堀之内大台城」の紹介 ~島崎城落城後に佐竹氏により築城された~
文禄3年(1594)、佐竹領国にも太閤検地が実施され、翌年この結果に基づき豊臣秀吉から545,765石9升にのぼる“朱印状”が与えられた。これは当時全国8位にランクされる大名となった。このうち行方郡の総石高は26,371石である。これをもとに佐竹氏は、家臣に知行の割替えをし充行状を発給した。この時から行方郡南部は、重臣小貫大蔵丞頼久に委任され、大台城がその本拠となった。
大台城の築城は文禄4年(1595)に開始され、慶長元年(1596)に完成した。完成までの数年は落城後の島崎城を改修して使用していたもので、発掘調査によると食料、武器が島崎城にそのまま放置され、数多くの五輪塔、宝篋印塔、板碑などが大台城の暗渠材等に転用されたようだ。
落城から築城に至る空白の時期に、秀吉の朝鮮出兵がある。文禄元年(1592)、領国経営の中心地を太田城から水戸城へ移したので、佐竹氏にふさわしい城下町づくりが急務だった。
城郭の整備、邸宅づくり、家臣の屋敷の建築、商工業者の町割り、鍛冶や鑓造りなどの職人集めなどさまざまな新規事業に追われたことだろう。
大台城は霞ケ浦に面し、行方台地の先端を占有し築城された。一曲輪を東南に二曲輪三曲輪が連郭され、周囲は版築の土塁と犬走りというテラスがめぐらされた。空堀などはないが、北側の二曲輪へ続く屋根には堀切が穿たれている。一曲輪の西側の凹地に囲まれた一面は、枯山水の庭園が営まれ、一段高い所は主殿であった。櫓、城門もあったが、大台城は東国においてはほかに類のない舶載青花、青磁、茶陶、瓦器をはじめ、鉄砲の部品と鉄砲玉などが出土している。
佐竹氏にとって新領土とした鹿行地方に対しにらみをきかせようと、当時にあっては最新の技術を導入して築城、威圧を示すに充分な大台城であつた。しかし、慶長7年(1602)佐竹氏は秋田へ転封され、わずか7年間にして敢えなく幻影と化した。 (ふるさと牛堀の歴史より)
※堀之内大台城跡は、現在、潮来市立牛堀中学校が建てられており、校門脇に大台城跡の記念碑が建てられております。
また、発掘調査で得られた史料をもとに、主殿が同じ茨城県坂東市にある「逆井城址」に復元されております。
堀之内大台城 一曲輪想定復元模型 (牛堀公民館蔵)
復元された堀之内大台城の主殿(逆井城)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます