島崎城跡を守る会の副会長。長谷川幸雄氏より寄稿されましたので紹介します。
寄稿文 『島崎氏・島崎城』の考証
令和元年6月1日
島崎城跡を守る会
副会長 長谷川幸雄
●はじめに
昨年、「島崎城跡を守る会」が80名余りの賛同者に依り発足し、城跡の環境保全美化を目指して、草刈り・伐採等を約20数名の会員で昨年は4回程行いました。
その都度きれいになり、城跡の大堀・物見台等が姿を現してきており、大堀跡の底を1Km位歩いて一周できる状態に前進しております。
さて、今回はハード事業と併行して、ソフト面での島崎城の調査活動を実施しました。
約400年前の島崎城を取り巻く状況の把握は、当時の史料もなく正確性も欠けますが、次の三点の項目を主眼として検証調査しました。
- 所伝(家臣とする家に残る言い伝え等)
- 物証(書類として残る現存するもの・石碑墓石等に刻まれたもの)
- 軍記書の信頼性(島崎盛衰記・行方軍記後世鏡)
●所伝(主に家臣の子孫と称する家系で語り継がれている)
1.大子で島崎氏が殺害された時に黒馬に乗っていたので、その後島崎村では黒馬は飼わない。
現代は黒いクルマの自家用車は乗らない。
1.島崎氏が萩の塀から鉄砲で撃たれたので、萩の塀は結わない。
1.島崎氏が2月9日に殺害された為、正月には餅は食べない風習が今でも続いている。
1.落城の際に家臣が大井戸に「金の鶏」等の宝物を投げ入れた。
1.落城の際に盆栽の松の銘木を城下の田に投げ入れ「お投げの松」として語り伝えられた。
※お投げの松 昭和30年代迄、田の中に生育していた。
太く地べたを這うような銘木であったことを覚えています。
●物証(信憑性のある書類として残る現存するもの・石碑墓石等に刻まれたもの)
1.潮来市延方の吉田神社の古い神輿を修理解体の際に、島崎彦四郎(左衛門尉)という人物の寄進であるとの墨書が発見された。
1.和歌山の高野山に常陸の大名島崎左衛門尉等の帰依による寄付名称の石碑がある。
1.鹿島神宮の夏の例大祭の大使役を三度務め朝廷の使者を供応した。(鹿島神宮蔵書)
1.鹿島城主を下総に追い払う。(鹿島神宮蔵書)
1.十三代島崎長国の代に、芝宿地区に長国寺を建立した。(現存)
1.小田兵乱の際(1550年)島崎軍は20丁の鉄砲で従軍。
1.豊臣秀吉が小田原(北条氏)制圧の際に、佐竹氏と共に秀吉に拝謁して佐竹軍の幕臣として太刀一振りと馬一頭を寄進する。(常陸国侍所着到控)
1.佐竹氏の招きで大子で殺害された島崎氏の供養塔が現存している。(大子町頃藤地区)
1.殺害当時、近隣の寺の過去帳に島崎殿父子として記帳されている。
(常澄六地蔵寺・内原和光院寺)
1.落城の際、島崎氏の年少の息女は家臣と共に江戸に逃れ、旗本・岡田家との縁を持ち現存し島崎家の系図と家伝の宝物を保持している。(東京)
1.落城の際、島崎氏の年少の子息は家臣と共に多賀郡日立に逃れ一党を成し、佐竹氏国替え後は水戸藩に島崎氏の子孫であると申告している。(茨城県歴史館蔵)
1.島崎城落城後、佐竹家は島崎領地の平按な運営を目指し、小貫頼久を代官として島崎の家臣の中から3名(坂・井関・茂木家)を選出し各々50貫を与えた。(秋田佐竹藩家士録)
●軍記書の信憑性の検証(島崎盛衰記・行方(なめかた)軍記(ぐんき)後世(のちのよの)鑑(かがみ))
現在、この軍記書は潮来地区に1軒、八代地区に2軒、麻生の根小屋地区に1軒、行方地区に1軒の計5冊が現存していることが判明しております。
1.軍記書の作者が不詳である。
1.軍記書の書かれた年代が、島崎城の廃城後200年を経た江戸時代に作成されており、また幕末迄の期間に度々書き写されており、記述内容についても不一致の箇所があります。
1.軍記書の内容の検証
島崎氏の生産石高は一万五千石と推定しますと、動員兵力は300名から400名と予測
できます。港(津)からの冥加金が別にあり幾分かの傭兵が居たと思われます。
戦場に向かう配分表では、家臣に約40家が記されており、領内の女・幼少の人を除いて一家当り、5人~6人の兵員を充当できれば250人位が推定されます。
それに傭兵として(船頭・寄留者・日雇い者)100人を加えて、350人~400人の軍団と推定できます。
島崎盛衰記では何千人の兵士が動いたと記述されていますが、ありえないと考えます。
1.島崎盛衰記では、長国寺墓地にある多賀の島崎家子孫が、1707年に建立された島崎左衛門尉の供養碑の内容を否定しており、理解に苦しみます。
1.島崎盛衰記では、地方豪族の島崎氏の家臣団に対して地方官名の名称をつけておりますが、当時(室町時代)そのような習慣はなかったと考えられます。
1.この軍記書は、当時、系図書きとする文化人(風流人)が豪農の家に逗留して、家の歴史を書いて報酬を得ていた時代の作品と思われます。
島崎盛衰記・行方軍記後世鑑の軍記物は、書かれたのが江戸時代の町民文化の最盛期にあたり、家系の名誉を誇る系図等が人々にもてはやされた時代の産物だと思われます。
以上、独断と偏見で検証と致します。
最後に、城であれ館であれ、その当時にあれだけの規模の土木工事を何百年もかけて築き上げた「島崎城跡」は、私たち潮来市民にとって素晴らしい誇るべき文化遺産であることは言うまでもありません。
※令和元年6月時点での考察であり、新たな史料や初伝等の情報が得られましたら考察して改訂版を発行させて頂きます。皆様から情報提供をお待ちしております。(長谷川幸雄)
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