平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。
5.島崎氏は400年もの長い間に渡って、なぜ生き抜けたのか?
島崎氏が島崎郷に住み着いた訳ですが、島崎郷はそんなに大きな領域ではありません。戦国時代の終り頃は、行方全体が2万6千石といわれております。これを分け合う訳ですから、石高としてはそんなになかったと思います。その中で生き抜けたのは、他の大掾氏にも言えることですが、隣近所が親戚、同族ということが大きかったかと思います。やっぱり隣人は大事にしなければいけない。そういうことです。
それ以上にまして、この霞ヶ浦と北浦に挟まれた半島状の地形、外敵を寄せ付けづらいという、地理的な条件があったと思います。その地理的な条件というのは、人や物や文化そういった物がもたらされる「水の道が」巡っている訳です。外海と繋がっている無限の道がそこには広がっている訳です。これは重要だと思います。戦国時代に島崎氏が急激な拡大を可能にしたのも、「水上交通路」とそれに連なる「津・港」を通して富を掌握して、行方地方の旗頭と呼ばれるまでに成長を遂げたと私は考えます。
最後に「まとめ」として。
島崎氏は、まだまだ不明な部分が多く、残念ながら、認知度も高いとは言えません。
それは、「古文書」などの文字史料が少ないことに起因しております。
今日述べてきた「考古学」の資料も、少しは蓄積してきました。そして、茨城県では「城郭の全県調査」という、すべての県下ですべての城を対象にした調査が開始されました。今後、縄張り図という図面も作っていくと思いますが、これが出来ると他と比較検討が可能になります。
それらを歴史学、考古学、地理学、民族学、分野を越えて知恵を出すことによって、地域に根ざした歴史が明らかになっていくのではないかと思います。
その時、重要になるのが歴史の証人である「遺跡」です。私、先程気分は戦国武将でしたと言いましたけど、やっぱりそこに立つということは、いろんな事を感じとることができます。歴史を積み重ねてきた場所に立って、過去を見つめるということは、すごく大事な事だと考えております。
大台城は失ってしまいましたけど、島崎城の中心部、外郭部の内野遺跡の周辺、それに、長山城がまだ残されていることは有難いことです。
まさに、戦乱を生き抜いてきた中世の人々からの「贈り物」です。未来を生きる私たちにとって、かけがえのない財産だと思います。最後になりましたが、それらを今日まで守り伝えて頂きました、地元の方々に敬意を表しまして、本日の話を終りとさせて頂きたいと思います。ありがとうございました。 (了)
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