NPO法人 専攻科 滋賀の会

盲・聾・養護学校高等部への専攻科設置拡大、そして広く特別な教育的ニーズを有する青年たちの教育機会の保障をめざす滋賀の会

当会、立岡理事長手記のご紹介

2014年05月04日 07時38分31秒 | 会員募集のお知らせ
当会、理事長立岡が先般の糸賀一雄生誕100年記念論文に投稿した原稿をもとに、再編集した手記をご紹介させていただきます。立岡自身の生涯を通じた障害福祉への取組みとこれからの想いが綴られております。原稿用紙およそ12枚程の量になりますので紙でご覧になりたい方は当会メールアドレス(senkouka.shiga@gmail.com)迄、送付先記載の上ご用命くださいませ。1週間程で無償で郵送させていただきます。


明日に向かって尊い生命を切り拓こう
~糸賀一雄生誕百年とこれから~

立岡 晄


1、はじめに
 簡単な私の生育歴ですが、実母は私が1歳3カ月の時病気で亡くなり、その後嫁いできた継母には子どもが2人生れたこともあり、私がもの心ついた頃からとても人には言えない程のいじめと悲しくつらい日々が記憶に残っています。
 一番悲しかったのは十分にご飯が食べさせてもらえないことです。それが証拠に栄養失調の名残りか、今でもお腹はポコンとふくれていて、身体も大きくなれず、その反面幼いころからかなり厳しく仕事を強制されたことで手だけは人より大きくなっています。幼な友だちは私に奴隷のドレちゃんと言うニックネームをつけました。
他にも例えば中学生になるとツメ入り学生服に着がえるのが当然ですが、私だけは買ってもらえず、小学生の学生服のままでどれだけ悲しかったことか。今思い出すだけでも涙がにじみ、何度も死のうかと思いました。そんな私は何事も我慢してぎりぎりの所で生きてきたのですが、少しは判断力が育ってきた中学校の頃、卒業するのを待ちかねて家を飛び出し、当時長浜市にあった職業訓練校の機械科に入学し1年間の特訓を受けて大阪の大手鉄工所に旋盤工として集団就職することで、あの怖かった継母からやっと逃れ、新しい人生が始まったのです。
 それは1960年代、日本が高度経済政策時代突入時で、金の卵と呼ばれた団塊世代の一人として社会に出たのです。1日の労働を終え、油まみれになりくたくたになった身体を、共に働く友人3人と一緒に17歳にして夜間高校で学ぶことになりました。そのころから自分探しが始まったようです。何とかがんばって4年間の夜間高校を卒業したのですが、少し目が開いたのか、生き方について考え始めました。
 その結果自分の悲しい体験を元に、同じ一生なら親の無い可愛そうな子どもたちが暮らす藤井寺市にある児童養護施設の指導員として勤めることにしたのです。 
その当時は、交通事故や離婚で家庭崩壊し、一人きりになった幼子たち50人が養護施設で暮らしていました。そのかわいそうな子どもたちの指導員として共に3年間寝起きをする中で、かわいそうだとばかり思い込んでいた私は、一人ひとりその子の背景には様々な問題があることに気が付きはじめたのです。悩み抜いた末、もっと深く学ばねばと痛感した私は遅まきながらも24歳の春、名古屋にある日本福祉大学の夜間部に入学し、学び直すことにしました。
このように何かと目覚めの遅い私ですが、結婚だけは25歳と人並みの年齢で養護施設で共に働いた保母さんと結ばれ生き抜いて来ています。

2、自分探しに終止符
 その日本福祉大学の夜間部で学ぶ中、日本で最初の障害者が働くゆたか作業所が名古屋市内にあることを知り、早速ボランティアーとして作業所に出向いたのです。
 ゆたか作業所の玄関をドキドキしながら開けると、中から元気な声で「いらっしゃーい・お兄ちゃん」と、とても暖かい声が私を迎え入れてくれました。作業所ではトコちゃん、せっちゃん、堀くん等、知的障害のある仲間たち20人が生きいきと働いておられました。私の抱いていた暗くて可愛そうな、と言った障害者観は一度に吹き飛びました。知的障害がある仲間たちのあの明るさと暖かさはどこから来るのでしょうか。その後も勉強をし、ゆたか作業所の仲間にも教えて頂き、大学を卒業した私は故郷滋賀県に戻り、長浜市内で障害者の働くひかり園作業所を立ち上げた職員の一人として作業所づくり運動に取り組む事になったのです。私は長い時間をかけての自分探しに終わりをつげ、その後この道一筋を歩んでくることができたのです。私の本間ものの人生の出発は、日本福祉大学を卒業した1975(昭和50)年の28歳の遅い春でした。


3、無認可ひかり園作業所時代
 さて、滋賀県の北部長浜市で1975(昭和50)年に開所した無認可ひかり園作業所はその当時、地域に隠されるように暮らしていた障害のある仲間6人と、職員は理事長の長男と私の2人で始まりました。
 開所当時は行政からの補助金制度は無く、6人の重い障害のある仲間と2人の職員が名古屋のゆたか作業所から洗濯バサミの材料を回して頂き、それを組み立てて袋に入れて販売し、その売り上げを分配してお給料にしたのです。
当時は障害の重い人には就学免除制度があり、6人の内5人が学校にも行けなかった人たちです。それでも作業所で働きだす中で言葉が出始め、身体が健康になっていくのがよくわかりました。就学を免除された三重子さん(仮名)は言葉も少なく、友だちもいません。でも作業所に通う中で友だちが出来、仕事を覚え、笑顔が出始める頃、作業所の事を「がっこ・がっこ」と言うのです。三重子さん、ここは学校と違う、お仕事をする作業所や、と教えても「がっこ・がっこ」と言われます。余程学校に行きたかったのだろうと思うと胸が熱くなりました。
 障害のある人たちが通う無認可の作業所が長浜市内にあると言ううわさを聞きつけ、幸いと地域の婦人会の人たちが1週間に一度ボランテイアーで4~5人のグループを組んでお手伝いに来て下さいました。その上この洗濯バサミはひかり園作業所でつくられたので買って下さいと回覧して販売をし、貧しく厳しい作業所を応援して頂く中で地域に障害者理解が少しずつ広まっていくのでした。
 さー、月末は1カ月働いたのでお給料日です。三重子さんたち仲間6人のお給料袋には各々1,000円しか入れられません。お給料袋を渡す時に「三重子さん良く頑張りました。お給料です」と言って連絡ノートと一緒に渡すと、三重子さんはおもむろに受け取って自宅に持ち帰りお母さんに渡すのです。お母さんは「この子がお給料をもらって来た!」と言って、お仏壇にお供えをされ、涙をこぼされたとのことです。
 これまで25年間一人ぼっちだった三重子さんたちは友だちが出来、お仕事や言葉を覚え、キラキラと素敵な笑顔が出始めたことを今でも鮮明に覚えています。 
働く中でたくましく成長していく仲間たちに明日が見え始めたのでしょう。名古屋のゆたか作業所のように、障害のある仲間たちが生きいきと働ける作業所がここ滋賀県にも生れたのでした。かたや私は生活保護受給寸前の厳しい暮らしが続きますが若さでのりこえていくのでした。


4、滋賀県下で最初の障害者通所授産施設として認可される・・・が
(1)入所施設から生まれ育った地域で働ける通所施設に発展
1977(昭和52)年度、滋賀県では全国に先駆けて無認可共同作業所補助金制度を創設して頂き、障害のある仲間1人1カ月2万円の補助金を頂けるようになりました。この制度が出来、作業所づくりは大津、彦根、草津等、滋賀県全域に広まっていきました。そして一定の条件を満たした作業所はやがて社会福祉法人を設立し認可作業所へと発展させる動きが急速に展開され、この時期入所施設から通所施設が急増していく時代となりました。
 障害のある人たちへの支援は、終戦直後の1946(昭和21)年の秋、糸賀一雄先生たちが始められた近江学園を中心とした入所型施設から、丁度30年後の1976(昭和51)年の秋には、生まれ育った地域で利用できる最初の通所型施設ひかり園作業所へと変遷の時代が到来したのです。

(2)厚生省も驚く信じられない「施設強制競売」事件が発生
 社会福祉法人ひかり福祉会は、1976(昭和51)年10月に通所授産施設定員30人のひかり園作業所を長浜市に、次いで1979(昭和54)年2月に彦根市に同規模のたんぽぽ作業所の認可を受けました。しかし、大変不幸な事に設立時の理事長親子による理事会無視の乱脈経営は、その後のひかり福祉会の発展どころか、理事長親子は自分個人の借金を帳消しにしようとして、作業所を強制競売にかける異常な事態を引き起こしたのです。施設の強制競売開始決定通知により理事会は解散状態となり、前代未聞の深刻極まりない大事件に発展していくのです。
 諸悪の根源の理事長親子は、すでに無認可作業所を始めた頃から障害者の施設をつくるので協力を、と偽って愛の歯ブラシや傷バンソウコウなどの通信販売に手を染め、福祉を語って個人的に多額の利益を手にしたものの、その通信販売事業者から手にした融通手形がもとで逆に借金に追われる羽目となったのです。そうしたことが社会問題化したのは1980(昭和55)年、たんぽぽ作業所の施設を建設した会社に対する建設費未払い事件でした。建設費を支払う為の国、県、市からの補助金と自己資金はそろっていたのにもかかわらず理事長親子は建設業者に支払っていなかったのです。
 行政や私たちはどうしても信じられないのですが、ひかり福祉会の理事会の責任と言う事で、当時法人理事の一人であった滋賀県民生委員・児童委員協議会会長のS理事を中心に、身体を張って必死の努力で原因を分析し解決してきました。
 こうした内部努力で支払いを終えようやく安心したのもつかの間、それから1年後全く関係ない建設業者にひかり福祉会が大きな借金をしていること。そしてその金が返されないので彦根にあるたんぽぽ作業所を強制競売にかけると言う事件が発覚するのです。S理事を中心に理事会として、未払い金は建設会社に支払って解決したはずなのに又どうして?。驚くべきことに更に別の債権者が現れ、長浜のひかり園作業所も借金の返済をしないので施設が強制競売にかけられると言う前代未聞の大事件に発展していくのです。
 ここまでくると理事会機能は完全にマヒ状況に追い込まれ、悲しいことに福祉会の命綱であったS理事は予想以上の心労が重なり病気が悪化し、病院に滋賀県民生委員・児童委員協議会会長後任のM理事を呼び事態の解決を託すと間もなく他界されたのです。故・S理事の意思を引き継いだM理事は既に理事会解散状態を立て直すために対策委員会を設置し、自ら委員長になり最悪の事態の中で作業所を守る手だてを打つと共に、対策委員会は厚生労働省に対し理事会再建の目的で仮理事会を申請し認可を受けるのです。こうして理事会再建の足がかりをつかんだ矢先、M仮理事長も重荷が元で病に倒れられ、私たちは設立当時の湖北民生委員・児童委員会長のT理事をM理事の代理としてお願いし、施設強制競売差し止め訴訟を闘う方向へと進めるのですがM理事も心労が重なり急逝されるのです。振り返ってみるとひかり福祉会が絶体絶命の中でS理事、M理事、T理事各氏は命をかけ、全力をふりしぼり、障害者を守るため、福祉の信頼を守るため命と引き換えに三氏の間でバトンタッチされてきたのです。今日のひかり福祉会が存在するにはこのように見えないところでの命と引き換えの闘いがあったのです。

(3)何故、「施設強制競売」事件が起こったのか、その背景は
 当時、作業所を利用する障害のある仲間たち、保護者、職員はもとより、経営主体である理事会を始め、長浜市、彦根市、滋賀県、厚生省等行政機関も「この前代未聞の事件がなぜ起こったのか」「その対策は」「解決への方策は」と、大きな混乱状況が生まれました。およそ社会福祉法人は、行政の認可により社会福祉事業を行うのですから、このような施設の存亡にかかわる事件は行政の指導・監督により未然に防げるはずです。にもかかわらず、現実には到底考えられない事態に陥ったのですから、そこにはそれだけの理由があったのです。
 社会福祉事業は、そもそも経営主体である社会福祉法人の理事会が選出した理事長に絶対的権限が与えられており、その理事長が理事会を形骸化し、あるいは無視して理事長印を悪用し、ひかり福祉会が経営する施設を競売に付しても、行政は理事長を辞職させる権限を持ち合わせていません。
 行政が出来ることは、そんな違反をする理事長に対して辞職の勧告をする事までです。それほど社会福祉法人には行政が介入できない、「法に基づく人格」が与えられているのです。また、社会福祉事業法は、善意を前提として法制化されている崇高な性格を持っており、理事長が施設を自らが競売にかける等ということはそもそも想定していません。従って、法人や理事長が善意を逆手に取る行為をしても防ぎようのないもろさが表面化することになるのです。
 ひかり福祉会の2か所の施設が理事長親子によって強制競売にかけられた要因はいくつか挙げられますが、①ひかり福祉会の発足が寺の住職である理事長とその長男を軸に行われ、いわゆる家族経営の独断専行の理事会運営となり、公私混同の末、事件を最悪の事態におとし入れた。②ひかり福祉会の理事長は長男の言いなりとなり、ひかり福祉会理事長の公印は長男の乱用する所となった。そうしたこともあり後ほどからは理事長印は他の理事が保管する事となったものの、長男は又々理事会を無視し、保管されている理事長印を紛失したとうそを言って別の印鑑を作って登記し、その登記印鑑をもって施設競売の手続きをしたのです。ここまでいくと誰も防ぎようがありません。③福祉を利用する体質もはなはだしい理事長の長男は、開いてもいない理事会を開いたようにみせかけ、遂に議事録を偽造したことが発覚し、私文書偽造の罪で実刑を受け、また第3者からの借金を返済しない等の罪では逮捕される等、およそ障害者の福祉をする体質ははじめからなかったのです。
 この他にも多くの要因が重なって作業所が強制競売にかけられたのですが、理事長の長男が抱え込んだ借金は本人の証言で数千万円から一億円とのことです。しかし、本人がこんな多額の返済ができる道理はないし、債権者も本人から返済してもらえるあてはないということで法人の理事長印が利用され、施設を競売する事によって帳消しを計ったのです。事件もここまで来ると、金を借りた者と金を貸した者が結託して障害者の施設を競売にかけると言う異常なカラクリが見えてくるのです。

4)施設強制競売を命がけで闘う
 強制競売の開始決定通知書が届く緊迫した中で、私たち職員、作業所利用者、その保護者、滋賀県愛護協会等を中心に1981(昭和56)年7月2日、必死の思いで「ひかり園作業所・たんぽぽ作業所を強制競売から守る緊急集会」を開催するのです。当時の新聞には「障害者施設、競売の危機に」「経営者が借金、返済できず」「理事会に無断で」等大きく報道され、糸賀一雄先生たちが積み上げられてきた滋賀県の福祉のイメージを一度に悪くしてしまったのです。
 施設を守る緊急集会の会場となった彦根のたんぽぽ作業所にはさまざまな支援者、団体が集まり、異様な空気と緊張の中での開催です。次々と声を震わせ涙声で「作業所を守って!」と必死になって訴える仲間たち。幸子さん(仮名)は声を詰まらせながら「私は以前会社に勤めていましたが、発作があって病院に入院しました。病院から作業所を紹介してもらって作業所ではミシンでフキンを縫っています。今では発作もなくなって喜んでいます。お母さんも喜んでいます。もし作業所がなくなったらまた私はひとりぼっちになってしまいます。せっかく作業所に来られるようになったのに・・・どうか皆さん作業所を守って下さい!お願いします」と泣きながら必死の訴えをしました。保護者や職員もどんな理由があろうがこの作業所は誰のものでもない、仲間たちの働くかけがえのない大切な作業所であること、みんなで守ろうと強い決意をこめた発言が続きます。そうした中で集会つぶしを目的に会場に入り込んでくる債権者、そして初代理事長の長男が現れると、怒号とヤジが飛び交い騒然となりました。債権者はマイクを取り上げ、「こんな集会をやめて私と一緒に今から県庁に行って作業所が競売にならないように頼むのが先決だ」と圧力的な言い方で集会をやめるように迫りました。最初は何のことか良くわからなかったのですが、競売を止めるために借金の肩代わりを県庁に求めようと言うことらしいのです。こうした債権者の集会つぶしにたいして、会場からは誰言うとなく「かえれ!かえれ!」と帰れコールがわきあがる中でついに彼らは退場していくのでした。
 緊急集会に駆けつけて下さった支援団体の皆さんやゆたか作業所を始め全国からの励ましの挨拶や決意は私たちを勇気づけて下さいました。緊急集会の終わりにこの集会を主催した対策委員会は、①何としても作業所を競売から守り抜くこと、②理事長親子を告訴すること、そして③真実を広く社会に知らせること・・・と言う三項目のアピールを提案し、大きな拍手で採択されたのです。
 会場には新聞社やテレビカメラが入り、警察官に守られながらの厳しい、ひかり福祉会にとっては忘れられない歴史的な長いながい1日となりました。
 このひかり福祉会の存亡にかかわる緊急集会で採択された決議に基づき、6日後には決議通り理事長親子を彦根署に告訴し受理され本格的な立て直しが始まったのです。

(5)10年間の粘り強い闘いで施設を強制競売から守る
 当時の滋賀県の議会でも2人の議員から施設競売事件に対しての滋賀県の対応を求める質問も出され事態は緊迫していくのでした。
この時期から福祉を語っての初代理事長親子との決別を果たし、理事会の再建を果たす中で、ひかり福祉会は借金していない事を立証するためひかり園作業所、たんぽぽ作業所競売差し止め訴訟を彦根・長浜の地方裁判所へ提訴しました。
 裁判を進めて頂いた弁護士の皆様も福祉のこころと、何としても作業所を守ってほしいと願う多くの仲間たちの声に応え、長期にわたり手弁当でご支援して頂き、その後のひかり福祉会発展に寄与して頂いたのです。当初、弁護士さんは施設強制競売開始の決定通知がきているのを差し止めるのはかなりきびしいとおっしゃっていましたが、何としても施設を守るため、私たちはあらゆる努力をし、大きな世論を味方に裁判を進めることにしました。
 訴訟を経て経営の立て直しをめざした歴史が積み上げられていくことになったのです。言うは簡単ですがひかり園作業所・たんぽぽ作業所競売差し止め訴訟は彦根と長浜地方裁判所で実に10年間もの長きにわたり審理されました。その結果最終的には初代理事長親子の個人借金返済を理事長と言う立場を利用してひかり福祉会理事長印を悪用して財産処分する事はまかり通らないという判決を頂いたのは提訴して10年目の1991(平成3)年春の事でした。何と10年で合計59回もの公判を経験したのです。

5、糸賀一雄さんの思想の今日的意味の実際
(1)理事会再建はまさに糸賀一雄思想そのもの
 さて、先述の通り1981(昭和56)年7月2日の「ひかり園作業所・たんぽぽ作業所を強制競売から守る緊急集会」を経て、滋賀県の指導を受け再建なったひかり福祉会第1回理事会を1982(昭和57)年7月28日に開催しました。すでに述べたようにひかり園作業所・たんぽぽ作業所強制競売差し止め訴訟にも心を砕いて頂いた滋賀県の愛護協会や滋賀県児童・成人福祉施設協議会等でもご心配をかけていましたが、火中の栗を拾うということわざがあるように、ひかり福祉会のさんざんたる実態を見ておられた当時のびわこ学園の岡崎英彦園長と、もみじ・あざみ寮の三浦了寮長のお二人が自らの申し出により、ひかり福祉会の理事に就任して頂けるというのです。
 糸賀一雄著のNHKブックス「福祉の思想」に「障害や欠陥があるからと言ってつまはじきにする社会を変革しなければならない」と書かれていますが「ひかり福祉会と言う法人には2か所の作業所に60人もの障害のある仲間たちが働いており、施設競売事件とされた施設だがこれを救済しなければならない」と私流に読み替える事が出来るのです。後日判明したのですが、両先生ともひかり福祉会の実践が素晴らしく、これをつぶすことなく守り発展さすのが糸賀一雄さんの思想の実践です、とおっしゃっていました。
 糸賀一雄さんの福祉の思想と実践力が岡崎英彦園長、三浦了寮長にしっかり受け継がれ根付いている証としての行動だと私は確信しています。まさに「糸賀一雄福祉の思想の今日的意味」そのものではないでしょうか。
 ひかり福祉会は地元、長浜市、彦根市、滋賀県は元より当時の厚生省を揺り動かす前代未聞の大事件という施設競売事件にまきこまれた大変おおきなマイナスからの出発です。障害者福祉の社会的信頼失墜だけでなく、作業所で働く職員や利用者、そして保護者会等、当事者の大きな動揺をはじめ、巨額の借金の返済等、それらを元に戻さねばなりません。マイナスからゼロへそしてその後プラスに転じていくには糸賀思想を学ばれた岡崎、三浦両先輩が力を貸して下さることは勇気百倍、絶望の中から一筋のキラリと輝く明るい展望がみえたのです。
 私たち職員や障害のある仲間、保護者等をどれほど勇気づけて下さったことでしょう。これこそ糸賀福祉の真髄だと確信します。
 再建されたひかり福祉会の理事長には早速と岡崎英彦さんが就任して頂き、理事には三浦了さんを筆頭に、問題解決の先頭に立った元びわこ学園勤務でひかり福祉会の田中浩藏さんや筆者の私に加え、保護者会の会長等で構成され、息を吹き返した素晴らしい理事会が誕生したのです。議論し話し合ったことが着実に実現していける夢と希望のもてる新生理事会がここに実現したのです。

(2)明日に夢をもとう!と、みんなで将来計画を創り上げる
 そうは言うものの毎日の現実は予想以上に厳しく、いつも苛立って焦り気味の私をつかまえて、岡崎英彦理事長は「慌てなさんな、こうした困難な中だからこそ明日に夢を持とうではないか」と私たちを励まして下さり、具体的な提案として、ひかり福祉会の第1次将来10カ年計画の立案を示唆して下さいました。
 早速と職員、利用者、保護者、養護学校教師、地域の人、理事等が検討委員会を立ち上げ、障害のある仲間たちのねがいを軸に、1年がかりの話し合いで施設競売差し止め訴訟を闘いながらも将来の夢を語り合い、ついに第1次ひかり福祉会将来計画10カ年予想図が完成したのです。
将来計画の予想図には機関車が走るのですが、機関車にはみんなの夢とねがいが乗せられ、3年の駅、5年の駅、そして一周すると10年の終着駅が描かれました。この将来計画は機関車が地域の障害者の願いと夢を乗せて走りだし、3年の駅に着く頃にはグループホームや新たな作業所が出来、さらに5年先の駅に着く頃には障害者自立センターやひかり園作業所の新築移転が完了し、そして10年後の終着駅では精神障害・身体障害者の作業所が完成すると言うハード面の施設整備が描かれたのです。とっても解りやすく、実に夢が持てる計画となりました。
 この夢を実現していくため、また機関車が燃料切れにならず、しっかり走れるようにと、ひかり福祉会がめざす経営理念の確立や法人機能の強化を軸に財政、広報、研究、管理各部門というソフト面の計画も立案する中で実行、実践されるのです。
1988(昭和63)年4月に出発した機関車は3年の駅、5年の駅そしてついに一周して10年の終着駅にたどり着くことが出来ました。これで第1次将来10カ年計画はほぼ100%見事に実現させる事が出来たのです。
 その後も第2次5カ年、第3次5カ年、第4次5カ年将来計画と引き継がれ、第1次将来計画から25年目となる第5次将来5カ年計画は今年2013(平成25)年4月から2018(平成30)年まで、向こう5年間を展望する計画が出来あがりました。こうした将来計画は次々と実現し、今では競売にされず戻ってきたひかり園作業所、たんぽぽ作業所を含め10か所の日中事業所と、親亡き後の仲間たちが自立し暮らすケアホーム9か所他、支援センター2か所にデイサービス事業所等、障害のある仲間たちにとってかけがえのないひかり福祉会へと成長することが出来ました。
 ひかり福祉会のまさに救世主として6年間お世話になった岡崎理事長は無理もたたり1987(昭和62)年6月11日、享年65歳という若さでご逝去されました。
私は目を閉じれば今でも岡崎理事長の優しいお顔がはっきり浮かんできます。

(3)糸賀一雄思想を広めた「きょうされん」理事長時代
 私は「自覚者が責任者」と言われた糸賀一雄さんの言葉を少しでも実践する思いから滋賀県内に共同作業所の連絡会を立ち上げ、県下各地に障害のある人たちの作業所をつくる運動を幅広く支援してきましたが、2000(平成12)年には東京に本部がある、きょうされん(共同作業所全国連絡会)の理事長として選出され、それ以降6年間、北海道から沖縄まで障害のある仲間たちの作業所や暮らしのホームづくり運動の先頭にたって道を切り拓くのでした。この間全国各地に出向く度、糸賀先生の思想と実践を語り、根付くよう尽力したものです。
 しかし現状は厳しく、例えば沖縄の地に出向けば滋賀から約10~20年も障害者の福祉は遅れている事が良くわかります。その事に気づかされた私やきょうされんは責任者となって沖縄に生れ育った障害のある人が私たちと同じように諸権利が保障されるように国の責任も問いただす仕事も精一杯取り組んできました

6、「この子らを世の光に」できる社会をめざして
(1)今こそ糸賀一雄福祉の思想から学ぼう
 1970(昭和45)年4月、長浜市湖北町生れの重症心身障害児の誠さん(仮名)が、18才でびわこ学園卒園後の進路先として私たちのひかり園作業所に通所されることになりました。
 何でまた重症心身障害で首も座らない全面介助が必要な寝たきりの誠さんがひかり園作業所なのでしょう。行政もびわこ学園入所の誠さんを知的障害者の通所授産施設ひかり園作業所には措置出来ないとのことです。しかしご両親の強い願いと、どんな重い障害のある人も受け入れると言う私たち作業所側の理念が一致し、ついにその願いが実現していくのでした。当初、作業所措置に難色を示していた行政を伴い、私たちの作業所仲間が東京では重症心身障害児を通所作業所で受けとめる現場があるので一同で視察に出向きました。
東京では3人の重症心身障害者を作業所で受け入れている実際をこの目で見、視察後、県は特別対応の形で誠さんにひかり園作業所通所を認めて頂くこととなったのです。素晴らしいことに新しく重度加算制度までつくって頂き、1990年4月、18才の誠さんは晴れてひかり園作業所の仲間となることが出来ました。
 福祉のこころが制度をのりこえさせた素晴らしい行政判断でした。まさに「この子らを世の光に」の実践力ではないでしょうか。
 1990(平成2)年4月から誠さんは毎朝お母さんの車で通所されます。車が着くと作業所の仲間たちは我先にと誠さんが乗っている車を覗きこみ、口々に「誠さん、おはよう!!」と出迎えます。誠さんは思わずニッコリです。朝礼後はそれぞれ仕事にかかるのですが、誠さんは仕事が出来ません。寝台車に寝て音楽テープを聞くのが彼の日課となっています。ところでミシンで懸命にフキンを縫う仕事をしている仲間は疲れてくると誠さんのところへ行って誠さんの顔を覗き込みます。そして「誠さんはいいなー、寝て音楽テープ聞いていたら良いのやから」と語りかけます。すると誠さんは「ニッコリ」とほほ笑み返すのです。そんなやり取りの中で疲れが取れた仲間は又、ミシン仕事に戻るのです。誠さんが居るから仲間たちは仕事ができるのです。
 そんな誠さんですが成長と共に身体の変形が進み、股関節が激しく痛みだし眠ることも出来なくなっていくのです。とうとう彼は3年間の作業所生活に別れを告げ、治療に専念されることになったのです。退所に当たって作業所の仲間たちは盛大な送別会を開き、別れを惜しみました。私たち職員は誠さんから「障害の重い人は宝」という事を身を持って教えられたのです。

(2)重症心身障害の誠さんから多くを学ぶ
 1993(平成5)年3月末でひかり園作業所を退所した誠さんはそれから2年後の1995(平成7)年5月、股関節術後の定期検査でレントゲンを撮ると側湾がひどく、90度にもなっており、11月には再び手術を受けたのですが、今度も13時間を要する大手術となりました。術後、体中からいろんな管が出ていて痛たましい姿でした。体位交換も4人がかりで細心の注意が必要です。重症心身障害の誠さんは今回もこのような大きな手術に耐え、ようやく3カ月後に退院する事が出来たのです。退院後の7月からは湖北通園たいこ教室に通えるようになり、このまま何事もないようにと祈る気持ちでいました。
 しかし1996(平成8)年の10月11日、再度入院です。今度は噴水のような吐血が続き点滴では間に合わないので足の付け根から輸血が行われます。病室は何人ものドクター、看護師さんが総がかりで懸命な治療に当たって下さり、急を聞きつけてたくさんの関係者が見守ります。出血する部所がわかったので治療をしたのでもう大丈夫と言う声が聞かれホッと一安心したのもつかの間で塞いでもふさいでも次々と穴があき、もう防ぎようがなくなり22時前にたくさんの人に見守られながら26歳と6カ月で天国に召されていかれたのです。
 ご両親は何がなんだかわからないまま22時過ぎ、すべての管と機器が誠さんの身体からはずされました。目は開けてくれないけれど美しい寝顔でした。あんな凄まじい戦いがあったとは思えないような安らかな寝顔でした。血のついた顔をゆっくり拭き、きれいになったところで髪を拭くと、拭いても拭いてもタオルは赤くなり、なかなかきれいにはなりません。「こんなになるまでがんばったんや」と思うと涙が止まりません、とお母さんは振り返ります。
 糸賀一雄先生が願う「この子らを世の光に」できる社会が誠さんとご両親を通して見事に湖北の地に形となって実現したように強く思います。誠さんありがとう。ゆっくりお休みくださいね。

7、人間の基礎を太らす大切な「第3の学びの扉」を拓けよう
(1)就学の免除・猶予の時代から養護学校義務化、そして次には
 その昔、重い知的障害のある子どもたちはランドセルを背負うことなく自宅に閉じ込められ細々と生きていました。6歳になっても家から出ることがないので友だちはいない、勉強は教えてもらえない、栄養計算の出来た給食が食べられない、身体検査や予防注射もしてもらえない・・・。人間の一生の内でも死亡率が一番低い小学生時代に、学校に行けなかった不就学障害児の死亡率は、学校在学児の約66~580倍という調査結果があります。ないないづくしが解消したのは今から34年前の養護学校義務制度化を待たねばなりません。
余りにも残酷な就学免除の実態です。こうした悲しい現状を何とか打破しようと、就学の権利を保障する国民的なねがいと運動があいまって全国に養護学校が義務設置されたのは1979(昭和54)年春のことです。
 学校は子どもたちの全面発達を保障するところです。糸賀一雄先生は養護学校義務制以前の時代に、すでに発達の保障を提起されています。発達とはその子のねがい・要求により生みだされ、発達は集団の中で実現し、発達は権利なのです。そして無限の可能性があるのも発達なのです。
先述したようにどんな重い障害があっても特別支援学校が全国に設置される中で高等部18才まで教育を受けられるように教育期間を延長出来る所まで来たのです。

(2)高等部卒業後さらに学べる養護学校「専攻科」実現への強いねがい
 知的障害児の養護学校は高等部18才で卒業を迎え、進路先として約3割が自営業や一般企業に、約7割が作業所などに進路をとりそれぞれ社会に出て行かれます。
私たちNPO法人「専攻科滋賀の会」では2007年秋に滋賀県下全養護学校の保護者、翌年に養護学校の教師、3年目に卒業生の約7割を受けとめている作業所職員を対象に膨大なアンケート調査を実施したのです。その結果、何と全体の74%もの人たちが教育年限の延長を求めていることが判明しました。
アンケートには予想以上の多くの書き込みがありましたが、簡潔にまとめると保護者からは「発達のゆるやかな子どもたちだからこそ教育年限を更に2~4年延ばすべきだ」。また教師からは「高等部3年間では卒業後の進路対応に追われ、本来の教育が十分できない」そして作業所からは「知的障害児18才ではまだまだ働く気構えもできていない、せめて20歳までは教育保障すべき」等の熱い意見が書きこまれたのです。
 1979(昭和54)年春、就学免除・猶予制度が改善され全ての子どもに教育が保障された第1の学びの場の扉が開き、第2の学びの扉はその後約10数年かけて高等部が設置され、今まさに養護学校高等部卒業後さらに2~4年間学べる専攻科開校の扉、すなわち第3の学びの扉を拓けようとしている時代です。
全国には宮城、高知、東京、神奈川、群馬、三重、岩手の私立の養護学校に2~3年間の専攻科が設置され、2006年度には国立の鳥取大学附属特別支援学校に20歳まで学べる専攻科が開校されました。その他、専攻科を設置する高等学校も3校ありますが全国でわずか11校しかありません。考えてみれば一般の子どもたちの多くは短大、大学に行ける時代にあって知的障害の人たちこそ教育期間を延長させてあげたいものです。
 最近では高等部卒業後を受け入れる厚生労働省サイドの福祉事業所では通称「学びの作業所」と呼ばれる福祉事業型専攻科が15か所と急増しています。これは社会福祉法人やNPO法人が設置する作業所が、働く意味も理解していない子どもたちに、もう少し学習を保障してから仕事へ移れるようにと「生活介護」の制度を利用しての設置動向です。
私たち「専攻科滋賀の会」はこのアンケート結果を基に2009(平成21)年に組織を立ち上げ専攻科全国研究会とも連携し、滋賀県民のねがいである障害児の教育年限をさらに2~4年間保障することをめざして2009(平成21)年7月に専攻科滋賀の会を結成し、県下74%の熱い願いに応えた活動を積み上げる中で、専攻科実現をめざして2012(平成24)年1月にはNPO法人を取得し、社会福祉法人の経営者、障害児の保護者、県立施設の職員、養護学校教師、大学教授、県職員OB等で理事会構成をし、年間にはサンデー専攻科の実施、知事や市長との懇談、全国大会の開催等、積極的な活動を展開しているところです。

5、まとめ
 糸賀一雄さん生誕100年は教育、福祉、社会等多方面からの振り返りとその成果、そして明日に向かって乳幼児、障害のある人、高齢者など、社会的弱者と言われる人たちを真ん中に置いた地域社会、国づくりを再確認するとても良い機会として位置付けることが大切と思うとともに、人には言えない辛くて悲しい私の出生から今日までを重ねあわせつつ、残された人生の中で第3の学びの扉を拓けることを始めたことを書き込みました。
 言ってみれば糸賀一雄先生が私と言う人間にもこうした振り返りと現状、そして未来に向けての考えをまとめるチャンスを与えて頂いたのです。ご提案下さった糸賀一雄生誕100年記念実行委員会をはじめ、関係者の皆様に厚くお礼申しあげます。ありがとうございました。

                        2014(平成26)年、春
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