2019年12月8日(日) 主日礼拝 待降節 第2主日
聖書:創世記 1:24〜2:3(新共同訳)
神は創造の最後の業として人間をお造りになりました。神は、他の創造の業と違う新たな決断をもって人間をお造りになりました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」(27節)
ここには、神と人間の特別な関係と、人間に与えられた特別な使命とが記されています。それは、人間が神のかたちに造られたということと、人間に地を治める務めが与えられたことです。
人間は、神のかたちに造られました。神にかたどってわたしたちは造られました。では神のかたちとは、どんなかたちなのでしょうか。
26節で、神は「我々」と言われます。聖書の神は唯一の神です。申命記 6:4には「我らの神、主は唯一の主である」とあります。その神が我々と言われます。これは熟慮を表す複数と言われます。神の創造が、思いつきではなく、熟考されたものであることを示しています。それは31節の「極めて良かった」へとつながります。神の創造、そしてわたしたちの存在は、神の熟慮、熟考のもとになされたものなのです。
そして27節では、人間が神のかたちに造られたことを繰り返して「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。
男と女が、神のかたちなのです。男がではなく、女がでもありません。男と女が、神のかたちなのです。神の愛の内に生き、互いも愛によって交わり、命を育み、神と共にまた互いに、共に生きるものとして人は創造されたのです。さらにこれは、まだ何も示されてはいませんが、父・子・聖霊なる三位一体の神を表すものです。神は唯一であられますが、その中には父・子・聖霊の愛の交わりを持っておられるお方です。だから聖書は言います。「神は愛です。」(1ヨハネ 4:16)この愛であり、愛の交わりを持っておられる神が、愛の交わりに生きる存在として、人を造られました。その愛の交わりによって、神の創造の御業である命を育むこと、命に満ちる地を治める務めに与っていくのです。
神のかたちは、交わりを持って生きる存在、愛し合う存在です。神は全能だから他を必要としないのではありません。ご自身の内に父・子・聖霊の三位一体の交わりがあり、ご自身と共に生きる世界、ご自身と共に生きる命をお造りになり、共に生きようとする愛あるお方です。その神にかたどって造られた人間は、愛し合い、命を生み出し、育む。生きていること、命あることを喜び、共にあることを喜べるようにする存在として造られたのです。
言葉を語り、対話するものです。共に力を合わせて作業をし、新たなるものを作り出していきます。それは、語ることにおいても、業をなすことにおいても、造り主なる神と共に良かったを作り出すのです。神の作り出された命の秩序、そして多様なものが調和し、共に生きる秩序です。
だからこそ、治める務めは神の御心に従ってなされていきます。神のように治め、神の良かった・神の祝福が地を満たしていくように治めるのです。すべての命が神の創造を喜ぶことができるように治めるです。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(31節)神によってこそ、すべての命は造られたことを喜べるのです。
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(2:2~3)
神の御業は祝福と聖別へと向かいます。安息(中断)して、時を聖別し、神の祝福を受けるようになさいます。この安息・聖別・祝福が、神にかたどられた人の本質を保ちます。神に祝福される関係の中でこそ、人は神にかたどられたものとして生きることができるのです。だから十戒にも安息日を守る戒めがあるのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト 20:8, 11)
神が語る前の世界が渾沌だったことを忘れてはなりません。
神は、ご自身の言葉によって聖別された祝福された世界へと導かれます。そして世界は、神の祝福からまた新たに歩み始めるのです。だから主の日の礼拝が定められているのです。
今も神の御業は祝福のために、神の良かったが現れるためになされています。ですから、主の日の礼拝も、最後の祝福に向かって進んでいくのです。
そして、神がイエス キリストを遣わされたのも祝福のためでした。イエス キリストは、わたしたちに神の祝福、神の良かったを与えるために来てくださいました。
子どもたちも祝福されます。イエスは「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました(マルコ 10:16)。
また自分にとってよい人だけでなく祝福するように命じられます。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ 6:28)
そしてイエスの地上の生涯は、祝福で締めくくられます。「イエスは・・手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」のです(ルカ 24:50~51)。
イエスはすべての人に神の祝福を与えるため、世に来られました。
だからわたしたちは、代々の聖徒たちと共に、神の祝福、神の良かったを喜び祝い、分かち合うために、イエス キリストの誕生を祝うクリスマスを待ち望んでいるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
待降節第2主日の礼拝を感謝します。あなたはわたしたちの命の根源に、あなたの愛と祝福とを与え、あなたの似姿にお造りくださいました。どうかその幸いを味わうことができるよう、尽きることなく祝福をお注ぎください。全地があなたの良かったで満たされるように、すべての人がキリストと出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:創世記 1:24〜2:3(新共同訳)
神は創造の最後の業として人間をお造りになりました。神は、他の創造の業と違う新たな決断をもって人間をお造りになりました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」(27節)
ここには、神と人間の特別な関係と、人間に与えられた特別な使命とが記されています。それは、人間が神のかたちに造られたということと、人間に地を治める務めが与えられたことです。
人間は、神のかたちに造られました。神にかたどってわたしたちは造られました。では神のかたちとは、どんなかたちなのでしょうか。
26節で、神は「我々」と言われます。聖書の神は唯一の神です。申命記 6:4には「我らの神、主は唯一の主である」とあります。その神が我々と言われます。これは熟慮を表す複数と言われます。神の創造が、思いつきではなく、熟考されたものであることを示しています。それは31節の「極めて良かった」へとつながります。神の創造、そしてわたしたちの存在は、神の熟慮、熟考のもとになされたものなのです。
そして27節では、人間が神のかたちに造られたことを繰り返して「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。
男と女が、神のかたちなのです。男がではなく、女がでもありません。男と女が、神のかたちなのです。神の愛の内に生き、互いも愛によって交わり、命を育み、神と共にまた互いに、共に生きるものとして人は創造されたのです。さらにこれは、まだ何も示されてはいませんが、父・子・聖霊なる三位一体の神を表すものです。神は唯一であられますが、その中には父・子・聖霊の愛の交わりを持っておられるお方です。だから聖書は言います。「神は愛です。」(1ヨハネ 4:16)この愛であり、愛の交わりを持っておられる神が、愛の交わりに生きる存在として、人を造られました。その愛の交わりによって、神の創造の御業である命を育むこと、命に満ちる地を治める務めに与っていくのです。
神のかたちは、交わりを持って生きる存在、愛し合う存在です。神は全能だから他を必要としないのではありません。ご自身の内に父・子・聖霊の三位一体の交わりがあり、ご自身と共に生きる世界、ご自身と共に生きる命をお造りになり、共に生きようとする愛あるお方です。その神にかたどって造られた人間は、愛し合い、命を生み出し、育む。生きていること、命あることを喜び、共にあることを喜べるようにする存在として造られたのです。
言葉を語り、対話するものです。共に力を合わせて作業をし、新たなるものを作り出していきます。それは、語ることにおいても、業をなすことにおいても、造り主なる神と共に良かったを作り出すのです。神の作り出された命の秩序、そして多様なものが調和し、共に生きる秩序です。
だからこそ、治める務めは神の御心に従ってなされていきます。神のように治め、神の良かった・神の祝福が地を満たしていくように治めるのです。すべての命が神の創造を喜ぶことができるように治めるです。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(31節)神によってこそ、すべての命は造られたことを喜べるのです。
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(2:2~3)
神の御業は祝福と聖別へと向かいます。安息(中断)して、時を聖別し、神の祝福を受けるようになさいます。この安息・聖別・祝福が、神にかたどられた人の本質を保ちます。神に祝福される関係の中でこそ、人は神にかたどられたものとして生きることができるのです。だから十戒にも安息日を守る戒めがあるのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト 20:8, 11)
神が語る前の世界が渾沌だったことを忘れてはなりません。
神は、ご自身の言葉によって聖別された祝福された世界へと導かれます。そして世界は、神の祝福からまた新たに歩み始めるのです。だから主の日の礼拝が定められているのです。
今も神の御業は祝福のために、神の良かったが現れるためになされています。ですから、主の日の礼拝も、最後の祝福に向かって進んでいくのです。
そして、神がイエス キリストを遣わされたのも祝福のためでした。イエス キリストは、わたしたちに神の祝福、神の良かったを与えるために来てくださいました。
子どもたちも祝福されます。イエスは「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました(マルコ 10:16)。
また自分にとってよい人だけでなく祝福するように命じられます。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ 6:28)
そしてイエスの地上の生涯は、祝福で締めくくられます。「イエスは・・手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」のです(ルカ 24:50~51)。
イエスはすべての人に神の祝福を与えるため、世に来られました。
だからわたしたちは、代々の聖徒たちと共に、神の祝福、神の良かったを喜び祝い、分かち合うために、イエス キリストの誕生を祝うクリスマスを待ち望んでいるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
待降節第2主日の礼拝を感謝します。あなたはわたしたちの命の根源に、あなたの愛と祝福とを与え、あなたの似姿にお造りくださいました。どうかその幸いを味わうことができるよう、尽きることなく祝福をお注ぎください。全地があなたの良かったで満たされるように、すべての人がキリストと出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン