「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

南方三十三館の仕置」鹿行の文化財3月号掲載記事の紹介7回目

2021-07-10 18:40:42 | 歴史

「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。

南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)

7.常陸大掾氏と鹿島神宮祭礼の大使役

 新編常陸国誌の文の中で最も気になるのは、「各自立ノ志ヲ抱ケリ」の部分である。広辞林によると、自立とは「服従の関係を脱して自主の地位に立つこと」、自主とは「他の保護または干渉を受けず、自力で処理することができること」とある。

 鹿島・行方の各館主達は皆がそのような考えを持ち、共に行動していたことになるのである。「服従の関係を脱して他の保護または干渉を受けずに自力で処理」していく状態とは、あらゆる面で一個の独立した氏族(勢力)とみることができるのではないか。そう考えると、自分たちの領地を治めていくだけの領主としての権威・権力が必要だし、更には経済的な基盤がしっかりしていることが不可欠の条件になると思うのだが、果たしてそれらを満たすものはあったのだろうか。

 そのヒントになるのが鉾田町史研究会「七瀬」十号からの引用になるが「2. 南方三十三館とは」のP26上8行から12大掾・鹿島一族は交替で鹿島神宮の大使役を務めており、地位を認められ保護・尊重されていたこと、また、鹿島・香取の海周辺では富裕の人々が多く存在したように、水運や商取引の利益や棟別銭や営業税収入は大きなものだったに相違なく...」の部分である。「 」 内の文は「大掾・鹿島一族は...」となっているが、同時代なのであるから勿論「大掾・行方一族」も同じように行方郡内で活躍していたことは間違いないのである。

 そこで、まず、大掾氏一族がその権威を誇り、権勢を維持できたとされる鹿島神宮祭礼の大使役について見ていきたいと思う。

 鎌倉時代の中頃、行方郡に定着した行方氏は、景幹の四子以来、郡内の諸郷村に急速に広まり、勢力を拡大していった。その後、行方氏は鹿島神宮の祭事や造営等に関与することで支配を安定させる。とりわけその支配権の確立に影響を与えたのが、鹿島神宮祭礼の鹿島大使役だったのである。

 鹿島大使役とは、鹿島社の七月十日、十一日に実施された大祭の祭使を勤める役である。鹿島社の七月の大祭は、中世鹿島社の 一千百以上に及ぶ大小神事中、一月の白馬(あおうま)節会と並ぶ最大の伝統的祭事であり、その起源は平安期に由来するものであった。

 寛弘四年(1007)の「道長公記」、更に後一条天皇の寛仁元 年(1017)九月には一代一度の奉弊が定めらた(「左経記」)。 その後、寛仁四年(1020)関白藤原頼通は去る長和六年(1017)に内大臣に任じられた慶賀に藤原能隆を使として鹿島に詣で (「小右記」)、治安三年(1023)には右大臣実資は大臣に任ぜられたので藤原経孝を鹿島に遣わした⦅小右記⦆である。

 このように鹿島使は、遠く畿内より道路の険しき、風俗習慣の違い等々途中の危険をおかして東国鹿島に下向したのである。朝廷や時の権門藤原氏が鹿島神宮をいかに崇敬していたかが分かる。更にまた、鹿島神宮及び鹿島の氏人たちがいかに藤原氏と関係が深かったか、そうして藤原氏を媒介として神威を伸ばし、氏人たちが自分たちの住む鹿島の地の安全を図り発展せしめたかを知ることができるのである。

 その後、朝廷ではそれまで続いていた律令制度が崩壊し、国家財 政が悪化したために、長寛元年(1163)の詔によって鹿島使等の奉弊使を遣わすことを中止した。この奉弊使に代わって、国司代より使いを遣わして神を祀るようになった。(尾張藤浪真野氏「神国類聚」)これを大使役(大祭使役)といった。また、鹿島長歴の建久四年(1163)の頃に、鹿島社造営行事のことに対する東鑑、税所文書、行方泰陳状等によるに「この七月十日、十一日の両日の大祭は国司の祭であり、年中の大祭で、大掾大使目官使としてともに 勅使に準じ鹿島に赴き、祭を勤める...」とあり、大掾職が勅使の代理として毎年大使役を務めるようになったのである。このように大使役は、大掾氏一族のみで勤仕され、他氏の介在を全く許さないものであった。

 大掾氏はこの大使役を一族の巡役で勤めている。常陸大掾は「七家七郡地頭」と称され、鎌倉初期に有力七家によって構成されていた。この七家が大使役を七年に一度、順番で勤仕する体制をとっていた。七家とは、国府(馬場)、吉田、行方、鹿島、小栗、真壁、

 東条の各家である。現存する記録によると、大使役は建長元年以降真壁=小栗=吉田=東条=鹿島=国府=行方となっており、以後規則正しく行われている。大使役の巡役体制は、源頼朝の在世中にすでに開始され戦国時代まで続いていたのである。

 重大な役割を担ったようである。鹿島大使役は、行方四頭に一族統 この大使役の勤仕者は、在任中に一時的に国衙の大掾職に任命さ 合のために有利な状況を与えたのであった。各頭は、大使役に任命され、鹿島へ赴き祭使として大祭を執行した。一方この大祭の費用は されると、行方郡役を催促し、更に自分の勢力下の諸郷から郷役を鹿島社領に特に設定されず、大使役を勤める大掾氏一族の供出に依リ徴収して大祭の祭使を勤めたのである。但し、この大使役も天正 存することが極めて大きかったようである。(水野類「鹿島大使役と常陸の大掾氏」「茨城県史研究」四十二号)

  このため、大掾氏一族は、一族の居住する郡、郷から郡役、郷役 〈「鹿島神宮 堀田富夫著」「玉造町史」「麻生町史」「茨城町史」> を徴収できる特別の権限を持っていたと推測される。郡役、郷役とは一郡、一郷単位に一律に賦課される課役で、大掾氏一族は、大使役に決定すると彼等の居住する郡、郷へ郡役、郷役を課税して大使役の資金を捻出したものと思われる。

 大掾氏一族で大使役を勤仕する者の支配地では、一時的ではあるが郡、郷役と大使役の二重の負担を負うことになったから経済的負担は大きかった。しかし、大使役の勤仕は必ずしも七家が一様に実施したわけではなかった。小栗、真壁、東条、国府の四家はほぼ一族の惣領のみが勤仕、吉田、行方、鹿島の三家は郡内の庶子家に分担させている。この三家で大使役を分担した者を「頭」と呼んだ。「常陸大掾伝記」によると「鹿島六頭」「行方四頭」「吉田三頭」と見える。「鹿島六頭」とは鹿島、徳宿、立原、沼尾、宮ヶ崎、中居の六家。「行方四頭」とは小高、島崎、麻生、玉造の四家、「吉田三頭」とは吉田、石川、馬場の三家である。

 行方氏の場合、小高氏を中心に四頭が順番は不同であるが、一様 の間隔で行方郡役を勤めている。頭は大使役の勤仕という一大神事を通じて郡内に拡大した一族の中核的地位を占め、リーダーとして重大な役割を担ったようである。鹿島大使役は、行方四頭に一族統合のために有利な状況を与えたのであった。各頭は、大使役に任命されると、行方郡役を催促し、更に自分の勢力下の諸郷から郷役を徴収して大祭の祭使を勤めたのである。但し、この大使役も天正十九年、常陸大掾氏一族が佐竹氏に滅ぼされるに及んで完全に断絶したのである。

「鹿島神宮 堀田富夫著」「玉造町史」「麻生町史」「茨城町史」参照   ⇒つづく



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