聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 1:24〜2:3

2019-12-08 23:39:31 | 聖書
2019年12月8日(日) 主日礼拝  待降節 第2主日
聖書:創世記 1:24〜2:3(新共同訳)


 神は創造の最後の業として人間をお造りになりました。神は、他の創造の業と違う新たな決断をもって人間をお造りになりました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」(27節)
 ここには、神と人間の特別な関係と、人間に与えられた特別な使命とが記されています。それは、人間が神のかたちに造られたということと、人間に地を治める務めが与えられたことです。

 人間は、神のかたちに造られました。神にかたどってわたしたちは造られました。では神のかたちとは、どんなかたちなのでしょうか。

 26節で、神は「我々」と言われます。聖書の神は唯一の神です。申命記 6:4には「我らの神、主は唯一の主である」とあります。その神が我々と言われます。これは熟慮を表す複数と言われます。神の創造が、思いつきではなく、熟考されたものであることを示しています。それは31節の「極めて良かった」へとつながります。神の創造、そしてわたしたちの存在は、神の熟慮、熟考のもとになされたものなのです。

 そして27節では、人間が神のかたちに造られたことを繰り返して「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。
 男と女が、神のかたちなのです。男がではなく、女がでもありません。男と女が、神のかたちなのです。神の愛の内に生き、互いも愛によって交わり、命を育み、神と共にまた互いに、共に生きるものとして人は創造されたのです。さらにこれは、まだ何も示されてはいませんが、父・子・聖霊なる三位一体の神を表すものです。神は唯一であられますが、その中には父・子・聖霊の愛の交わりを持っておられるお方です。だから聖書は言います。「神は愛です。」(1ヨハネ 4:16)この愛であり、愛の交わりを持っておられる神が、愛の交わりに生きる存在として、人を造られました。その愛の交わりによって、神の創造の御業である命を育むこと、命に満ちる地を治める務めに与っていくのです。

 神のかたちは、交わりを持って生きる存在、愛し合う存在です。神は全能だから他を必要としないのではありません。ご自身の内に父・子・聖霊の三位一体の交わりがあり、ご自身と共に生きる世界、ご自身と共に生きる命をお造りになり、共に生きようとする愛あるお方です。その神にかたどって造られた人間は、愛し合い、命を生み出し、育む。生きていること、命あることを喜び、共にあることを喜べるようにする存在として造られたのです。
 言葉を語り、対話するものです。共に力を合わせて作業をし、新たなるものを作り出していきます。それは、語ることにおいても、業をなすことにおいても、造り主なる神と共に良かったを作り出すのです。神の作り出された命の秩序、そして多様なものが調和し、共に生きる秩序です。
 だからこそ、治める務めは神の御心に従ってなされていきます。神のように治め、神の良かった・神の祝福が地を満たしていくように治めるのです。すべての命が神の創造を喜ぶことができるように治めるです。

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(31節)神によってこそ、すべての命は造られたことを喜べるのです。
 「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(2:2~3)
 神の御業は祝福と聖別へと向かいます。安息(中断)して、時を聖別し、神の祝福を受けるようになさいます。この安息・聖別・祝福が、神にかたどられた人の本質を保ちます。神に祝福される関係の中でこそ、人は神にかたどられたものとして生きることができるのです。だから十戒にも安息日を守る戒めがあるのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト 20:8, 11)

 神が語る前の世界が渾沌だったことを忘れてはなりません。
 神は、ご自身の言葉によって聖別された祝福された世界へと導かれます。そして世界は、神の祝福からまた新たに歩み始めるのです。だから主の日の礼拝が定められているのです。
 今も神の御業は祝福のために、神の良かったが現れるためになされています。ですから、主の日の礼拝も、最後の祝福に向かって進んでいくのです。

 そして、神がイエス キリストを遣わされたのも祝福のためでした。イエス キリストは、わたしたちに神の祝福、神の良かったを与えるために来てくださいました。
 子どもたちも祝福されます。イエスは「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました(マルコ 10:16)。
 また自分にとってよい人だけでなく祝福するように命じられます。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ 6:28)
 そしてイエスの地上の生涯は、祝福で締めくくられます。「イエスは・・手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」のです(ルカ 24:50~51)。

 イエスはすべての人に神の祝福を与えるため、世に来られました。
 だからわたしたちは、代々の聖徒たちと共に、神の祝福、神の良かったを喜び祝い、分かち合うために、イエス キリストの誕生を祝うクリスマスを待ち望んでいるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 待降節第2主日の礼拝を感謝します。あなたはわたしたちの命の根源に、あなたの愛と祝福とを与え、あなたの似姿にお造りくださいました。どうかその幸いを味わうことができるよう、尽きることなく祝福をお注ぎください。全地があなたの良かったで満たされるように、すべての人がキリストと出会うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

創世記 1:1〜23

2019-12-02 15:17:52 | 聖書
2019年12月1日(日) 主日礼拝  待降節 第1主日
聖書:創世記 1:1〜23(新共同訳)


 「初めに、神は天地を創造された。」
 神の言葉である聖書は、この言葉でもってわたしたちに語り始めます。すべては神と共に始まりました。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
 神の言葉は、出来事となります。神の言葉は、虚しく消え去ることはありません。
 神は、最初に「光」を創造されました。これは、太陽の光ではありません。太陽のことは14節、第4日に記されています。最初に神が創造された「光」、それはすべての命を満たすものです。
 詩編 27:1 に「主はわたしの光、わたしの救い」という言葉があります。また、ヨハネによる福音書 1:9 では、イエス キリストを「すべての人を照らすまことの光」(口語訳)と言っています。
 この光は、命にとってなくてならないものです。神は、創造の業を命の創造として行われました。単なるものを造られたのではなく、神は命をお造りになったのです。

 創造主(つくりぬし、そうぞうしゅ)という言葉を使うとき、わたしたちは「命の創造主」だということを忘れずに思い浮かべる必要があります。
 神は命をお造りになったが故に、人間が罪を犯した時にもう一度造りなおすということをなさいませんでした。神は全能のお方ですから、人間が最初に罪を犯した時に創造をやり直すことだっておできになりました。しかし、神がそれをなさらなかったのは、命を造られたからでした。
 ものならば、別のものに交換することもできます。しかし、命は交換することはできません。神は、交換することのできない命のために、救いの計画をお立てくださいました。そして、その救いの計画においても、神が命の創造主であられることがわかるのです。神は、キリストの復活の命でわたしたちを満たし、救おうとしておられます。神は、尽きることのない命の創造者なのです。

 命の創造者である神は、ご自身の言葉によって創造の業をなさいます。神の言葉は、秩序を生み出します。神の言葉がある前に存在したのは混沌です。神が言葉を語られると、様々に分けられていく中で、務めが与えられ、働きが与えられていきます。上の水と下の水が分けられ、海と陸が分けられ、昼と夜が分けられ、季節が分けられ、植物も動物も種類にしたがって創造されます。神の創造の業が、多様な存在、多様な働きを生み出していきます。そして、そのすべてを神の言葉が秩序づけていきます。
 神の言葉がなければ、すべては混沌としたままです。神の言葉は、混沌の中から多様な存在、多様な働きを生み出します。そして、神の言葉の秩序は、その多様な存在、多様な働きが共に生きていくことを生み出します。神の創造は、命の創造であると同時に、共に生きることの創造なのです。

 罪の世にあって、わたしたちはこのことを強く感じます。神に背を向けている人類は、混沌の中にあります。価値観の違い、考え方の違い、一致できないことにどれだけ苦しめられていることでしょうか。
 しかし、わたしたちが神の言葉に聴く時、わたしたちは神の前に共にあることができます。年齢、性格、趣味、さらには民族といった違いを超えて共に生きることができます。自分の正しさを主張するのではなく、赦し、祈り、愛することを神の言葉が促します。
 神の言葉が、今も共に生きることを造りだしているのです。

 神は、創造の節目節目で「良かった」と言われます。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が何度も出てきます(4, 10, 12, 18, 21節)。創造の業において、迷いや後悔は全くありません。文字通り「良かった」のです。命があるということ、多様な存在、多様な働きがあるということ、共に生きるということが「良かった」のです。

 この言葉を今、わたしたちも聞くことができます。神は、わたしたちに対しても「良かった」と言われます。わたしたちの命があるということ、わたしたちが賜物も性格も考え方も多様であること、働きが多様であること、今共に生きているということに対して、神は「良かった」と言われるのです。
 この神の「良かった」という言葉を今、共に聞けることは、とても幸いなことだと思います。この神の言葉を聴く時、わたしたちは命の多様さを神と共に「良かった」と言うことができるからです。そして、わたしたち自身に対して神が「良い」と言ってくださるのを共に確認できるからです。

 しかし、わたしたちは自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことがしばしばあります。
 それは、わたしたちが神の祝福に背を向けて生きているからです。わたしたちは、自分に対しても、自分の周囲の事柄に対しても「良い」と思えないことに苦しんでいます。生きることを喜べないことが、この世には多すぎます。
 そのことを、誰よりも神ご自身が苦しまれました。そして、神はご自身の御子を救い主としてこの世に送るという奇跡をなさいました。創造の始めに、命を満たす光を創造されたように、わたしたち、そして全被造物が神の恵みのもとで生きることができるように、神は「すべての人を照らすまことの光」である御子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださったのです。

 神はイエス キリストを救い主として遣わすことにおいてわたしたちに対する愛を示してくださいました。わたしたちはイエス キリストにおいて明らかにされた確かな愛のもとで、自分に向かって語られる「良かった」という神の言葉を聞くことができるのです。
 そして、救い主イエスは人となって、人間が神に背を向けた報いを一身に背負い、わたしたちのために死んでくださり、またわたしたちのために死を打ち破り、甦ってくださいました。わたしたちの罪のすべてを贖い、わたしたちが神の「良かった」という言葉を本当に聞くことができるようにしてくださいました。

 神は、命が命で満たされ続けるように御子の命を与えてくださいました。生きることが喜びであり、生きるものであり続けるようになしてくださいました。わたしたちをキリストにあって一つに結び合わせて、共に生きるものにしてくださいました。キリストにある救いの言葉、祝福の言葉を聞けるようにしてくださいました。
 神のもとにこそ、わたしたちの命、共に生きる喜び、祝福があります。神の御前においてこそ、わたしたち一人ひとりに対するためらいのない喜びに満ちた「良かった」という言葉を聞くことができるのです。わたしたちはここで、キリストの救いの中で、平安に包まれて生きていくことができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、わたしたちを掛けがえのない命としてお造りくださいました。あなたのもとで、わたしたち一人一人が良いものであることを知り、共に生きることができます。
 どうぞ、あなたの霊でわたしたちを満たし、あなたと共に生きるものとしてください。わたしたちの光であるイエス キリストに包まれ、あなたの「良かった」という言葉を聞きつつ生きる者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン