聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 140:1〜7

2020-09-19 17:29:53 | 聖書
2020年9月16日(水) 祈り会
聖書:詩編 140:1〜7(新共同訳)


 きょうは1〜7節です。
 聖書には1行あけてある所がありますが、ヘブライ語の原文は1行あけてある訳ではありません。翻訳者の判断であけてあります。ですから、1行あけてない所で区切ったのは、翻訳者と少し判断が違うところです。

 4節の終わり、6節の終わりに「セラ」と書かれています。このセラがどういう意味なのか今では分かりません。朗読の仕方を示すものだとか、表題に「指揮者によって」とあるので、歌い方を示すものだとか推測はされますが、正確な意味は分からなくなってしまいました。

 140篇は、神に助けを求める詩篇です。143篇まで助けを求める詩篇が続きます。詩人がどんな困難な状況にあるのか、具体的には書かれていません。長い時間祈り継がれてきましたから、その時々でいろいろな状況を重ね合わせて祈られ、詠われてきたのだろうと思います。
 読む側が、詩篇の言葉から状況を想像しながら、神に助けを求める詩人の気持ちを考えていこうと思います。

 2~4節「主よ、さいなむ者からわたしを助け出し/不法の者から救い出してください。/彼らは心に悪事を謀り/絶え間なく戦いを挑んできます。/舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。」

 2節の「不法の者」「不法」と訳された言葉は「多くの場合、搾取や抑圧といった社会的暴力を指す」(月本昭男、詩篇の思想と信仰 VI)と言われます。
 4節の「舌を・・鋭くし」は「言葉による暴力を示唆」(月本昭男)すると言われます。
 そのようなことから、この詩篇は、偽りの訴えで有罪とされようとしている人の祈りであろう、と理解する人もいます。
 古代西アジアは早くから法が整備され、法による秩序によって統治された社会だったようです(月本昭男)。「目には目を、歯には歯を」で知られる「ハンムラビ法典」、さらに古い「ウル・ナンム法典」「リピト・イシュタル法典」、同時代の「エシュヌンナ法典」が知られています。
 そして裁判の記録も発見されています。

 十戒の第九戒では「隣人に関して偽証してはならない」とあります。これは裁判における偽証を禁じいると理解されています。
 このつながりで聖書に記された出来事を思い起こすと、列王記 上 21章に「ナボトのぶどう畑」と小見出しが付けられた記事があります。ナボトの所有するぶどう畑を王アハブはほしがりましたが、ナボトに譲ってもらうことはできませんでした。すると妻イゼベルは町の長老と貴族に手紙を出し「ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ」と命じました。こうしてナボトは石で打ち殺され、アハブはナボトのぶどう畑を手に入れました。
 聖書には「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう」(申命記 1:17)と記されており、神に訴える道が備えられていました。聖書には偽りの罪で訴えられたナボトの声は記されていないので、ナボトにはその機会さえ与えられなかったのかもしれません。

 結局、どんなに戒めや制度が整っていたとしても、人間に神に従い、神と共に歩もうという信仰がなければ、戒めや制度から恵みを受け取ることができません。聖書のメッセージの核となるのも「神と共に生きる」ということです。

 5~7節「主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください/わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。/傲慢な者がわたしに罠を仕掛け/綱(つな)や網(あみ)を張りめぐらし/わたしの行く道に落とし穴を掘っています。/主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 わたしたちは問題が起こってくると、自分の知識や経験を総動員して、問題を解決しようとします。けれど自分の手には負えない問題もたくさんあります。そんなとき、普段は神を信じていないと言う人も祈ります。
 しかしわたしたちは常に祈ります。神が祈ることを求めておられるからです。祈りの交わりの内に神と共に生きることを求めておられるからです。だから聖書は「祈りなさい」(1テサロニケ 5:17他)と勧めます。
 そのとき、わたしたちの支えとなるのは、前回の139篇で語られている「主はわたしを知っていてくださる」ということです(詩編 139:1)。神はわたしを覚えていてくださる。わたしの祈りは虚しくなることはない、ということです。
 そして神はいつもわたしの味方でいてくださいます。使徒パウロはこう言います。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ 8:31~32)

 だから神の民は祈ります。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。/主よ、この声を聞き取ってください。/嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(詩編 130:1~2)
 そしてこの140篇の詩人も、深い淵の底から祈ります。悪意に囲まれ押し潰されそうな中で、主に祈ります。たとえ死に囲まれていても「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ 11:25)と言われ、自ら死んで復活されたイエス キリストを仰ぎ見て祈ります。
 もちろん詩人はまだイエス キリストを知りません。しかし旧約は、これから来られる救い主を望み見ています。例えば、自分には責任のない苦難に苦しんだヨブは言います。「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。/この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(ヨブ 19:25~26)
 ヨブと同じように詩人も仲保者キリストを望み見て祈ります。「主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 今の時代も、いわれなき苦しみを負わされ、悪意に取り囲まれ、死へと追い立てられる人がいます。近年の出来事は、この日本にもそういう人がいることを気づかせます。本当に神にしか望みをおけない人がいます。そういう人たちの救いのために教会は祈ります。神の国が到来するまで、罪に苦しむ人たちと共に祈るために、教会はこの祈りを次の世代へと祈り継いでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに祈りを与えてくださったことを感謝します。そして、あなたがわたしたち一人ひとりの祈りを聞いていてくださることを感謝します。あなたが求めておられるように、常に祈ることができますように。困難に出会うとき、わたしたちは未来が見えない故に、不安に陥ります。あなたが祈りに応えて導いてくださることを信じて、祈りつつ歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン