「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

【寄稿文】武士の時代を築いた源氏の考証 第二編 (2/5 編構成)

2022-11-26 14:46:00 | 歴史
第 2 編 
第 1 編からの続きになります。(2/5 編構成) 
  
武士の時代を築いた源氏の考証  
(源平の騒乱で活躍した東国武士団) 
  
令和 4年 10 月 10 日 
森田 衛 (神栖市) 
生涯学習:源氏と平氏レポートより
  はじめに  
 もともと東国(関東)は源氏が基盤とした土地であり、源頼朝の父、義朝が鎌倉に館 を構え東国の豪族たちを勢力下に置こうとしたが、平治元年(1160 年)、平治の乱で源 氏が敗れると東国も平氏(平家)方の勢力で抑えられるようになった。 
 この頃の地方豪族たちは土地が命だった。そのため自ら開墾した土地を守るために 武装化したのが武士の起りとも言われ、彼らは自分たちの土地を守ってくれる武家の 棟梁を待ち望んでいたのだった。当初、それは源氏でも平氏でも誰でも良かったのだ が、結果的には源氏(義朝)⇒平氏(清盛)⇒源氏(頼朝)だった。 
 
武士の時代を築いた源氏の考証 第 2 編 
第 1 節 武士(平氏)の時代の幕開け 
第 2 節 流罪人・源頼朝の伊豆での生活 
第 3 節 以仁王(後白河法皇の第 3 皇子)の令旨と挙兵 
第 4 節 治承 4 年(1180年)都で反平家の狼煙が上がる 
第 5 節 運命の石
第 6 節 頼朝を助けた梶原景時 
第 7 節 頼朝の奇跡再起起
第 8 節 頼朝の挙兵に参陣しない佐竹氏国 
第 9 節 常陸国の佐竹氏の脅威 
第 10 節 頼朝による佐竹氏征伐 
第 11 節 両者の思惑が合致した鎌倉幕府 
第 12 節 強化される平清盛による源氏の追討 
第 13 節 木曾(源)義仲による平家追討 
第 14 節 倶梨伽羅峠の戦い 
第 15 節 治安の回復が出来ずに白河法皇と対立立第 16 節 平氏と源義仲、そして頼朝(義経・範頼)軍の三つ巴の戦い
第 17節 一ノ谷の戦い(治承・寿永の乱の一戦)と後白河法皇の策略 
第 18節 屋島の戦い
第 19 節 壇ノ浦の戦い
第 20 節 源氏内部での衝突 

武士(平氏)の時代の幕開け  
 まさに、「院政・貴族」の時代から武士による政治が行われる時代の幕開けとなるの が、源頼朝の「鎌倉幕府」であった。それは、世の中全体が平氏(平清盛)武士政権や 国家権力の朝廷・貴族への不満から自然と現れたものであろうが、結局の所、朝廷、 源氏、平氏の 3 者による勢力争いに過ぎない。 
 鎌倉幕府が開かれる少し前、日本国内は天皇以上に権力を持つ「退位した天皇(上 皇や法皇)」と貴族・平氏によって治められていた。 
この「院政」時代に勢力のある武士たちは天皇や貴族に仕え政治の中枢に現れるよ うな動きとなった。 
なかでも、「平氏」と「源氏」は特に力のある武家(武士集団)であったが、「平治の乱 (1159 年)」の勃発により源氏の棟梁である源義朝が世を去り、息子の源頼朝は捕らえ られてしまうのだが平清盛は生き残った源頼朝の命を助けて伊豆に罪流した。 
 頼朝が死罪を免れたのは鳥羽上皇の皇后待賢門院璋子と関係のあった頼朝の母 の実家・熱田大宮司家の奔走により平清盛の継母池禅尼に頼朝の助命を働きかけが あったからとされ、配流地が伊豆に決まったのは伊豆国が中央政治から隔絶しやすい 東海道からはずれた半島で政治犯を流すのに適していたことと平家の家人である伊 東氏の本拠があったからとされる。その際、流罪人・頼朝の監視役を任されたのが北 条義時の祖父・伊東祐親だった。 
 永暦元年(1160 年)に平氏が「平治の乱」を制すると、平氏・源氏の均衡した力関係 は一気に崩れ平氏へと傾いてき武士としての源氏の力は失われてしまった形になった。 

流罪人・源頼朝の伊豆での生活  
 「平氏が栄華を極めているころ、一方、源氏は、源頼朝が遠く離れた伊豆へと追放さ れ、これによって源氏は、中央(都)ではすっかり力を失ってしまい生き残った源氏一 門は各地で息を潜めて再起のチャンスを探っていた。 
平治の乱以後、平清盛に目をかけられた伊東祐親(すけちか)は伊豆国で一番の力 を持つようになっていた。
 伊東祐親に預けられた頼朝は、普通の罪人や東国武士団」 などとはかなり格が違い、当時の言葉で言えば「貴種(高貴な家柄に生まれた者)」」と言う ランクに位置した武士であったため罪人と言うよりは客人的な待遇で日々を送ってい たと伝えられている。
 頼朝は伊東氏のもとで 15~16 年間、14歳から30歳くらいまでを罪流人としての生 活を送り、その間に、伊東祐親の娘(八重)が頼朝の子(千鶴)を産んでしまったために 都(みやこ)での平家の手前、伊東祐親は激しく怒り、その子を川に沈め娘の八重と頼 朝の仲を裂き頼朝を館から追放した。 
 祐親は頼朝が将来末代の敵となるであろうと考え、後々の面倒なことにならないうち に殺さないといけないと考えて兵を集めて夜討ちの準備をしたところを伊豆の小・中豪 族に過ぎなかった北条時政の館にかくまわられ、その後の頼朝の面倒を引き受けるこ とになった。 
伊東氏と北条氏は姻戚関係にあり、伊東祐親の娘が北条時政の妻であり、祐親か らいえば北条時政は娘婿、時政からいえば祐親は義理の父に当たる関係だった。 
 祐親が兵を集めて頼朝の夜討ちの準備をしたとされているが、流罪人といえども頼朝は左馬頭源義朝の嫡子で、13歳にして右兵衛権佐という地方武士では到達し得な い官職に任じられた「貴種」であり、しかも平家から処刑が命じられることなく、既に 10 数年が過ぎていて、祐親のような一介の地方武士が勝手に頼朝の命を奪うことなど出 来るはずがないのである。そんなことをすれば伊東氏一族全体を危うくしかねない。 
 一方、頼朝の最初の子である「千鶴」を殺された頼朝の悲しみ、祐親に対する怒りを 覚えたのは間違えない。八重はもっと悲惨で、腹を痛めて産んだ最初の子を自分の父 親に殺された悲しみは計りしれない。さらに八重は祐親によって頼朝との別れも強要さ れ「江間次郎」に再嫁させられた。


    だが、北条時政に引き取られた頼朝は、今度は時政の長女・政子と結ばれることに なる。流罪人の源氏の嫡流頼朝との婚姻などは認められるはずもないが、当時、伊豆国の知行国主が源頼政で、頼政の息子(仲継)がその下の国司(国守)になっている 関係から北条氏と源氏はもともと繋がりがあったため、時政は驚いたものの平氏に近い 伊東祐親のように怒ったりせずに政子と頼朝の結婚を受け入れたことにより、伊東祐親と北条時政との関係はギクシャクすることになるのだが、結果的には頼朝は、伊豆で は中程度の規模の武士の北条時政を身方に付けることが出来た。 
 時政は京都との人脈を形成するために積極的・多角的に交流を行っていて上昇志 向の強い、いささか山っ気のある人物だった。 

以仁王(後白河法皇の第 3 皇子)の令旨と挙兵  
 治承 3 年(1179年)から時代は大きく動き始め、平清盛が武力クーデターによって 「治天の君」後白河院の院政を停止し、自分の孫にあたる「言仁親王(安徳天皇)」を 譲位させた。平清盛は天皇や貴族の信頼を得て出世を重ね武士として初めて「太政 大臣」という朝廷の最高職に就き、さまざまな政策を実行していった。 
 「平家物語」には、当時 66 ヶ国あった国の凡そ半分を平氏一門が支配したと述べて いる。平清盛は源氏を追い落とし、帝や朝廷までも意のままに操ったのであった。 これにより、清盛が率いる平家は栄華を極めたかに見えた。しかしながら、時が進む につれて平氏政権(平清盛)を快く思わなくなり不満が各地で起こりはじめて平氏打倒 をもくろむ武士たちが現れはじめた。 
 清盛は、藤原型貴族の持たなかった直属の兵力を持って極端な弾圧政策をとって その体制を維持しようとした。それは京都に於いても地方に於いても同じであった。 そして、露骨になっていき各方面との摩擦は地方の武士、特に関東北陸の士族の 決起の機会を与えてしまった。 
 そして、京の都でも平家に反発する動きが活発化し、その動きは全国に広がり、つ いに「以仁王(もちひとおう)の乱」が起こった。 
 以仁王は後白河法皇の第三皇子、「以仁王(もちひとおう:三条宮、高倉宮)」で、平 清盛の孫の安徳天皇が即位してしまったことに大きな不満を持ち、「平家の世はもうこ れ以上続けさせる訳にはいかない」と諸国に隠れている源氏に立ち上がれという決起 の命令書を密かに伝えていた。 
これが、「以仁王の令旨(りょうじ)」と言われるものであった。 
 『以仁王の令(旨皇太子や皇后、親王・諸王などの皇族の命令を伝える文書のこと)』 天皇の命令は「宣旨」、上皇の命令は「院宣」となる。』 
 治承4年(1180年)、これに応じたのが源頼政(みなもとのよりまさ)や延暦寺、園城寺、 興福寺の僧兵武力だった。源頼政は平治の乱では平清盛の味方をしていたのだが、平氏の横暴を見かねて「以仁王」の呼びかけに立ち上がったが「以仁王」と源頼政は 敗れ二人とも敗死し「以仁王」自身の平氏追討計画は失敗に終わった。   

治承 4 年(1180年)都で反平家の狼煙が上がる  
 「以仁王の令旨」により、頼朝は平家打倒の兵を挙げる大義名分を得たとはいえ、 20 年間も流罪人として過ごしてきた頼朝の周りにはわずかな手兵と北条時政父子など の他に信頼出来る兵力は殆どなかった。兵がいなければ決起などできるはずもなく周 りはほとんど平家方の勢力であった。 
 一方の平家も黙って見ているわけでなく、「以仁王の令旨」を受け取った源氏を全て 滅ぼすように各地の平氏に命じたという。この時、頼朝や時政は自分たちが追い詰め られつつあることを自覚したに違いない。 
そこで、頼朝が選んだ初戦は、まず伊豆国の目代の地位に就いていた平家の一族 である山木館を襲撃し山木兼隆を討ち取った。 
 さらに、山木郷の北には兼隆の後見役である堤権現守信遠がいて、これもまとめて 討った。これを「山木攻め」といわれ、辛勝ものだが源平開戦に於いて非常に重要な 一戦となった。 
 山木郷は北条から東に約 3 キロメートルの距離にあり奇襲をかけるには絶好の地で あった。この時、頼朝軍の兵力は北条父子、加藤景兼、堀親家、佐々木兄弟を中心に 30~40 名くらいとされる。 

運命の石橋山の戦いが幕を開ける  
 大庭景親らの相模国の武士たちが源頼朝を討つための準備を始めていた。そこで、 頼朝も座して死を待つよりはと挙兵を決めたのが治承4年(1180 年)であった。 頼朝は東国(関東)各地に使者を送って兵を募ったが、多くが様子見を決め込み、兵が集まらない中ではあるが頼朝と時政は挙兵するしかなかった。 
 頼朝は、関東の武士に「身方をしてくれたら、土地を支配する権利を与える」と呼び かけ、この時、北条氏の他、土肥、土屋、岡崎ら中村党、三浦党ら 300 騎が頼朝に身 方についた。こうして、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐見祐茂・天野遠景・佐々 木盛綱・加藤景廉など、当時頼朝の下に集まっていた者を一人一人部屋に呼んで丁 寧に言葉をかけたという。 
 相模中央部には平家方の大庭景親、俣野景久兄弟が居たため、頼朝軍はまず土 肥実平の本拠であり、同族の中村景平、土屋宗遠らの本拠にも近い土肥郷に入り小勢でも大軍に対抗できる山と海に挟まれた地、石橋山に陣を取った。 これに対し大庭景親の平家方3,000騎を率いて谷 一つ隔てた地に陣を敷い た。 
 また、伊豆から頼朝を追 ってきた伊東祐親率いる300余騎が、頼朝軍の裏側 の山に陣をとった。 
 

    一方、大庭景親の丸子川 (酒匂川)まで軍を進めてき た三浦氏は、夕暮れになっ ても雨による増水のため渡 河できずにいた。 
安の定、闇夜の風雨の中、頼朝軍の 10 倍もの相模の平家方を大動員した大庭景 親軍 3,000 騎に散々に打ち負かされて頼朝軍は大敗し逃げ廻り、平家方の厳しい探 索のなかで洞窟「鵐の窟(しとどのいわや)」に潜んでいた所を、敵方の梶原景時に気づ かれたが、景時は頼朝を見てみぬ振りをして立ち去った。 
 土肥実平を供として真鶴崎へ落ち延び、身一つで頼朝主従七騎(安達盛長・岡崎 義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱)は命からがら真鶴から小船で脱出し 安房(千葉県:鋸南町竜島)へ渡った。 
 頼朝が安房国を目指した理由は、房総は最も源氏色の濃い土地柄で「安房には安 西、丸、神余氏」/「上総には上総介広常」/「下総には千葉介常胤」らで源氏恩顧の豪 族らがいて、三浦氏の勢力下である現在の鋸南町周辺が最も頼朝にとって逃亡先とし ては安全な場所だったのではないだろうか。 

頼朝を助けた梶原景時  
    梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ一族で大庭景親氏とは同族と思われ、大庭氏ら とともに源氏(源義朝)の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従 っていた。 
 頼朝による鎌倉幕府開設後には、石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用さ れた。景時は、当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌や、「武家百人一首」にも 選出する人物で、壇ノ浦の戦いの際には、源義経とは対立したものの、頼朝の信任が 厚かったため鎌倉幕府成立後は侍所所司(次官)の官職となった。

頼朝の奇跡的再起  
 安房渡海後の頼朝の再起には目をみはるものがある。まずは、石橋山合戦に間に 合わなかった三浦氏との合流を果たせたことである。 
 三浦氏は頼朝の敗戦を知って本拠の三浦に戻る途中、畠山重忠らの軍勢と交戦し、 いったんは退いたが態勢を立て直した畠山勢の攻撃で惣領の三浦義明が討たれ、本 城の衣笠城を追われた。 
 水運を持ち房総にも勢力を伸ばしていた三浦氏は、その後、船で安房に逃れ、頼朝と合流することができたのだった。 
 また、兼ねて協力を約束していた千葉常胤率いる千葉氏も参向した。さらに、東国 (関東)随一の勢力を誇る上総広常も服従し 20,000 騎を率いて頼朝の基に参陣した。 特に上総広常の参向は頼朝の再起を大きく決定づけた。 
 このように、しだいにふくれあがっていく当時の兵の様子を実感させる地名が現在の 千葉県にはたくさん残っているのだという。千葉県道 88 号の周辺には五十騎橋(百不足)とか百坂、三百騎坂、千騎森(南房総市犬掛千葉森)など房総の武士が我も我もと 馳せ参じた軍勢の集まりを感じさせる。頼朝は常胤、広常らの船に同乗して大日川・住 (墨)田川を渡り武蔵国に入った。 
 百騎坂は現在、徒歩でのみ通行が可能で、「百坂(ももさか)」という地名が現在も残 されていて、三百騎坂は現在通行することができない。 
頼朝の前にまず立ちはだかったのが、江戸館(後の江戸城)にいた江戸重長だった。 頼朝は重長説得を試みたが頑として受け入れない重長に、身方になった葛西清重を 使い、ようやく足立遠元、豊島清元、葛西清重、河越重頼、江戸重長ら武蔵の武士を も糾合した。頼朝は、三浦一族を説得して、石橋山で三浦と戦った畠山重忠の参向も 許した。 
 頼朝令旨を受けて各地の源氏が挙兵し、頼朝軍は石橋山の合戦でこそ敗戦を喫し たが、これをきっかけに各国から武士団が集まり、34歳の源頼朝は数万騎の軍勢を従 い鎌倉に入った。 
 これは、石橋山の戦いで大庭三郎景親の率いる平家軍に大敗してから、わずか40 日余りの奇跡的再起であった。頼朝による鎌倉幕府は東国(関東)の武士団によって 創られたものである事が分かる。 

頼朝の挙兵に参陣しない佐竹氏  
 常陸太田方面(北茨城)の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂 東・那珂西)を当時、支配していた常陸国北部の佐竹氏に頼朝は自分に従うように使者を出し、東国武士団の帰属を図ったが、佐竹2代当主隆義・秀義父子が平清盛に 与して頼朝に叛旗を翻した。佐竹氏と協力関係にあった常陸南部地方の豪族も一時 は佐竹氏に同調した。 

常陸国の佐竹氏の脅威  
 富士川の戦いは、治承 4 年(1180 年)10 月、駿河国富士川で源頼朝・武田信義と 平維盛が戦った合戦で、平家との前戦(石橋山の戦い)で敗れた源頼朝は安房国で 再挙し鎌倉入りに成功。
   一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取 に成功した。その両者が駿河国で合流し都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦 い勝利し、頼朝は南坂東、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での割拠を確立さ せた。 
 頼朝は、富士川で追討軍を追い返した後、一刻も早く平清盛を討取り平家から政権 を奪い源氏の世界を早急に創ろうとして、その勢いで京の都に上ろうとしたが、上総介 広常は、頼朝にはっきりと「京都に上りよりも東国をしっかり固める」べきだと進言した。 
 それは、俺たち(広常たち)関東武士は、都(京都)などは関係ない、今現在の自分達 たちの領地を守れば良いことを意味していた。 
 そこには当時、広常と庶兄の伊西常景や印東常茂との間で上総氏の家督を巡る内 紛が起こり、この兄弟間の抗争は頼朝挙兵の頃まで続いていたと推測される。 上総介広常は 2 万騎を率いて頼朝の軍に参陣したため自分の領内が手薄になっ ていて京に上っている暇などなく、一刻も早く自分の領地に戻り自領の安定を図らな ければならない状況にあった。 
 関東八州の中で、ほぼすべての国が頼朝に帰順したとは言えず、常陸国北部の佐竹氏のように平家方の立場を崩さない集団もいた。 
 そのため、追討軍を追って一気に京に上洛しようとする頼朝に対して、上総、千葉、 三浦氏らの進言で、それよりまず関東の平家方・佐竹氏の征伐を主張した。 広常はその佐竹氏とも姻戚関係があるもののその勢力は絶大で常に脅威でもあった。 
 また、その背後には奥州藤原氏もいて、そんな中で東国を皆が一斉に投げ出して 京に向かう事など現実的ではなかった。 
 これまでの「都」思考の頼朝にとっては、鎌倉などは一時的な軍事拠点に過ぎなか ったのかも知れないが、関東武士団の意見を入れ鎌倉を本格的な政治・軍事の拠点、 いわば「武家の都」とする決断をした。これは鎌倉に幕府が開設されるに至る大きな決断であった。 
 もっとも関東の武士団にそっぽを向かれたら頼朝自身は、なにもできない事を理解 していたに違いない。しかし、頼朝が関東で時間を費やしている間に、甲斐源氏(武田 信義)が一気に上洛して功を独占される事が非常に悔しく思えたことであろう。 
 また、平治の乱で生き別れとなり、奥州藤原氏の3代目当主秀衡のもとにいた実弟 の義経(牛若丸)が頼朝と再会したのもこの時期だと推測される。 
頼朝は義経とは初対面に近かったが、秀衡の軍事的な後援を期待して快く義経を 受け入れた。 

頼朝による佐竹氏征伐  
 治承四年(1180年)11月、源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げると、 関東の武士はこぞって馳せ参じ、各 地の源氏も頼朝に足並みをそろえて 立ち上がった。 
 しかし、頼朝の勢力圏に接する常 陸国の清和源氏でありながら佐竹氏 は明確に反頼朝の立場をとった。 
 そのため佐竹討伐を決し、鎌倉を立ち常陸に兵を進め、頼朝軍が常陸国府(石岡市)に到着すると佐竹氏に使者を送った。 
 

 当時、佐竹の城主は佐竹隆義であったが、隆義は京へ出仕中であり国元の城は隆 義の子(兄・義政、弟・秀義)の二人が守っていた。 
 兄の義政はやや頼朝に恭順の意を表明していたが、弟の秀義は反頼朝の立場を 示した。そこで、兄・義政は縁筋にあたる上総介広常の勧めで頼朝との会見のために 「11月4日、国府(現石岡)」に向かったが園部川に架かる大矢橋で広常に謀殺されて しまった。 
 弟、佐竹秀義は頼朝の勧告を退けて金砂山城(常陸太田市)に立て篭り頼朝軍の 3,000 騎を迎え撃った。山上に築かれた要害堅固な金砂山城を攻略するのは頼朝軍 でも容易ではなかった。 
 しかし、3,000 騎の兵を目前にして佐竹氏側も苦戦を強いられ佐竹軍は頼朝の軍勢 を相手に一進一退の戦いとなった。
 結局、金砂山城は頼朝に攻め落とされ秀義は城を脱して山深い花園山城(北茨城 市)に逃げ込んだ。秀義の子の中には藤原秀衡をたより奥州に逃げ込んだ者もいたが 頼朝はここで攻撃を止め深追いをすることはしなかった。 
 なぜかと言うと奥州まで攻め込むと奥州藤原氏との戦端を開くことになるからであっ た。当時の頼朝にはそれだけの力はまだ無かったと言える。 
 この戦いの後、それまでに確保していた奥七郡および太田・糟田・酒出などの所領 を没収され佐竹氏の勢力は潰滅し、佐竹氏の旧領には頼朝の腹心(宇佐美氏、二階 堂氏、伊賀氏、千葉氏)が各郡の郡地頭として配置された。 
 佐竹氏は、御家人としての待遇も得られず逼塞を余儀なくされ、佐竹一族は源氏の 一族でありながら平家に与したための処遇であった。 
 平家が壇ノ浦で滅亡するにおよび,佐竹秀義は窮地におちいった。 だが,佐竹家来らの嘆願により秀義の頼朝への帰順が認められ,所領は返還され た。佐竹の本拠が馬坂城から太田城に移ったのはこの頃のことである。 
 頼朝は佐竹氏の征伐以降は鎌倉に戻り、その後の平家追討・滅亡がなり、奥州攻 めまで頼朝自身はついに一度も鎌倉を出ることはなかった。 
 つまりこの後の平家滅亡まで戦ったのは頼朝の家人の義経達であり、頼朝は武士 の頭領として遠く鎌倉から統率することになる。 

両者の思惑が合致した鎌倉幕府  
 上総氏、千葉氏、三浦氏は、この機会に所領をめぐり代々の宿敵である相手を、大 義をもって討つことができ、自分の利益を最大限に引き出せる頼朝という源氏の輿を 担ぎ出したのかも知れない。 
 一方の頼朝も流罪人の身であり、元々一兵の軍事力も有さず東国武士団を掌握し、 その力を利用して鎌倉に武家の独立国家を創った。それが鎌倉幕府だった。 土地を仲立ちにした「御恩と奉公」で頼朝と御家人達は強く結びついた。 源頼朝と東国武士団の両者の思惑が合致したのだった。 

強化される平清盛による源氏の追討  
 頼朝挙兵の報は、治承4年(1180年)9 月に大庭景親より福原(神戸)へもたらされ た。平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定するが、追討軍の編成は遅々として 進まず、平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは10月12日だった。
 京に入ってからも総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬ のことで悶着があり京(都)を立つのが遅れてしまった。 
 平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で数万騎の勢力に拡大し、さらに頼 朝とは別に甲斐国では甲斐源氏が信濃国では源義仲がそれぞれ挙兵していた。 
 追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで 7 万騎(『平家物語』)の 大軍となるが、所詮は寄せ集めであり折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、 士気は非常に低かった。 
 治承4年(1180 年)10月、富士川で追討軍が頼朝に追い返された後、平清盛は平 重衡を園城寺攻めに向かわせ、重ねて南都をも滅せとの命令を与えていた。 園城寺は以仁王と源頼政を匿おうとした源氏ゆかりの寺であった。 
次に平清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。  清盛は背後の脅威を一掃することを決め重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12 月 28 日、興福寺・東大寺など南都の諸寺を焼き払った。 
確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では 数千もの市民を犠牲とし同地方にある大仏の殆どを焼失させる惨事となったため平清 盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。 
 この事件で平家にとって暗い影を落とす結果になった。 
清盛は京都を中心に新体制を築こうと畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。 そして畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。 
 さらに、陸奥国の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。 
そんな中、清盛は、治承 5 年(1181 年)2 月 27 日に熱病(マラリア)に倒れ、10 日ほどそばにも寄れぬ高熱に苦しみ、鴨川東岸にある盛国の屋敷で死亡した。享年 64 歳。 清盛は死を目前にして「今生の望み、一事も思い置く事はない。 
 ただ、伊豆国の流人、源頼朝の首を見ることができないのが不本意であり、我が死 んだ後は、供養塔もたてず、仏事法要も行わなくてよい。直ちに討手を差し向け、源頼 朝の首を刎ねて我が墓の前に供えるべし。 これぞ今生の供養である」と言ったという。 
 京都の人々は清盛の死に対して、「悪行の報いが来たぞ」、「寺社を焼いた報いで ある」とささやいたという。 

木曾(源)義仲による平家追討 
 木曾(源)義仲は源頼朝にとって従弟にあたる。頼朝の父、義朝の腹違いの弟の義賢の子であった。義賢が義朝のそねみを買って殺害されたため、義仲は信濃権守中 原兼遠に引き取られた。その後、兼遠の娘(巴)を娶って長男義高(11歳)と共に木曾 にその勢力をのばした。 
 

 だが、平家打倒の決起を促した源行家(源為義の十男)が、源頼朝から追い払われ ると行家が木曾義仲を頼って身を寄せたことで頼朝と義仲の関係は悪化した。 武力衝突寸前となるものの義仲が 11 歳の嫡子・源義高を人質として鎌倉へ差し出 したことで両者の和議が成立した。 
 その後、平氏から源氏の時代へと変わる転換期に木曽(源)義仲は、源頼朝よりも先 に平氏追討の動きを見せ、平氏を追い詰め上洛を果たすなど華々しい活躍をした。   

倶梨伽羅峠の戦い  
 寿永2年(1183年)5月、源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた倶利伽 羅峠の戦いでは、平家軍が寝静まった夜間に攻撃を仕掛け平家軍は倶利伽羅峠の 断崖から次々に谷底に転落して壊滅させ 10 万もの兵を失った。 
 そして、加賀国へ退却した平家を追い、続く篠原の戦いにも勝利した義仲軍は破竹 の勢いで京都を目指して進軍した。 
大軍を失った平家は都の防衛を断念し、安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して 西国へ落ち延びて行った。[都落ち] 
 
治安の回復が出来ずに白河法皇と対立  
 京に上洛した源義仲は、連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、京 中守護軍は源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍で義仲 の部下ではなかった。 
 そのため義仲の統制がとれる状態ではなく、また、大軍が都に居座ったことで食糧 事情が更に悪化し、皇位継承への介入したことで後白河法皇と源義仲は不和となって いった。 
 そこで義仲は後白河法皇に平氏追討に向かうことを奏上。それにより多少の苛立ち と緊張が解けた法皇は自ら剣を与え出陣させたのだが、法皇は源頼朝に東海・東山 両道諸国の事実上の支配権を与えると、義仲の出陣と入れ替わるように、頼朝に上洛 をうながした。 後白河法皇は平氏と源義仲、そして源頼朝を三つ巴に戦わせて三者 の動きがとれないように画策したのだった。 
 寿永3年(1184年)1月に木曽(源)義仲は源氏で初となる征東大将軍に就任した。 「征「東」大将軍(玉葉説)も征「夷」大将軍(吾妻鏡説)もほぼ同等の役」と言っても木曽 義仲の場合は就任から約1年後に命を落すことになるが、武士による初代の征夷大将 軍が源頼朝ではなかったことになる。 
 後白河法皇は京都まで一緒に戦ってきた源行家など木曽(源)義仲の仲間達を 次々と自身に取り込み木曽(源)義仲を孤立させた。 
 統制力の取れない義仲軍を解体させ、さらに法皇としては、あまり友好的な関係に なれなかった木曽義仲を切り捨てて源頼朝軍(義経)らを仲間に迎え入れようとしたの だった。 

平氏と源義仲、そして頼朝(義経・範頼)軍の三つ巴の戦い  
 木曾(源)義仲の平氏追討軍により、平氏の都落ちによって実質的に政権を握った 後白河法皇に対し、頼朝は朝廷工作をしきりに画策したため両者は急速に接近し、義 仲が西国へ平氏追討に向かっている最中に源頼朝の軍門である源義経らの上洛を 許可し、範頼・義経らに平氏追討の院宣が下された。 
 後白河法皇は頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器の奪 還を命じる「平家追討の宣旨」を出した。さらに、平氏の所領 500 ヵ所が頼朝へ与えら れた。 
 しかし、功績のある自分(源義仲)よりも後から出てきた源頼朝を重宝しようとする後 白河法皇の対応を木曽義仲は許すことはできず、法皇からの扱いに不信感を募らせ た義仲は西国の平家追討から引き返し、寿永3年(1184年)後白河法皇を討つため、その御所である「法住寺殿」を襲撃し法皇を幽閉するが源義経、源範頼軍の追討に合 い木曽義仲は命を落とした。 

一ノ谷の戦い(治承・寿永の乱の一戦)と後白河法皇の策略  
 追討宣旨を受けている平氏側は、源頼朝・木曾(源)義仲の源氏同士が争っている 間に勢力を立て直した。平氏は、寿永3年(1184年)同年 1 月には大輪田泊に上陸し て、かつて平清盛が都を計画した福原(神戸)まで進出していた。 
 平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配して数万騎の兵力を擁するま でに回復し、同年 2 月には京奪回の軍を起こすことを予定した。 
寿永3年(1184年)2月、福原(神戸)では麗々しく清盛の三回忌の仏事がとり行わ れていた。福原(神戸)で清盛の三回忌法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇か らの使者が訪れて和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。 
 平氏一門がこれを信用してしまい警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決した との説があり、源氏が勝利するように後白河法皇が画策したとも言われる。 

※ 双方の一ノ谷での合戦の勢力は、 
・平家軍勢力 : 平知盛 8〜10 万騎 (有力武将の死者多数で大損害) 
・源氏軍勢力 : 源 範頼 勢 56,000 騎 
・源氏軍勢力:  源 義経 勢 10,000 騎 
 一ノ谷の戦いで源義経軍による「鵯越えの坂落とし」戦法により、平家軍の混乱が波 及して逃げ惑う平氏の兵たちが、海に逃れよ!船にたどり着いて馬を捨てよ!と船に 殺到して溺死者が続出し平知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立ち遂に敗走を始 めた。 
 安徳天皇、建礼門院ら、沖合いの船にいた総大将の平宗盛は敗北を悟って屋島(四 国:高松)へ向かった。 
 こうして、平氏は屋島に内裏(だいり)を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦 島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握 り諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。 

屋島の戦い  
 一方の鎌倉方(源氏)は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻め に踏み切れずに休戦状態が続いた。 
 一ノ谷の戦い後、源範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになり源頼朝は、後白河法皇 に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。
 寿永 3 年(1184 年)7 月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種 の神器がないまま後鳥羽天皇を即位させた。これにより朝廷と平氏は完全に決裂した。 一方、京に留まっていた源義経は、後白河法皇に引き立てられ 9 月には従五位下 に昇り、10 月には昇殿を許されるなど後白河法皇との結びつきを強めていった。 
 源氏は頼朝の弟・範頼に 3 万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍 の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有す る平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなっていた。 
 この時の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の田開発により陸続きに近くな ったが、今なお相引川によって隔てられている)。干潮時には騎馬で島へ渡れることを 知った義経は強襲を決意し、寡兵であることを悟られないために周辺の民家に火をか けて大軍の襲来と見せかけ一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。 
 海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて屋島と庵治半 島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。 
 渡邊津(瀬戸内海沿岸で最大級の港湾。「窪津(九品津)」)から出航した梶原景時 が率いる頼朝方の大軍が迫り、屋島の陥落により平氏は四国における拠点を失ってし まった。 
 範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り平氏軍の背後の遮断に成功し、 九州は源範頼の大軍によって押さえられたために平氏は彦島に孤立してしまう。 そこへ、義経は水軍を編成して最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになった。 
 この屋島の戦いでは、平家の挑発による竿の先の扇の的を射た那須与一のエピソ ードや、激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げる「弓 流し(平家物語)」などの逸話が現代にまで言い継がれている。 

壇ノ浦の戦い  
 文治元年(1185 年)に長門国赤間関壇ノ浦(下関市)で行われた戦闘で栄華を誇っ た平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。 
 平家は 500 艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを 挑んだ。 
 一方、源義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など 840 艘を味方につけて平氏水軍を撃滅すべく戦いに望んだ。 
  
源氏内部での衝突  
 源氏の合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は 自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。大将の 器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、このことが、後の景時の頼 朝への讒言、ひいては義経の没落につながったとされる事件の一つでもあった。 
 源氏の範頼軍は 3 万余騎(「源平盛衰記」)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞 ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。 
 時間とともに潮の流れが反転し義経軍は、これに乗じて猛攻撃を仕掛け平氏の船 隊は壊乱状態になり勝敗は決した。 
 平家物語では、敗北を悟った平氏一門の武将、女性たちや幼い安徳天皇が次々 に入水して行く壮絶な平家一門滅亡の光景を描写している。 
 この戦いで、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位尼とともに 入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した。(諸説あり) 平氏(伊勢平氏)の平清盛一族は 25 年(1160 年代 - 1185 年)にわたる平氏政権の 幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権 を確立させるのであった。 


以降、「武士の時代を築いた源氏の考証」の第 3 編へ続く・・・。

≪参考文献(引用文献)≫ 
・その後の東国武士団 :関 幸彦 
・鎌倉殿と執権北条氏 :坂井孝一 
・源氏と平氏 :渡邊 保 (明治大学教授) 
・源氏と坂東武士 : 野口 実 
・文藝春秋、ニッポン教育再生会議:出口治明、呉座勇一 
・文藝春秋記事 : 本郷和人(東京大学史料編纂所教授)、同、本郷恵子 ・源氏と平家の誕生 : 関裕二 
・月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクション ・平氏と源氏」の人物・合戦がわかる本 (PHP 文庫)  
・教育情報サイト 日本の歴史特集 : 門川 良平 
・源氏と平氏 (日本歴史新書):渡辺 保 
・鹿島市ホームページ:源頼朝の台頭と鹿島氏 
・保元・平治の乱関係図 世界の歴史マップ 
・家系図作成専門会社 家樹 : 田代 隆浩(画像) 
・Yahoo 画像引用 
・玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所資料 
・鎌倉殿と執権北条氏 : 坂井孝一 
・鋸南町ホームページ 
・フリー百科事典『(Wikipedia)』 
・一般財団法人 刀剣ワールド財団資料 
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 
・比企一族の歴史 郷土学部 B班 :木村誠 
・吾妻鏡 :竹宮 恵子 
・オレたちの鎌倉殿 :西股総生 
・清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 :濱田 浩一郎 ・鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算 :濱田 浩一郎 

 尚、「島崎城跡を守る会」の会員様の内部学習の基礎資料の一部にお役立てできれ ばと作成したものであり、筆者は、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のものであ るため、種々の文献やイラストを大きく引用させて戴いておりますこと、ご了承下さい。 また、内容に誤った記述がされている部分等につきましてもご了承下さい。 

令和 4年 10 月 10 日 
 森田 衛 (神栖市) 「源氏と平氏」 生涯学習レポートより 「武士の時代を築いた源氏の考証」の第 3 編へ続く・・・。



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