なる神が語りかけておられます。「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」神はわたしたちの存在・命に責任を持ってくださいます。わたしたちは神さまのものなのです。神さまのものとして聖別されたのです。わたしたちが子どもの名前を呼ぶように、神もわたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。神はわたしたちを知っておられます。覚えておられます。だからわたしたちには居場所があるのです。神の御許にちゃんとあるのです。その神の御心をイエス キリストが成し遂げてくださいました。だから聖書は「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8:39)と告げているのです。

 もう一箇所ヨハネの手紙一 4:9~10「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 聖書が語る愛とは、共に生きること、共に生きようとする思いです。神はわたしたちと共に生きるために、わたしたちが神と共に生きる者となるためにイエス キリストをお遣わしになりました。イエス キリストはわたしたちのために十字架で命を献げ、神との間の妨げになっていた罪を償い、わたしたちが神と生きられるようにしてくださいました。だからイエス キリストを指して「ここに(神の)愛があります」と言うのです。

 聖書を通して神がこのように語りかけてくださっているので、カテキズムは「あなたは誰ですか。」「わたしは神さまの子どもです。」「神さまの子どもであるとはどういうことですか。」「わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです。」と語り、わたしたちの思いをイエス キリストへ、そして神へと導いていくのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちと共に生きようと願っていてくださることを感謝します。そしてわたしたちと共に生きるためにひとり子イエス キリストをお与えくださいました。今わたしたちはイエス キリストによりあなたの子どもとされています。あなたの子とされている恵みと幸いを豊かに味わわせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン