私たちは神の好意を得るために努力する必要はありません。 私たちはただ受け取って信じる必要があるだけです。
ローマの信徒への手紙 5:1-6 新共同訳
[1] このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 [2] このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 [3] そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 [4] 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 [5] 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 [6] 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
エフェソの信徒への手紙 2:8-9 新共同訳
[8] 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 [9] 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
今日の箇所で、パウロは美しい言葉を使ってキリストにおける信者の立場を説明しています。「私たちもまた、信仰によって、この恵みの中に自分が立っているのです。」(2節、強調追加)。 この恵みは、つま先がかろうじて濡れるような水たまりではありません。 どこまでも続く大海原です。 そしてそれは私たちが想像する以上に壮大です。
神の恵みは、信者が理解するために不可欠な概念です。 イエスの十字架上の犠牲が信じる者に赦しと救いを与えたので、彼は惜しみなく人類に恩恵を与えました。 しかし、多くの人は、自分が本当にやろうとしているのは神の優しさを得ることであるにもかかわらず、自分は神の優しさを享受していると思っています。 そして主は、行いが私たちを救うことはできないことを明確にしておられます(エペソ2:8-9)。
好意を得たり、神があなたを祝福し続けるようにするために神に仕えると、神の恵みの美しさが損なわれてしまいます。 神の優しさに値するようなことは何もできません。 彼はそれを信者たちに惜しみなく注ぎます。 ですから、愛する人よ、それを受け取り、あなたの努力が神に歓迎され大切にされている一方で、恵みはすでに与えられた賜物であることを知って、自由に生きてください。
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