◎島崎落城島崎家始末並に諸士退散の事
斯(かく)て、島崎家の諸士一所に会合し評定しけるは、主君儀幹公横死を遂げ給い、杖柱(つえはしら)と頼みし若君迄打死し給いて、当家の運命も最早是迄也。
我々死すべき期来れり。
然れば迚(とて)皆々残らず討死せば、主君御父子御跡弔い奉者有まじ。
如何すべきと衆議区々(くく)なり。時に、大平・土子は、諸士の棟梁(とうりょう)として上席に在て、今諸士申旨を聞、進出申しけるは、各の評定逸々(いちいち)至極なり。
主恥辱らる時は臣死すと云う。今此時也。
面々思程戦うて、泉下(せんか)にて君思を報ずる事、勿論なり。
然、さながら、敵将佐竹義宣を万(よろず)も恨(うらま)ずして闇々(やみやみ)討死せし事返す返すも無念なり。
死すべき命なれば、如何にもして義宣に近付鬱憤(うっぷん)を散する。
謀計(ぼうけい)社、あらまほしく在るや、夫のみならず先達て、坂隼人姫君を伴(ともない)奉(たてまつり)武州退去の音信も閲(けみ)す。
如何渡らせ給らん、夫死は一旦にて易し。生は遠くして難し。
姫君の御先途も見、当家再興計議を廻らさば、死に優る忠義共成べし。
然んば、迚(とても)今引退んとせば追打せられて助る者、壹人も有間敷(あるまじく)なれば、今宵夜討に佐竹勢を追拂い、面々の勇を顕(あらわ)し切破(きりやぶり)、大生台を責取り心易く退散せん。
如何と申ければ、大生紀伊守、此由を聞、両人の意見高論(こうろん)なり。
城内へも此由、申通し時節を見合せ、当家再興の計議を廻らさるべしと衆議一決し、既に夜討に事決定しける處に、小貫大内蔵進出、各の申さる所高論なりと雖(いえども)、夜討に押寄ん事然(しかる)可(べ)からず。
惣而(すべて)、夜討は敵の備無き不意を討て社(こそ)勝利をも得すめ、中々佐竹勢油断す可らず。
敵の堅陣に攻入り、無謀の合戦せば却て敗軍し無念を重る道理也。
同くは戦かわずして和を乞はば、佐竹勢定めて悦(よろこび)て承伏す可し。
今、味方微(び)運(うん)の勢にて、佐竹の大敵に当り墓々敷(はかばかしく)合戦成可とも思わねば、能々(よくよく)思慮を廻し、当家再興の計議社(こそ)然(しかる)可(べ)く存也と、侫(ねい)弁(べん)を振いくるめければ、皆小貫の利口に惑され今宵の夜討は止みにけり。
大平・土子・鴇田・柏崎・大生等の諸士、心を一致して夜討に押寄なば佐竹勢如何に勇猛なれば迚(とて)一溜(ひとたまり)もなく敗す可きに惜(おし)哉(かな)。
小貫が侫(ねい)弁(べん)に惑わされ心疑て一決せず。
其議ならば明日未明に有無の勝負を決、存亡を極む可しと衆議定まり、皆々最期の酒宴をなし明日社一世の勇を現わし、生死を極む可しと陣所陣所へ帰りける。
兎(と)にも角(かく)にも、島崎家徴運の程社悲けれ。
小貫大内蔵(おおくら)兼て佐竹へ志を通じ妨(さまたげる)をなし己が功に成さんと、島崎家の幕下に属して乍(ありながら)有、儀幹を偽通し死地に入らしめ飽足らずして、今又諸士の義心を挫(くじ)き、大事の夜討を妨ぐれど、誰有て心附者なきは、天運の然らしむる所成んと覚て是非もなき事ともなり。
偖(さて)又、佐竹勢は、島崎徳一丸の討死の由を聞て大に悦び左エ門督・淡路守・丹波守会合し軍議評定し、淡路守申けるは敵軍主将無くして墓々(はかばか)敷(しき)合戦する者有まじ。
其上、大略大生原へ出陣せしなれば、城中は小勢ならん。
今宵朧月の暗きに紛れ、島崎へ密に押寄攻討なば必定。
然乍(しかしながら)、当表の敵本城の変を見ば、早速馳帰加勢すべし。
其手配を定め責寄可しと申ける。
時に、丹波守申(もうす)様(よう)、淡路守は先日の戦に未(いまだ)手痛き戦も仕(つかまつり)給(たまわ)ねば、皆々新手の鋭卒なり然ば、手勢二千五百余騎を引て島崎へ押寄攻付給へ、某(それがし)と左エ門督は二手軍兵六千余騎は当手の軍勢を押い、壹人も島崎へ通すまじ。
左有ば手分をす可しと、佐竹淡路守は二千五百余騎にて、大生台の城を出て西北を廻り、道して島崎へ押寄んと用意をなす。
車丹波守は二千五百余騎にて、忍々(しのびしのび)に人数を敵の後に 廻し所々に埋伏して、島崎勢引返んせば喰留んと静まり返りて控たり。
左エ門督は、三千余騎にて敵返んとせば、追討になし前後より引包て討取らんと、用意逸々定る頃は、天正十九年二月十四日、月は有れ共朧月の暗きに紛れ、思々に出勢す。
島崎城中にては姫君を武州へ退かしめ、若君は出陣し給えば双方の使、如何と日々待暮しける處に、十四日の晩景、若君徳一丸既に討死の由、敗軍の士卒馳帰て演じければ、城中の諸人大に驚き大生原の合戦未分らざる内に、徳一丸討死有ては、佐竹勢勝に乗じて当城へ責来らん。
暫も猶予せらる可からずと持口々を固め、土子・大平・柏崎・菊地等評定して一先奥方足弱の人々を何へ落し参らせ、我々当城へ残り留り、思う程戦うて討死すべし、と一決して奥方於里(おさと)の方へ斯(かく)と申しければ、然らば先当城を落延び姫君が先途(せんと)をも尋ね、当家再復の時の至るを待たん。
何方へ落可(おちべ)しと申されければ、敵四方に充満しつれば容易にては叶まじ。
併(しかし)鹿島路の方は敵未だ廻るまじきなれば、是より潮来の方へ掛り舟にて鹿嶋へ退かれ、然るべしとて、茂木左門・鬼沢傳四郎御共にて、女中四・五人雑兵共彼是(かれこれ)七・八拾人、上戸の方へ出板(いた)久(こ)の方へと落行ける。
斯有處に、佐竹淡路守西北の方を廻り、茂木に着や否(いなや)、 閧(かちどき)を発し無二(むに)無(む)三(さん)に責掛る。
菊地河内守・柏崎主水士卒(しそつ)を励し、爰(ここ)を先途(せんど)と防ぎ戦う。
淡路守頗(すこぶる)下知(げち)を傳え、手ぬるし旁(かたがた)何程の事あらん、我に続けと自分真先に進み、大身の鎗(やり)雷光の如く閃(ひらめ)し、前を拂い後を詰させ飛鳥の如く突進は従軍何かは疑義すべき哉。
城を目掛堀を飛越え、塀に取付者をば切落し突落し、弓・鉄砲を以て隙なく防ぐと雖(いえど)も、佐竹の大軍潮来(しおけ)漲(みなぎ)るが如く、既に城門に乗入らんとす。
城兵是を見て何時の時をか期すべきぞ、死(しね)や者等此敵を打崩せと、柏崎主水・土子美濃守・菊地河内守を始として、土子彦兵衛・小貫助左エ門・内田主税・窪谷八左エ門等の鋭卒二百余騎、真先に備、城門八文字に押開き、湿雲の雨を帯て幕を出るが如く、どっと喚(わめい)て突掛る。
佐竹勢是を見て、諏訪や城兵打出たるぞ、十方より押取込て討て取れと、僅(わずか)の城兵を追取巻て討んとす。
菊地・柏崎・土子等の面々七転八倒して死力を盡(つく)し、東西に当り南北を拂い、手負猪の荒廻るが如く、人馬雑兵嫌なく当(あたり)を幸(さいわい)、向(むかう)者の真向切ては、仰(あおぎ)けるに叩き倒し、迯(にげ)る者の肩先突ては、うつ伏させ聚散(じゅうさん)離合(りごう)の手を砕き、一世の驍(ぎょう)勇(ゆう)を顕(あら)わし薙(なぎ)立れば、佐竹勢大軍成と雖(いえど)も死憤(しふん)の猛勇当り難く、前後左右に切り崩され、三町計引退く、此(この)隙(すき)に手軽く勢を纒(まと)め、城内へ引入城門厳敷(きびしく)閉じ、一息継て居たりける。
佐竹勢、又備を立直し曵(えい)々(えい)声を揚げ突進めば、土子越前守・大平主馬・新橋五郎右エ門・同作助・横山戸平・同孫四郎・小浪源兵衛等入替て敵を入らじと、死力を盡(つく)し防ぎ戦う。
佐竹勢、是非乗入らんと木戸打破り、手負死人を乗越飜(ひるがえ)越え命限りと責入れば大平・土子隙なく下知をなし、韋駄天(いだてん)の如く駈廻り下知を傳うると雖(いえど)も、佐竹勢大軍にて、爰を防がば彼所より、堤を越る洪水の如く中々防ぎ留まる事叶わずして、本丸指して引退く。佐竹勢弥(いよいよ)勝に乗じて短兵急に責立る。
城兵皆々、本丸の広庭に集まり一息継て居たる處に、早、陸続(りくぞく)と進来る。
土子・大平・柏崎・菊地等討残されし者等百餘騎、今一度思う程戦うて討死せんと銘々得物を引提げ、溢れ掛る佐竹勢に、面も解らず真し(まっし)暗(ぐら)にどっと懸入(かけいり)、七縦八横に切て廻り、卍(まんじ)巴(ともえ)に配を顧みず、薙(なぎ)立れば寄手乗入事能(あた)わず、牙を噛て控えたり。
斯処に返(かえり)忠(ちゅう)の者や有。
釼(つるぎ)又騒動の紛れに手(て)過(あやまち)や仕たりけん。
屋形の奥座敷の方より火発り、ぼっと燃上る。
城兵驚き火を消んとすれば、寄手得たり、畏(かしこ)しと、猶々(なおなお)激しく攻立る。城兵防ぎ兼ね、今は是迄なり。
面々手並は見せたれば、是より如何にもして囲を突破り、時節を見合い、主家再興の計議を為す可しと残兵七・八十人計一(ひと)塊(かたまり)に成て、大山の崩るるが如く切先を揃え、必死と成て突出す。
佐竹勢、我討留んと八方より追、取巻と雖(いえど)も事共せず。
勇を振うて薙(なぎ)立れば、寄手勇なりと雖(いえども)必死の強兵に突崩され、近寄者は中を開て通しける。土子・大平・柏崎が輩(やから)は、戦を好まざれば敵の追ざるを幸(さいわい)、一條の血路を開き難し、囲を切抜け一息発と継ぎ最早(もはや)是(これ)迄(まで)なり、何可へ成共身を忍び時の致るを待つ可しと、己が種々落行けり。
偖(さて)も於(お)里(さと)の方は、茂木・鬼沢と共に上戸潮来の方へと落往けるに、何處より廻りけん。
敵前路に塞(ふさが)り討留めんとす。
供の面々太刀の鞘を脱し、切拂い道を求め潮来の方へ尋(たず)ねり。
行く於里の方も、身自ら長刀(なぎなた)を打振り、敵に渡合(わたりあい)辛(くる)しく七・八町落巡けるに、供の面々或は討れ、或は深手を負、所々に隔(へだて)られ終に十人計に成にける。
猶(なお)も道を索(もと)め落行處(おちゆくところ)に、潮来の方に白簱一流浪風に飜(ひるがえ)し、其勢百余騎計も有らんと覚ゆる程、控たる様子なれば、迚(とて)も遁(のが)れず處也。然し運は天に在。
成る可く程は遁(のが)れ行かんと道にもあらぬ山野厭(いと)わず足に任せて迯(にげ)行けるに、次第次第に敵の声も距(へだ)りしかば、今は心易しと一息継其處此所と見廻す。
畠の邉(あたり)の芝竹の生茂る所に皆々腰打かけ、暫く休息して居たりけるに、供人漸(ようや)く尋(たずね)来たり。
十人餘なれども残らず手負にて少しは休みし故(ゆえ)、痛出し苦しむ有様は泥に息する魚の如く、夢に夢みし心地して、茫然として居たりける。
大生原島崎の方は、何れも敵押寄たりと見えて、閧(ときのこえ)矢(や)叫(さけ)ぶ音天地に響き、最も胸おぞ冷しける。
斯(かく)有處に島崎落城仕たりと見え、火光炎々として忽(たちまち)白昼の如く成りしかば、矢(や)竹(たけ)心(ごころ)も弱り果、惘(あきれ)・惑(まどう)計(ばかり)也。於里の方人々に向かい、其方達是属従(つきしたが)い、我先途を見届呉候事、予も嬉しく存候也。
此思、何の時の世にか報せん。
我成丈け生、存命姫が成行を見んと思共、斯く数ケ所の手疵(きず)を蒙(こうむ)りぬれば中々落行事叶まじ。
強に敵に捕られ恥を晒(さ)らすよりは、此處にて自害す可し。
汝等は如何にもして迯(にげ)延び、我菩提(ぼだい)を弔え呉よと云置、事も是限り、跡の事頼入と調、の下より早くも長刀取直し、我手に咽(のど)を掻(かき)切(きり)給(たま)えば、属(つき)従(したがい)いし者共周章(しゅうしょう)留んと為る間もなく、こと切れ給えしかば、泣々死骸を畠の邊(べ)に埋め匿(かく)し黒ロ(くろ)髪(かみ)を切拂い行(ゆく)衛(え)も知れず、落行もあり、共に自害するものあり、種々様々に成にける。
斯(かく)て、佐竹淡路守は島崎城を攻落し、焼跡に陣を張り、猶(なお)残当を平治せんと、牛堀上戸の方迄諸軍勢を分け遣し、厳敷(きびしく)相守りける。斯有事とは知らずして、去十日武州へ伴たる坂隼人、姫君を本田家へ頼み、今は心安し、一刻も早く帰り安堵させ参らんと、夜を日に継て急しかば、十五日昼過る頃、牛堀に着せしに、早島崎落城の由を聴き大に驚き怒り、我一人なる共、敵を切り散し泉下に思を報ずべしと、主従僅に七・八人上戸の方へ行かかりしに、佐竹が従(けらい)を見ると等しく抜連ねて掛り、死憤の勇を振い前後左右当を幸い突散し薙(なぎ)廻ると雖(いえど)も、敵は大軍味方は僅に六・七人にて、心は矢竹にはやれ共、叶う可様もなく、残らず討死したりける。
斯(かく)て大生原にては、軍(いくさ)は明日と思い定め皆々熟睡して有ける處に、島崎家の方にて閧(かちどき)天地を響かし、鉄砲矢叫(やさけび)の声聞えしかば、大に驚き騒き馬を太刀よと犇(ひしめ)き漸(ようや)く備を設け、島崎の方へと馳進む所に、車丹後守、宵より所々に埋伏し待設たる事なれば、思も寄らぬ所より鬨(とき)を発し、前路を取切り責立る。
大生・柏崎真先に進み、是非切破り馳付んと、阿修羅王の荒たる如く、怒(いかり)猛って切て掛る、丹波守一巻りに突立られ、散々に敗走す。
島崎勢得たりや、唯と大波の打掛るが如く、勢に乗て掩(おお)討處に、後の方を取切て鉄砲を打懸け、鬨(とき)を発し餘(あま)さじと責寄る。
大生・柏崎大に怒り、何程の事か有らんと取て返し、追拂わんとすれば今迄迯(のが)し、佐竹勢、忽(たちま)ち備を立直し岩に当て打返す波の如く、どっと鬨を作りかけ、前後より追取巻段々に詰(つめ)る。
大生・柏崎、前後の敵に取込られ、突破らんと歯噬(かむ)をなし、左右を拂い前後より当り、七転八倒して戦うと雖(いえど)も、其堅き事鉄桶の如くにて出る事能(あた)わず。
時移る迄、戦う處に巽(たつみ)の角より敵軍色めき立、右往左往に散乱す。
大生・柏崎万死を出て、漸(ようや)く一條の血路を開けば是則、土子・鴇田の救出せる也。島崎勢一所に集り、一息継て又もや馳行んとするに、大平・窪谷が勢佐竹左衛門督と戦い、軍難儀(なんぎ)の様子見えしかば叶まじと、大生・柏崎・土子・鴇田、曵々の声を揚げ突掛れば、左エ門督の備浮定め成て四・五町計追立られ、島崎勢、左エ門督を切崩し、勢に乗じて島崎へ馳帰らんとする處に、嶋崎一面に火となり、白昼の如く燃上がりしかば、最早落城と覚えたり。
馳帰る共詮(せん)無かる可し。如何せんと、諸軍勢勇気も挫(くじ)け、溜息継て控ける處に、島崎城の敗兵馳来り。
防戦すと雖(いえど)も、敵軍厳敷(きびしく)責(せめ)立(たて)、其上城内より出火故早落城に及。
宗徒の将士、皆討死せしや行方なり無し趣語りければ、さしもの強勇の島崎勢も酔るが如く、茫然として居たりける。
斯有処に小貫大内蔵進み出、諸士に向い申けるは、先々も申せし如く此孤軍にて佐竹の猛勇に当る共、如何ぞ勝こと能(あた)うまじ。先、佐竹家へ使を立て追討なからしめん様になし。
心安ぞ引退き、姫君の御先途(せんど)を見届け時を待て、主家再興の計略社(こそ)、有まほしく存也と申しければ、諸士此義に同し、然らば誰をか此使に(つかわ)さんと座中を見合せ居ける処に、大平・土子言葉を揃え、此儀は小貫大内蔵、先程も申せし事なれば大内蔵を遣(つかわ)し然可(しかりべし)と、則小貫を呼、足下(そっか)佐竹の陣に赴(おもむ)き、首尾能く事を計う可し、と命じければ大内蔵委細掌領し、皆々心安かれ、某弁舌を以て佐竹勢、討手なからん様にす可しと頓(ぬかずき)て打立、左エ門督丹波守の陣所に行い斯(かくして)とれば両将小貫を陣中に呼入れ対面しけるに、既に島崎城落去すると雖も宗徒の勇士大生原に陣し、快よく最後の合戦をし、面々の首御陣に取らるるか、又貴将方の首を取って討死するか、有無の勝負を決し鬱憤(うっぷん)を散ぜんとの評議既に決して今最期の酒宴をなし居らる。
然るを某弁舌を振い、利害を解き降参せしめん事をに大方は、同心の様に相見え候得共(そうらえとも)、未だ一決せず。
某を使として、安否を問わしむ。願くば、某が今度の功に換(かえ)て諸士の命を助け、心易く退散せしむる様に取計え給る可し。
此儀、御承引(しょういん)無きに於ては迚(とても)遁(のがれ)る間敷(まじく)を知て、必死の勇兵心を一致して働きなば、勇々(ゆゆ)敷(しき)大事に及ぶべし。
今度速に御許容有に於ては、自然と勇気も撓(たわ)み、譬(たとえ)勇兵成共、主将は亡命し城は陥(おちい)り度人心(じんしん)になり誰有て再び簱を動かし候者有可からず。
能々(よくよく)御思慮有て、其願御許容下さる可しと申しければ、両将聞届、尤(もっとも)の願如何にも聴き届けたり、神妙なる足下の申状そのむね速に太田へ注進に及ぶ可し。然らば一刻も早々帰参して諸士に申し聞かせ心易く退散せしめ、足下再度この処に来る可しと大内蔵悦び勇み、早速島崎の陣所へ馳せ帰り佐エ門督、丹波守の書状を渡しければ諸士始めて安堵の思いをなし、皆々種々思う所へ落ち行きける。
退散の次第を具(つぶさ)に物語れけば、左エ門督、丹波守、然らば陣拂いして太田へ帰陣せんと両将小貫を伴い、太田へ帰陣し義宣に斯と言上しける。
義宣、大に悦び早速小貫を召出され、御盃を賜り仰けるは、汝が今度の働を以て、我多年の本懐を達したり。然上(しかるうえ)は、汝を以て島崎領の代官となす可し。
是より大生台に赴き城を守り、島崎家の諸士叛逆違乱なき様に心を掛けて鎮(しず)むべし。
汝ならでは此大任勤(つと)むる者あるまじ。
能々相守り候(そうら)得(え)と仰(おうせ)られ、外に五百石賜り、五十石宛の与力廿人足軽を添え、大生台の城を預けらる。
大内蔵謹(つつしみ)て承り、冥加(みょうが)に餘り有(あり)難(がたき)旨御受申て、御前を退き、其り大生台城普請(ふしん)して移住し、島崎領の代官として支配を勤む。
さしも数代の家たる島崎家此時に当りて、断絶に及びたる事悲しけれ。
偖(さて)又、佐竹淡路守は島崎城に化(うつ)して、残党を平定し、夫より大生台迄引退き、大田よりの下知を相待ける處に、再度、車丹波守四千騎を卒し、淡路守を而(もって)力を併せ行方郡残らず平定すべき旨申渡されければ、丹波守畏(かしこみ)て早速出勢し、大生台に到り斯(かく)と申達し両勢都合六千餘騎、麻生・行方へと押寄る。
然るに麻生・玉造・行方の者共は、島崎最早落城して佐竹の勢は破竹の勢なれば、何程の勇を振う共、所詮防戦叶うまじと、或は落失せ又は降参し、中にも戦んとする者は、両軍大勢にて責立れば、何かは以て留る可き。
六・七日の間に行方郡残らず平治しける。
夫より佐竹禰(いよいよ)猛勇を振い双(たぐい)なき大身(たいしん)と社(こそ)成たりけり。
島崎落城島崎家始末並びに諸士退散の事(了)
島崎家由来巻終
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