まにあっく懐パチ・懐スロ

古いパチンコ・パチスロ、思い出のパチンコ店を懐古する
(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

歴史認識

2012-02-07 00:04:14 | その他パチ・スロ関連

先日、元・パチンコ博物館長氏のブログで触れられた話題について、少々思う所があるので書いておきたい。

 

元・館長氏によれば、パチンコに関する最近のネットニュースで、「韓国がパチンコを全廃した理由とは」という記事が載っていたとの事である。

この記事、「韓国では、数年前にパチンコを禁止する英断が下されたから、日本もこれに倣ってパチンコを廃止すべきだ」といった論調で、パチンコを許容する日本が、あたかも韓国に遅れを取っているかの如き印象を読者に与えているらしい。

記事のソースは不明だが、この記者は、おそらく最近巷に出回っている『なぜ、韓国はパチンコを全廃できたのか』なる書籍を読み、当該記事を書いたのではないか。

そして、元・館長氏は、記事を書いた記者の無知ぶりについて、手厳しく批判をしている。

私も、このネット記事の主張には、元・館長氏と同様、首肯しかねる部分が多々ある。

特に、我が国が80年以上も培ってきた大衆娯楽・パチンコの歴史を、韓国で数年ばかり流行したメダルチギになぞらえるのは、記者の認識不足と言わざるを得ない。

 

「メダルチギ」とは、もともと日本の中古パチンコ台を韓国が輸入し、釘を無くしてコインで遊戯できるように改造したゲーム機である。いわば、パチンコとパチスロのごちゃ混ぜみたいなものだ。時期的には、2000年辺りから、全面禁止となった2006年まで韓国で流行っていた。日本の中古台のみならず、韓国のオリジナル台も登場している。

韓国では、このメダルチギのギャンブル性が年々エスカレートした結果、依存症患者や借金苦による自殺者などの問題が顕著になった。日本同様、直接の換金は違法だが、第三者が特殊景品を買い取る三点方式で対応しており、過度なギャンブル性の高さにのめり込む人間が多発した訳だ。

ギャンブル性の高さと共に、新台の認可に絡む政界の汚職も大きな問題となり、韓国マスコミは揃ってメダルチギのバッシングを開始。結果として、2006年に政府はメダルチギを全面禁止にした経緯がある。このバッシングの背景には、当時の反政権マスコミによる政治的なアジテーションという指摘もある。

 

しかし、こうした一過性の「メダルチギブーム」を韓国が禁じたからと言って、歴史ある我が国のパチンコも同じく廃止せよ、というのは乱暴な論理であろう。

例えば、アメリカのカジノは150年以上の長い歴史を有し、途中で幾度も規制を受けつつ、1931年の本格的な法制化により、合法ギャンブルとしての地位が確立された。

仮に、他国でカジノが導入され、レートやギャンブル性が異常に釣り上げられた結果、依存症患者や自殺者が出たとしよう。この事をもって、直ちに「アメリカのカジノ自体を廃止せよ」とする論調が、果たして成り立つだろうか。

 

また、同じギャンブルでも、国民性や風土の違いにより、その国に適したり適さなかったり、という事は当然ある筈だ。

かつての台湾では、1980年代後半から1990年代後半にかけて「一大パチンコブーム」が起こった。一時は、我が国をも凌ぐ盛り上がりを見せたが、射幸性に関する規制が皆無だった事と、台湾人の「アツくなりやすい」国民性とが相俟って、ギャンブル性は年々エスカレートの一途を辿った。やはり、借金や依存症などの問題が起きた結果、2000年の政権交代を機に、全面的に禁止された(ただ、現在もパチンコ店自体は残っている)。

韓国の人々が、台湾と同じく「アツくなりやすい」気質であろう事は、疑いの余地はない。事が起こった時、感情をむき出しにして一気に爆発させる…こうした激しい国民性を、我々は幾度となくメディアを通じて目にしてきた。そんな「熱っぽい」人々が、射幸性を激しく煽るギャンブルにのめり込みやすい事は、自明の理であろう。

一方、我が国では、パチンコは戦前より「庶民の娯楽」として親しまれてきた「文化」である。わずか6、7年流行しただけのメダルチギとは、歴史の重みが違うのだ。だいたい、メダルチギ自体、日本のパチンコを韓国に持ち帰って手を加えた「亜流」にすぎない。亜流が勝手に暴走したからといって、本流まで潰そうとする思考が、そもそも変である。

また、あまり話題には上らないが、韓国でも1990年代初頭には、日本のパチンコ台を遊戯できるパチンコ店(娯楽室「オラクシル」)が、非合法ながら数多く存在した。店内には日本の中古デジパチが並び、大当り時にはメダルではなく、日本同様に銀玉がジャラジャラと出てきたのだ。換金も可能だがギャンブル性は低く、特に大きな社会問題にはならなかった。

 

結局のところ、「パチンコ」の存在自体が問題なのではなく、過度なギャンブル性の高さなどパチンコ本来の「遊技性」から大きく乖離した状態が、修正されるべきなのだ。韓国で起きたメダルチギ問題は、大きな教訓として反面教師にすべきとはいえ、それをもってパチンコ自体を消し去ろうとするのは論理の飛躍であり、的外れである。

 

ただ、我が国パチンコの現状に鑑みると、大いに自省すべき点もある。CR機導入以後、100円玉一枚で遊べる庶民の娯楽というイメージは、すっかり変わってしまった。チューリップやヤクモノのアナログな動きを楽しめた時代は終わり、液晶主体の画一的な台ばかりが登場するようになったのも事実だ。

「カードで玉を買う」。実は、これこそ「一過性のブーム」として早々に立ち消えになるべき問題ではなかったか。残念ながら、これはブームでは終わらず、国のバックアップを受けて長きに渡りパチンコを「退化」させる要因となり続けた。勿論、技術的には「進化」であろうが、庶民の娯楽というパチンコの本質からみれば全く逆であろう。

老若男女が、玉貸機に小銭を入れて玉を買い、釘間を走る玉の動きを楽しむ。ストレス解消のささやかな息抜きとして、にこやかに台に向かう…。こうした平和な光景が、かつてのパチンコ屋の姿だったはずだ。あまりに巨大化したパチンコ業界は、この基本を忘れてはいまいか。「みなし機撤廃」という当局の愚行も、今のパチンコをつまらなくしている元凶の一つだ。

 

ネット等におけるパチンコバッシングが盛んとなった今日、我が国においても一度パチンコの原点に立ち返り、どういったゲーム性が幅広く庶民の支持を受けるのか、真剣に考え直す必要があるのではないか。また、その為にも、規制を加える当局の側も、四角四面の思考回路しか持たないお堅い官僚ではなく、パチンコの本当の面白さを理解する外部専門家の意見に耳を傾け、傾きかけたパチンコ産業の真の「再生」を目指すべきではないだろうか。