「大膳池の大蛇のはなし」
昔、新原(麻生町)の黒駒池と赤須(牛堀町)の大膳池にそれぞれ大蛇が住んでいた。夫婦だったらしく二つの池を往ったり来たりしていた。
雨あがりの朝など、うねうねと稲や草が倒れ伏しており、田園の見回りや草刈りに出た人々をギョッと立ち止らせることも度々であった。
当時の大膳池は老杉巨松が天も暗く聳え、周囲には丈をかくす篠竹がビッシリと生え茂って人をよせつけなかった。日中、僅かに池の真中にポツンと陽が射す状態であった。
或る日、芝宿の髪床の主人が独りで大膳池へ釣りに行った。下草を踏みしき、笹薮を分けてやっと腰を下ろすと、いや釣れるワ釣れるワ、どうにもやりようがない程よく釣れた。
釣り師の深欲、釣れば釣れる程あとを引いて、日が暮れるのも気づかず、浮子が見えぬようになるまで夢中で釣った。やっと重い魚籠をかついでようやく帰ってきた。男は夕飯もそこそこに牛堀の髪床にゆき、今日の一部始終を語ってきかせた。
翌日、二人は一緒に出かけたが、あにはからんや、終日を池をにらんでいたがビクとも浮子は動かなかった。「オイッ、どうしたんだお前、昨日の話は本当だったのか…」などと気まずい思いで帰り支度をしている時、突如物凄い音がして池の中央が大きく盛りあがった。と、すさまじい大蛇が鎌首をもたげてカッとにらみつけ、たちまち水中にその姿を消した。
二人は血の気もうせて命からがら逃げ帰ったが、芝宿の男はその晩高熱を発し、ウワ言を言い乍ら死んでしまった。牛堀の男も其の後ブラブラ病いにかかって一年余にしてやはりあの世へ行ってしまった。
【牛堀町芝宿 内野健造氏のお話】
「私がこの話を聞いたのは近所の八十余才になる老婆からですが、そのお婆さんは、十六、七の頃、やはり八十歳位のお婆さんから教えられたものと言っておりました。ですから百五十年位昔には、これが話題となったものらしいです。御承知の通り今でも大膳池は一人でも行きたくない所です。
百年前にせよ、百五十年前にせよ、その当時の大膳池の状況を想像するのは、そう困難ではありませんですネ」
大膳池―牛堀町(現・潮来市)大字島須、赤須部落の北の山中にあり、一の池、二の池、三ノ池からなっている。(現在は茨城県水郷県民の森にある)
約七百年前、土地の豪族左衛門尉関川鉄幹が作ったものと伝えられている。
鉄幹は文永十年(1273年)後、「大膳院関川鉄心居士」の名によって「大膳池」と呼ばれてきたが、何時の頃から、なまったものか土地の人は大膳池と呼んでいる。鉄心居士の墓は池の北方、大膳屋敷と称されている山中にある。
鹿島開発の余波はすでにこの地にも及び、大膳池も、大膳屋敷付近も今大きく変わろうとしている。無論、この小さな昔物語りもあと幾年語りつがれることであろうか。苔むした鉄心居士の小碑はひとり流れゆく雲を眺め乍ら何も語ろうとしない。
飯島匡孝
参考文献 牛堀町教育委員会発行
「うしぼりの文化財」1970年 民族資料編
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます